夏の日
じりじりと焼け付くアスファルトの上を、やや下向きながら歩いていた。いつも通り図書館で時間を潰したとはいえ、まだ16時を回ったくらいの時間では、暑いという言葉以外何も出ては来ない。明日から始まる夏休みをどう乗り切るか。毎日、家と図書館の往復はさすがに考えてしまう。
「はぁ……」
こういう時、帰宅部というのは考え物だ。受験まではあと一年あり、本格的に勉強を始めるには早く、かといって家には私の居場所はない。友達もろくにいない私には、長い休みは苦痛でしかない。
汗が、頬を伝う。まるで涙のようなその汗を持っていたタオルで拭った。いつ変わるとも分からない、田舎の長い信号は、余計に気を滅入らせた。
「姉さーん。遅かったんだねぇ」
ふいに後から声をかけられた。振り向かなくても、誰かは分かっている。
同じ時間に帰らないようにしていたのに、今日は本当に運が悪い。
「ねー、無視しなでよぅ」
やや上ずって、甘えたような声。他人から言わせると、この声もすごく似ているのだという。ただ、しゃべり方や抑揚が全く違うだけで。
「別に無視しているわけじゃないけど」
「でもなんか冷たいし。なんか、怒ってるのー?」
「怒ってはないわ。ただ、姉さんと呼ぶのをやめてって、言っているよね」
「なんだ、そんなこと。まだそんなこと言っているの? 戸籍上は瑞葉が長女なのだから別にいいじゃない」
「そういう問題じゃないでしょ」
「えー。何それ、じゃ、どーいう問題なのょ」
小馬鹿にしたように、妹の瑞希は鼻で笑った。
睨みつけるように後ろを振り返ると、そこには私となんら変わりない顔がある。姉、妹と言っても、私たちは双子なのだ。一卵性双生児。顔も声も、背の高さもほとんど同じ。
この子にあって私にないものはなんだろう。私はいつも鏡を覗いてはそんなことばかり考えていた。髪型など同じにしてしまえば、親でも見分けはつかない。それなのに友達もほとんどいない帰宅部の私と、活発でテニス部の瑞希。同じようでそのすべてが全く違う。
別に羨ましいわけではない。そう、羨ましくなんてない。私は、私がしたいように生きているのだから。いつものように、そう言い聞かせた。
「ねぇ、夏休みはどーするの? また図書館?」
「別になんだっていいでしょ」
「何だって良くないよー、家族なんだし。そうそう、母さんが、今年は花火が見える旅館に泊まりたいって言っていたの知ってるぅ?」
「……」
「あれー、母さん、姉さんに言うのを忘れたのかなぁ。もう1ヶ月くらい前からずっと言っていたのに」
クスクスと笑う瑞希の声に、かばんを持つ手に力が入った。それでも、絶対に表情は変えない。この16年で覚えたことだ。どんなに嫌なことであっても、悲しいことであっても、表情を変えれば、惨めになるのは自分だから。
「そう……」
私は何も言われていない。母親に誘われることも、予定を尋ねられることもなくなったのは、いつの頃からだろうか。当時はあまりの悲しさに、よく一人で隠れて泣いていた。そんな時期すらも通り越してしまえば、なんとも思わなくなるのだ。私は家族の中の空気でしかない。ただ、そこにいるだけ。それでもタダで居させてもらっているのだから、文句を言うわけにいかない。高校を卒業するまでは。成績がいくら良くても、大学まで行く気はない。元より興味がない私の進路など、両親は気にすることはないだろう。だからこそ、高校を出たら家を出て働くつもりだ。そうすれば、やっと解放される。それまであと少しだ。
「あ、青になったよー。早く渡っちゃお」
ややうつむいて、ぼんやり考え事をしていた私に瑞希が声をかけた。先ほどの問など、もうどうでもいいようなにこやかな声で。
「やだぁ、雨降ってきたしー。傘ないのに、最悪」
信号を渡り始めたあたりで、ぽつぽつと雨が降ってきた。先ほどまでせわしなく鳴いていた蝉の声は消え、アスファルトから雨の匂いが立ち込める。
「もー、急がないと」
瑞希が小走りで信号を渡りだす。つられるように走り出した私の目に、横から来るトラックが見えた。向こうの側の信号はまだ赤だ。それなのに、携帯か何かに気を取られているのか、トラックがスピードを緩める気配はない。嫌な予感と共に、自分の周りのすべてがスローモーションで進みだした。トラックに気付かず、ただ後ろを振り返る瑞希。その瑞希の手を必死に掴み、引き寄せた。瑞希はいきなりの行動に文句を言うように、ただ顔をしかめる。しかし私はそれを無視して瑞希を抱き止めた。
ドスーンという大きな音が耳をつんざく。
目の前が一瞬真っ暗になり、濡れたアスファルトに接している背中が冷たい。その逆に抱き抱える瑞希は温かかったが、ぴくりとも動かない。ぼんやりとする意識が、その冷たい地面に溶け込んで行くようだった。瑞希を助けることが出来たのか、助けられなかったのか。今の私にはそれすら確認することは出来ない。体は痛いという感覚を通り越し、もう何も分からないのだから。
「……なんで……」
そう疑問を投げかけた声が自分の物だったのか、瑞希の物だったのかそれすら分からず、全ては暗闇の中に飲まれていった。