第8話 形に残るもの
俺が倒れた後、気がついたら俺はまたベッドの上に寝ていた。
そうして意識を取り戻すと、すぐ傍らに婆ちゃんの姿があった。
「おや、晴。起きたかい」
いつもと変わらない口調。
久しく聞いていなかったその声に、今度は本当に涙が出てきた。
「あぁ……ただ…ぃま…」
未だはっきりと発する事のできない口で言う。
ただいま。
「うん、おかえり」
婆ちゃんが返す。
よかった、ちゃんと伝わった。
周りの看護師さんはまるで何年も会ってなかったかのような言い方の俺に対して視線を送っていた。
まあ、無理もない。
実際そうなのだから仕方ない。
「おや…」
目の前の婆ちゃんが口を開く。
「晴…あんた、顔つきが男らしくなったねぇ」
「………え?」
まぁ、数年間も死と隣り合わせの戦いをしていたのだから、険しい顔つきになるのも自然なことだろう。
だが、それは向こうの世界での話である。
この世界の俺は寝たきりだったのだから、むしろやつれたような感じの筈だが…。
「あ……あぁ…そう…かな」
「段々あの人に似てきたねぇ」
あの人とは、無論死んだ祖父の事だろう。
「…………」
それ以上話が続けられなくなり、俺は話題を変えた。
「そう…いえば…俺…が…ぃない間…飯とか、どうしてた……?」
「あぁ、そうよー。お隣の車田さんが、とても良くしてくださってねぇ」
「そ、そうか…」
あまり体も動かなくなっている祖母が、俺のいない間どうしていたのか、向こうの世界でも心配していたのだが、どうやらそんなに心配する程の物でもなかったようだ。
「ちゃんと良くなって、早く帰ってきなさい」
ハッとした。
そうだ。
まだすぐに家に帰れる訳ではない。
自分の今の状態もわかっていないし、恐らくリハビリなる物も俺を待ち受けているだろう…。
それらを成しえて、ようやく家へと帰る事ができるのだ。
◇
どうやら俺は、この1ヶ月もの間、植物人間状態だったらしい。
死んではいないが、意識もない。
そういう状態の俺を最初に見た祖母の有様はそれは凄いものだったらしい。
…それを聞いて心臓がちくりと傷んだが、予想はしていなかったわけではない。
面会に来た人は、総じて親戚や親しい友人ばかりだったが、なんとその中には俺があの日助けた亜紀の姿もあったらしい。
数分程度で帰っていってしまったようだが。
そして、医師から現在の身体の状態についての説明を受けた後。
壮絶なリハビリの日々が始まった。
あの広大な大地が広がる剣と魔法の世界において勇者として讃えられた俺の情けないこの姿をもしあの世界の方々が見たらどう思う事でしょう。
はずかしい。
大地を駆け、風を切り、一瞬で敵の間合いに入り度肝も抜かせた自慢の脚は数歩歩いたら『もうむり』と泣き言を抜かし。
重い鉄の塊である剣を長時間握り、かつそれを素早く振る事のできた剛健な腕は少しでも負担をかけると『ヤメロ』と悲鳴を上げる。
「あかん……」
これはあかん。まずいで。
自分の想像と現実の違いを認める事ができない。
長らく自分の人知を超えた力に酔いしれていたせいか、脳が出して命令に正しく体が応えない。
いや、違う。
体は確かに動いているが、脳が思い描くイメージとの違いに無意識のうちに体が無理な動きをして、余計な負担を与えている。
「これは……」
思ったよりも長い戦いになりそうだ……!
◇
2週間ほど経った辺りだろうか。
退院を果たした俺の前に、数年間もの間待ち侘びた愛しの我が家が見えてきた。
それを見た瞬間、胸の内から込み上げる思いで一杯になる。
あぁ、やっと、帰ってこれた。
もう幾度となく感じたその思いが体中を駆け巡っていく。
同じく何度も感じた目に涙が溜まる感覚。
だが、ここで泣くには早すぎる。
俺は、踏み込む一歩を大きくし、家へと向かっていく。
そして、俺は家の前に立った。
そこらの家とそんなに変わらない二階建ての一軒家。
だが、俺はそれがこの世界や向こうの世界で見たどんな建物よりも、心が安らぐ建物だと思った。
「………よし」
俺はそっとドアノブに手をかける。
ずっと、ずっと脳裏に思い描いてきた我が家の風景。
時折もう二度と帰れないのではないか、と思った事も何度もあった。
ついに。
ついに成し遂げた。
俺の理解を遥かに越える異世界に召喚され、旅をし。
色んな仲間と出会い、別れ、世界を渡り歩き。
数々の死闘の果て、魔王を倒した。
数年間頑張ってきた事は、無駄ではなかった。
…この世界で形に残るような物はない。
だが。
あの世界で自分の価値観や心の在り方も随分と変わった。
こうして取り戻した日々の中で、俺が得たその経験が生きる事もあるだろう。
そう、無駄じゃない。
俺はまだ見ぬ未来に思いを馳せ、俺はドアノブにかけた手に力を込めた。
「よし」
そして、一気に扉を開け放ち、言う。
「ただいま!!!!」
返事が返ってきた。
「「おかえり」」
思わずまた泣きそうになる。
久しぶりの感覚に、感動を覚えた。
だが。
「………ん?」
何か変な声を聞いた気がする。
今家には祖母しかいない筈である。
帰ってきた声は2つ。
片方は祖母の声だ。
しかし、もう一方はー?
明らかな違和感。
「誰だ………?」
心を不信感が満たしていく。
俺は、2つの声がしたリビングの扉に手をかけ、急速に動悸が速くなった心臓を落ち着かせながら、開け放つ。
…思えば、聞こえてきたもう片方の声も、全く聞いたことのない声ではなかったのだ。
むしろ。
ずっとよく聞いてきた声。
そのよく聞いてきた声が、むしろなぜそこから聞こえてきたのか、という違和感だったのかもしれない。
そのリビングで、祖母と一緒にソファーに座り、だらだらテレビを見ていたそいつは。
13歳程度の綺麗な髪と幼さの残る顔、小柄だが妙に安心感のある雰囲気を出しているそいつは。
「……おお、久しぶり、ハル」
「………イラハ!?」
あの世界で得たもので、形として残っていたそいつは。
俺と一緒にこの世界についてきたそいつは。
俺が数年間共に過ごしてきた仲間の一人だった。