第2話 悪魔が来たりて
「住職様。住職様!」
【伊ヶ谷大社】の広い敷地を走る坊主の声が、主の名前を声高に叫び呼ぶ。表情は喜々とし、頬を蒸気させていた。
しかし、依然と――彼のもとには辿り着けない。
それだけ、境内は広いのである。
「はひ……っは、ふぁー」
ついには、膝を折り荒く息を吐いてしまう坊主、計。
「大丈夫かい。計」
「!?」
「具合は、悪くないかい?」
「‼⁇」
息切れをする彼に、そう優しく声をかけたのは。
住職である――八百伊藤。
昼行燈である庵の弟だ。
突然の伊藤の出現に、計の背中全身に汗が浮かんでしまう。
ぶわっとだ。
「? おい。計、大事ないか?」
「ふぁ!」
「⁇ おい、計?」
「ふぁいいいい‼」
突然の返事のボリュームの高さに、伊藤の身体も引けてしまう。
「突然なんだい。計」
苦笑交じりに伊藤が計に聞いた。
計は顔を横に大きく振ったかと思えば、縦に大きく振り。
懐から文を取り出した。
「私宛、かい?」
ブンブン!
「ふむ。ありがとう、計」
「ふぁぃいいい‼」
興奮状態の計の頭を撫ぜた伊藤はにこやかに、文を受け取り、差出人の名前を確認した――瞬間。
ぶわわわ!
身体全身に鳥肌が立った。
「あ、に上? この文は――兄上から、なのか⁇」
頬が熱くなるのを伊藤も感じた。
次いで耳も、堪らなく痛い。
眦も、また然り。
伊藤は色白で体躯は華奢であり、身長は高く180センチある。
その身体の全皮膚が、庵からの文で真っ赤に染まりきっていた。
「よよよよ、読まねばばばばば! あああ、兄上かかかか、からののののっっ」
喜びのあまり、全身が激しく揺らぎ始めてしまう。
思いもよらない文の喜びのあまり、激しく動揺する伊藤。
いつもの冷静さの欠片もなく、幼い子供のような反応をする伊藤に、
(ああー~~住職様~~よかったですねえ~~♡)
計も、涙を拭った。
「けけけ計、すすすすすまないいいい! わわわわ、私ははははっっ」
「はい。私の任は済みましたので。住職様、お戻りになられて結構でございますよ」
深々とお辞儀をすると、計の身体が消えた。
「早く。部屋に戻らねば!」
たまたまにして通りかかったために。
寝室まではかなりの距離があった。
だが、一刻も早く文を読みたい一心で伊藤は。
「【呪経文】発動!」
袖口から経文を出し、前に流した。
すると、それは光の階段に変わった。
「これぐらいなら許されるだろう。多分」
それに一歩、足を踏み入れた瞬間、背景が勢いよく動き出した。
あっという間に。
寝室の前に着き、伊藤は経文を戻し、懐に仕舞い込んだ。
ぽい、ぽぽい!
慌ただしくも、乱雑に草履を脱ぎ捨て部屋に上がる。
文を持つ手が熱くなり、心臓も破裂するんじゃないかというほどに、鼓動を高くさせていた。
「あ。家内にも……んぐっ!」
伊藤は既婚者で、星々《キララ》という嫁がいた。
大変、仲むつまじく。
しかし、彼女も旦那である伊藤の性分も分かっている。
『内の旦那様はね。義兄様がお好きなのよ』
それを周りにいうほどで、その周りも分かっていた。
「わわわわ、私が初見しししし、そそそ、そうだ! うん、うん! その上で、伝えればよいのだ! そそそそ、そうしょう! うむうむ!」
畳の上を行ったり来たりを繰り返したのち、ようやく立ち止まり、伊藤も大きく決意し頷く。
そして、文に手をかけた瞬間。
「失礼を致します。住職様、訪問客にございます」
襖越しに、計ではない坊主がいう。
わなわなな!
激しい憤りで、伊藤の身体が大きく震え、文を掴んでいた指の圧に、文も折れ曲がってしまう。
そして、瞼を閉じ。
大きく何度も息を吐いた。
別に、このタイミングが悪いのは坊主のせいではない。
あくまでも、悪いのは訪問客自身だ。
「うむ。どなた様だい?」
平穏を装い伊藤が坊主に聞き返した。
だが。
坊主が、黙り込んでしまう。
伊藤も頭を傾げたが、すぐに宙を仰いだ。
力なく、畳の上に腰を据え、胡坐をかき、膝の上に肘を置き、眉間に指を添えた。口もとが、大きく戦慄く。
「――……威六の叔父上か!」
――前略、最愛なる兄上様へ。
部屋に強風が吹き抜け、机の上にあった本のページがめくれた。
それは伊藤の日記だった。
始まりは――《前略、最愛なる兄上様へ》で始まり、終わる。
個人的な、機密事項でもある。
日々の奇奇怪怪なる出来事を書いた。
過去にあった、未来へと紡ぐ――《モノノ・ケ忌憚》である。
――本日も、面倒ごとが向こうからやって来ました。
「お通しして」




