第百四十八話 『楔』
風の精霊による遠距離会話を終えた頃から、ロベルクは精霊の違和感に気づいていた。
(やはり、城壁外の風の精霊力が抑えられている)
距離がある為、一般的な精霊使いには感じられないが、ロベルクは風の精霊の緩慢さを広い範囲で感じていた。
風の精霊の動きが遅い、ということは即ち精霊魔法による情報伝達が阻害されているということだ。そして、これだけ広範囲の風の精霊に干渉できる程の風の精霊使いは――
(あいつしかいないな)
ロベルクが精霊への干渉の正体に行き当たったのとほぼ同時に、罠に捕らえられた獲物をいたぶるようにじりじりと迫っていたジオ軍の左翼が、足並みを乱した。
「アルフリスは、うまくやったのか……?」
リーシが呟くのと、ロベルクが城壁の階段を駆け下りたのは、ほぼ同時だった。
「ロベルク!?」
「出るぞ! 今こそ遠投投石器を破壊する好機!」
「敵が乱れた理由がアルフリスじゃなかったらだったらどうするんだ!?」
「風の精霊の不具合で、情報伝達が乱れているんだ。この小さな綻びを、見逃すわけにはいかない!」
「待て!」
駆け去ろうとするロベルクに、リーシが叫んだ。その気迫はロベルクの足を止めるのに十分だった。訝しむロベルクに、リーシは不敵な笑みを見せる。
「敵は分厚い。私たちに楔を打たせてくれ」
言い捨てるとリーシは自軍に飛び込んでいった。
「分かった。先陣は任せる!」
ロベルクは駆け去るリーシの背中に言葉を投げた。
(恐ろしい胆力と、そして決断力だ)
ロベルクは舌を巻いた。
北門が開く。
ロベルクもそれに合わせて北門周辺の氷壁を一時的に溶かした。
「リーシ隊、突撃!」
喇叭を鳴らし、二千五百のリーシ隊が北門を飛び出した。
「出遅れるな。ロベルク隊、突撃!」
リーシ隊に続いて、精霊使いと魔法使いを中心に編成されたロベルク隊が門を出る。
「リーシ隊が道を開いてくれる。僕らは遠投投石器の破壊だけに集中する!」
「うおお!」
隊員が雄叫びで答えた。
軍馬は貴重なので、ロベルク隊は全員が徒歩である。全員が全力で駆け出した。
敵陣が迫る。
向かって右側の騎士団は、東に気を取られているのがありありとわかる。一部の騎士が開門と突撃に気づき、しきりになにかを喚いているが、仲間には届いていないようだった。
向かって左側に布陣していたオーク兵の隊がこちらに矛先を向ける。
「させるか……シャルレグ!」
ロベルクが駆けながら氷の王シャルレグに命令を出すと、敵陣の目の前に氷壁がそそり立ち、一万のオーク兵たちを視界から消し去った。
突如現れた氷壁は、体積こそ大きいが精霊力が込められていない。時間さえあれば突破されるであろう。だがロベルクの意図は別のところにあった。
リーシ隊が僅かなもたつきを見せたジオ騎士団の陣に飛びかかるのを見計らって、ロベルク隊は方向を転じ、遠投投石器の車列に向かった。
「リーシ隊が敵を引きつけている間に、僕たちは遠投投石器を倒す。各々はなるべく弱そうな部品を狙って出来る限り細かく破壊せよ!」
「た……倒すって?」
兵のひとりが聞き返すが、ロベルクはそれには答えず、十五台の遠投投石機に方向を転じた。
「地よりの恵みは水にあらず……氷の山となって平らかなる大地をかき乱し、天を衝け!」
ロベルクの命令に反応したシャルレグが大地と大気の水分を全て凍結させ、指さされた先に鋸の刃のごとき氷の山を出現させる。
そこに水平な大地は存在していなかった。突如として地中より現れた乱杭歯のような氷柱群に、整列していた遠投投石機は一台残らず横転し、ひっくり返った亀のようになんの用も為さない構造物の群れと成り下がった。
遠投投石器を守備していたジオ軍は恐慌を来たした。強力な魔法を見慣れているジオ兵にして、なんのきっかけもなく大規模な精霊の操作が行われる光景は初見である。任務を忘れ、氷のない、冷気のない場所を求めて右往左往し、千々に乱れた。
そこにロベルク隊によって魔法の射撃が行われる。もはや隊としての体を為していないジオ兵たちは我先に逃げ出した。
「すぐに取りかかるぞ!」
味方もまた、その魔法の規模に驚いていたが、ロベルクの声で我に返った。それぞれが自身の得意とする最も破壊的な魔法を遠投投石機にぶつける。攻城投石機は、あるものは燃え上がり、あるものは腐り落ち、またあるものは枝を生やして木に還った。
「リーシ隊が稼いだ時間内に間に合った。総員、撤収!」
部隊は、ロベルクの指示により、城門へと引き返した。ロベルクとフィスィアーダによって全員が『風走り』の恩恵を受けているため、撤退は迅速である。
少し遅れて、リーシ隊が城門をくぐる。
「百人以上やられた……敵左翼の騎士団は予想以上に練度が高い。が、我々を押し返したら元の場所に戻ってくれたのと、中軍の本陣が動かなかったおかげでだいぶ助かった」
リーシがマントの切れ込みと返り血を気にしながら、頬の汗を拭う。見れば、リーシ隊の面々もまた、浅手や返り血で赤茶に染まっていた。
「怪我人はすぐにメイハースレアルのところへ」
「あ? ああ、そうだな。これより、我が隊は中央広場へと戻る!」
リーシの号令により、隊の将兵は中央広場へと行進していった。中央広場は補給と看護の中枢である。リーシ隊はそこの最終防衛戦であると共に、主戦力の一つでもある。命を繋いだ者はメイハースレアルンの回復を受け、できるだけ万全の状態に回復せねばならない。
一度も正面からぶつかっていないのに小さくない損害が出た。まだ開戦初日である。
深夜。
曇天の中、慎重に開かれた北門から二台の馬車が滑り出た。馬は口籠をはめられ、蹄鉄には布が巻かれている。馬車の車輪にも皮を巻かれるなど対策を施されている。また車体は光の精霊により光の反射をなくしてあり、月光が遮られた夜闇の中でさらに深い闇色に染まっている。闇の精霊を使わないのは、常に闇を発生させるより、光を干渉させた方が弱い精霊力で済み、敵の魔力探知に掛かりにくいからだ。
明かりは何ひとつ灯していない。
車内には棺が十台。それぞれ蓋と底部に襤褸布を挟めて、音が鳴らないようにしている。
暗黒の中、こわごわと馬を操る御者の後ろで、屋根に座ったロベルクは一点を見つめていた。昼にリーシ隊が接敵した戦場だ。
「少し右……減速して……」
馬車が停止すると、兵たちが下りてきた。周囲が殆ど見えずに立ち尽くす兵たちが、ロベルクにははっきりと見えていた。
「いまから夜目が利く魔法を掛ける」
周囲の兵にだけ聞こえるように囁くと、ロベルクは闇の精霊で帷を掛けた中に光の精霊を呼び出す。召喚時にどうしても光を発してしまうための工夫だ。光の精霊により、微かな光量でも目が感知できるようになると、兵たちは地に倒れ伏したウインガルド兵を黙々と回収していく。そして死体だけでなく、まだ呻いている者や痙攣している者も棺に収めていく。縁起でもないが、棺を使うことによって、縦にも重ねて兵を収容することができた。
二台の戦闘馬車は市門と戦場を何度も往復し、九十四人を城壁の内側に回収した。




