第10話 後悔
「はあっ……はあっ……」
教室から飛び出した亜紀を俺は追いかけていた。
亜紀は廊下のある箇所で角度を直角に変えて、さらに俺との距離を離していった。
「ぜえっ……ぜえっ……」
息切れが俺を襲う。
体力の限界を感じ、その場に立ち尽くす。
「情けねぇ……」
だが、無理もないことだ。
何故なら、俺の体はリハビリを終えたとはいえ1ヶ月も動いていない体なのだ。
急な動きに追いつかないのも道理である。
しかも、亜紀は運動も得意であった筈だ。
異世界で伸ばした脚の感覚も、感覚だけが空回りするばかりだった。
「……くそ…」
だが。
諦めはしない。
諦めてはならない。
こんなことで音を上げていては、あいつらに示しがつかない。
「こんなの、いくらでも味わってきただろ…ッ!!」
自分の体に喝を入れる。
ここで諦めたら。
「亜紀は…!」
亜紀は、俺に昏倒状態に陥らせる怪我を負わせた事に相当負い目を感じているようだった。
このままでは、何が起こるか。
…最悪の想像が頭を過ぎる。
そんな事になる前に、俺は。
亜紀の元へ行かなければ。
「……うごけ…っ!!」
俺は無理矢理呼吸を整え、再び足を踏み出した。
◇
亜紀は、学校の屋上にいた。
柵に手をかけ、町中を見渡す。
「………晴」
晴が目を覚ました、と聞いた時。
嬉しさで胸が込み上げた。
でも、同時に。
私がそんな気持ちを抱いていいのか、と思った。
晴が私を助けてくれた時、私は今まで自分が晴との壁を作っていた事に気がついた。
晴の事を嫌っていた訳ではなかった。
ただただ、周りの目が怖かったのだ。
それは私の問題だ。
そしてその私の問題のせいで、晴は死にかけた。
私が晴を遠ざけたせいで、晴は私を気にかけてしまった。
…そうだ、あいつはそういうやつだった。
ずっと一緒だったから、知っていたのに。
あいつは、晴は、落ち込んでいる人がいれば気にかけ、手を差し伸べていく。
そういうやつだって、知ってたのに。
あの瞬間だって、そうだ。
私が、変なプライドで顔を背けていたから。
晴はあそこで自分だけ助かる事もできたのに。
…自分の事を嫌っている人を助ける道理はない。
私が晴と同じ立場だったら、迷わず自分だけ逃げていただろう。
「………なんでよ……」
あそこであいつが私を助けなければ、こんな気持ちになることもなかった。
…あいつのせいで、私は生きている。
…あいつのせいで、私はここにいる。
…あいつのせいで、私の心がざわついている。
…あいつの、せいで、私は、私の、本当の気持ちに気がついてしまった。
「……今気づいても、おそいのに……!!」
この胸からひしめく思いに耐えられない。
「……らくに、なりたい」
そう、楽になりたい。
もう、それ以外考えられない。
その思考が脳内を満たしていった。
そして、目の前の柵に手をかける。
「………………ぁ」
不思議だ。
死ぬのは怖いと思っていたけれど。
こうして死のうと思ってみると、そんなに怖くない。
これなら…。
と、そこで。
屋上の扉が、大きな音と共に開かれた。
無意識下に置かれていた思考が返ってくる。
「……………!!」
自分は、何をしようと。
急に恐ろしい感情がこみ上げて、柵から手を離した。
そして、今開かれた扉の方を見る。
そこに、いたのは。
◇
俺が、屋上の扉を勢いよく開けると。
その先に、亜紀がいた。
「…………晴?」
亜紀が、驚いたように俺の名前を言う。
「亜紀、何しようとしてるんだ」
「何って…。別に何もしてないよ」
そういう亜紀の声は、どこか震えていた。
やはり、こいつは。
俺がこいつを助けたことで、こいつはそれを負い目に感じていた。
向こうの世界にいた間も、それは懸念していた。
亜紀の責任感の強い性格上、どうしてもそう感じてしまうのは当然だった。
だが、同時に。
俺の事を嫌っていたあの時の亜紀ならば、何事も無かったかのように普段の生活に戻っている可能性もあった。
しかし、そんな筈はなかったのだ。
亜紀はまだ、16歳。
目の前で人が死ぬのを見て、とても耐えられるような年齢とは到底思えない。
そしてそれは、嫌っていたとはいえ、数年来の幼馴染なのだ。
ショックを受けない方がおかしいではないか。
だが、先程の教室での亜紀の様子を見て。
こいつは、想像以上に負担を抱え込み過ぎていた。
ならば、その負担を消すことができるのは、負担の原因しかない。
そして、それができるのは。
…俺しか、いないだろ。
「亜紀、俺はな!」
声を大にして叫ぶ。
まだ学校は朝のホームルーム中だ。
静かな敷地内に、俺の声が響いていく。
「俺は、お前を助けた事を後悔なんてしていない!あそこで、お前を助けてむしろ良かったって思ってる!」
すると、亜紀は顔を赤くした。
「そんなの分かってるわよ!あんたが昔っっっっからそういう奴だってさ!!」
「ああ、俺だって分かってたね!!お前がそうやって自分で勝手に責任抱え込んでズルズル引きずりまくる奴だってことはな!!!」
「なっ……」
亜紀が言葉に詰まる。
しかし、すぐに口を開いた。
「なっ、何よその言い方!目の前で死にかけられちゃって、自分の行いを後悔しない方がおかしいわ!…そうよ!あんたおかしいのよ!」
「はあ?どこがだよ!!」
「全部!!あんた全部おかしいの!!嫌ってる人にずいずい突っかかってきて!私は構うなって言ってんの!なのになんで一々話しかけてくんのよ!!」
後半はもう、涙を堪えながら言っているようだった。
「そんなの」
俺は、言い放つ。
「そんなの、お前が無理してたからに決まってるだろ」
「……え?」
その当たり前だ、という風な俺の態度に、亜紀が言葉を失う。
「どう…して…?」
俺は頭を掻きながら言った。
「だってお前、俺に対する態度だけ、妙によそよそしかったじゃんか」
その、最もかつ馬鹿らしい理由に。
「……え?」
亜紀は気づいてなかった、というような。
涙を流しながら、すっとんきょうな声をあげた。
そう、こいつは。
元々、クラスのメンバーの誰もが憧れるような心優しい少女なのだ。
……俺を除いて。
亜紀は、クラスの連中に親しい態度で接するのに対し、俺に対してのみ妙に変な態度だったのだ。
「は…は…」
亜紀が、力なく笑うと、その場に崩れ落ちた。
「気づいてたんだ…。そんな、単純な事で…」
「…いや、悪い。まぁ……嘘、下手だったぞ、お前」
衝撃の事実を知ったような顔で、亜紀が俺の方を向いてきた。
「……そっか、そうなんだ」
俺は、放心したように座り込んでいる亜紀の隣に行った。
「…なあ、亜紀。隣、座ってもいいか」
「……ん」
短い変事が返り、俺はその場に座った。
「お前が何か抱え込んでるって、すぐに分かった。それも、あの時の事だってことも」
「……うん」
「んで、お前が飛び出した時に俺、やっちまったって思った」
「…なんで」
「そこまで勘づいていたのに、お前に会うこともせずに、お前の心に負担を抱え込ませたままだった事に」
「……そっか」
「……ああ。…なあ、亜紀。まだ、俺がトラックで引かれたの、自分のせいとか思ってるか?」
「…そりゃ、思ってる。でも、少し薄らいだ」
「…そっか、なら良かった」
そういうと、俺は笑った。
すると。
亜紀も、少しした後、控えめな笑いを浮かべた。
「……ねえ、晴」
「ん、どうした?」
「…ありがとね、ここまできてくれて」
「お…おう」
「晴がここにこなかったら、私、死んでたかもしれないよ?」
「まじか」
「…まじです」
緊張の糸が切れたのか、二人してどっ!と笑う。
「…ふふ、ねえ、晴」
再びの質問に、再び首を傾げる。
「…ん、どうした、亜紀」
「もう一度言うね、ありがとう。晴が私の心を救ってくれた。晴は、私の恩人だよ」
微笑む亜紀に、心臓の鼓動が心なしか速くなる。
そして、その気持ちに耐えられなくなった俺は言った。
「…ああ。まあなんたって、俺は【勇者】だからな」
堂々と言い放った俺の言葉に目を丸くする亜紀。
「…ふふっ、何よそれー。子供みたい。やっぱり変わらないね、晴は。」
「な……っ!変わらないって、どういうことだよ。……まあいいや、大分元気になったみたいだな。そろそろ戻るか、亜紀」
「…え?どこに?」
「どこって…。お前、教室飛び出してここまできたじゃんか」
「…あ、そっかー…。絶対先生怒ってるよね」
「あぁ、そうだな。当たり前だよな」
「もう、晴も一緒に怒られるんだよ?」
「微塵も俺のせいではないんですが」
「でも一緒に怒られて貰います!私だけ怒られるのは嫌」
「…………」
なんてこった。
亜紀の負担を解消し、また前みたいに仲良くなったのはいいが。
…いささか、仲良くなりすぎではないか、と思ってしまった。
◇
まだ、私の後悔が全て晴れた訳じゃない。
私のせいで晴がトラックに轢かれたという事実は変わらない。
私のプライドのせいで晴に迷惑をかけた事は変わらない。
…いつか。
いつか、私の消えることのない後悔に気持ちの区切りがつくまで。
いつか私のプライドを捨て去る時がくるまで。
…この、気持ちは胸の中にしまっておこう。
晴の事が好きだという、この気持ちを。




