タリウム少女の冒険 ー 彼女が良い子になった理由
2017年3月 名古屋地裁
「被告人を無期懲役に処する」-判決を言い渡された瞬間、元女子学生は身じろぎもせず、じっと前を見詰めていた。紺のジャケットに黒髪を後ろで結んだ姿は公判中、ずっと変わらなかった。事件の動機については、中毒で死ぬ人の様子を見てみたいとの興味、、、「知恵を出して更生していってほしい」 元女子学生は小さくうなずきながら聞いていた。
ここまで現実世界
元女子学生がロシアに生まれていたら・・・
Ⅰ
タリーシャの担任は、毒物と人の死に対する少女の異常な愛着に驚き、心配して、校長に相談した。報告書は校長から党幹部に、そこから関連部門に送られた。
KGB プーチン少佐の秘書リュドミラは報告書をプリントアウトして ロシア風紅茶とともに少佐のデスクに。報告書にはタリーシャの正面、側面の写真が添付されていた。紺のジャケットに黒髪を後ろで結んだ少女を一瞥して、少佐は報告書をゴミ箱に投げ入れた。しかし翌日思い直し、再度のプリントをリュドミラに頼んだ。
それから数週間、少佐は沈思黙考に入った。リュドミラは、少佐が呟くのを聞いたが、意味はわからなかった。
「祖国の敵・・・ 00・・・ 四年は必要だ・・・ 」
タリーシャは校長室に呼ばれた。
Ⅱ
「タリーシャ・イワーノヴナ、君を KGB アカデミーへ推薦しようと考えている。もちろん祖国に尽くしてくれるだろうね? プーチン同士は大祖国英雄、、、我が校の栄誉、、、」
果てしなく続く校長の饒舌。自己満足に浸りきった校長の隣で、プーチン少佐の冷たい目がタリーシャを観察していている。少佐の胸には不死鳥をデザインした勲章が鈍く光っていた。少女は身じろぎもせず、じっと不死鳥を見詰める。この時彼女はタリーシャ・イワーノヴナ・メドヴェージェワ、黒髪を後ろで結んだロシアの田舎娘、十六歳だった。
Ⅲ
少女のアカデミーでの専攻は、毒物学、放火学、器物破壊学、略取誘拐学、および暗殺学の理論と実践だった。いずれの学課でも少女は優秀で、特に彼女の毒殺の技量には、教授たちも称賛を惜しまなかった。
加え、プーチン少佐は彼女を愛人として、あらゆる愛の技巧を教えた。それがエージェントとして必要な技術であることは言うまでもない。少女はその分野でも従順な生徒だった。 夏休みは少佐とともに、黒海沿岸、オデッサの党幹部専用のダーチャ(別荘)で過ごした。内陸で生まれたタリーシャは、そのとき初めて海を見た。プーチン少佐はタリーシャに、海を渡る巨きな鳥を連想させた。
Ⅳ
四年の後、ロシアの田舎娘は美しい蝶に変身していた。彼女は偶然を装いカジノ・ロワイヤルで英国人ジェームズ・ポンドと出会い、少佐に命じられたように、ポンドと「情を通じ」た。( KGB らしい衒学的な用語だ。)ポンドを誘惑するのは簡単だったが、そのあとだ・・・。アカデミーのハニートラップ技術演習とは何がが違う。そのことに気付いたとき、タリーシャは当惑した。イスタンブールでポンドのタリウムを調合したとき、彼女の中で生まれた初めての感情、「愛」が彼女のピペットを持つ手を狂わせた。計量ミスで毒殺は失敗した。
「んン〜〜ム、次のレシピを試してみるかい? 君のフェロモン入りカクテルなら喜んで。今度はダブルで。」
ポンドは彼女の脇に鼻を埋めながらささやく。
「だめ・・・・・・どうしてもあなたを殺せない・・・ 」
ポンドは起き上がり彼女の目をまっすぐ見た。
「二人で世界の果てに逃げるんだ。いいね?」
Ⅴ
二人は少佐一味の追跡を逃れ、筏に乗り夜のボスポラス海峡を抜け出て、日本の秘境、土地の日本人が聖なる山として崇める、ある火山の島に漂流した。ポンドは日本の漁師、タリーシャは海女に姿を変え、島の洞窟で暮らした。つかの間の安らぎを彼女は味わった・・・。
嫉妬に狂う少佐は二人の平和な日々を許さない。自ら島に乗り込んた。だがプーチン少佐の嫉妬の心を煽り、少佐をこの島に誘き寄せることこそポンドの狙いだったのだ。山頂での死闘、ボンドは少佐を火口に追い詰める。
「何か言い残すことはないかな? 鳥野郎、失礼、プーチン少佐殿。彼女が君のことをそう言っていたんだ。」とボンド。
「売女!ヒモ! 祖国の敵! お前ら 霊的に 生まれ変われ!」
そう叫ぶとプーチン少佐は手足を大きく広げ、飛んだ。噴火口の中に、真っ逆さまに。
「あ"あ"〜〜〜あ" !!! タリーシャ! ・・・」
火に焼かれ、灰になる寸前の少佐の最後の悲鳴が火口の底から聞こえた、と同時に火の山の雷動が島と海とを揺るがした、、、
Ⅵ
火の鳥が蘇った。火の山が怒り狂うとき、島民はそう言うのである。島の伝説によると、火の鳥は火の山に自ら飛び込み、自らと世界を焼き尽くしたあと、灰の中から復活し 世界を再生するという。火の鳥とともに、穢れた心を更生して、清く明るく生まれ変わること、それが彼らの信仰の核をなす教えである。
このときの噴火では、島民たちは一ヶ月の間、火の鳥が聖なる山の上空を飛翔するのを見た。噴火が鎮まると、その巨きな鳥は火口の上を三回、なぜか愛おしそうに旋回してから、北の方角に飛び去っていった。恐らくは故郷の寒い国へ。
火の鳥が去ったその日、二人は火口で島民に救助された。全ての記憶を失っていた。どうやってあの噴火の中をそんな場所で生き残ったのか、わからない。きっと火の鳥に守られたのだー島民たちは噂した。自分の名前すら憶えていない二人に誰もが困惑したが、二人が日本人であることは誰も疑わなかった。当の二人ですらもそうだった。変装はそれほど完璧で、ボンドとタリーシャはどう見ても日本の若い漁師と海女だったのだ。 肌や目の色まで変わり、頭の中まで更になり、二人のどこにもこれまでの人生の痕跡は残っていなかった。
・・・否、残ったものもある。再び聖なる山の火口にて
「行くよ! 僕の可愛い海女さん!」
「来なさい! 私の勇敢な漁師さん その火を飛び越えて 」
二人の「愛」は残っていた。
若い漁師と海女は夫婦となった。今島の戸籍係は二人のために戸籍を新設した。言い忘れたが、この島は、三重県、伊勢湾に浮ぶ今島というのである。 親切な戸籍係の女性は、日本で一番ふつうの名前たと言って、素敵な響きの男女の名前を教えてくれた。二人はその名を自分たちの名とした。姓は二人の再生の地である島の名を採った。伊勢神宮で行われた結婚式では、島の人みんなが二人を祝福した。
エピローグ
そういうわけで、今 良子になって更生した彼女は、伊勢志摩のこの美しい島で、今 正夫と幸せに暮らしている。良子は真珠貝を獲る海女、正夫は鮪を獲る漁師だ。プーチン少佐との愛の日々も、少佐の断末魔の叫びも、タリーシャの毒で死んだ人の様子も、良子の記憶から真っ更に消え失せた。
ああ! 彼女がもしロシアに生まれていたら、彼女は今良い子だった! かもしれなかったのに・・・、