第百四十四話 『迫る戦雲』
氷月十日、セラーナの帰還とシルフィーネ王朝の復活が発表された。
イルグナッシュの街中が歓喜の渦に包まれた。皆、このときだけはジオ帝国の脅威のことを頭の隅に追いやり、少ない食料や酒を分かち合って祝った。見張りなどの兵士は通常の当番で働いてはいたが、それでもいつもより多くの食料を食べて、このめでたい瞬間を噛み締めていた。
王女であることを明かしたセラーナだったが、それらしい立ち居振る舞いをすることは希で、艶やかな黒髪を再び頭の後ろで結び、動きやすい赤色の短衣を身に付け、精力的に活動していた。
その日、ロベルクとセラーナはイルグナッシュ城の主塔のテラスで喜びに沸く街を見ていた。
「あたし、戻ってきたんだ……」
「みんなが、君の帰りを喜んでいるね」
セラーナがロベルクに身を寄せる。セラーナの腕は微かに震えていた。
「セラーナ、寒い?」
「ううん。でも……ちょっと怖い」
「怖い?」
「うん。みんな、王国の復興のために命を投げ出す覚悟で戦っている。同志だったときはなんとも思わなかったけど、これからはあたしの一言で多くの臣民が命を投げ出すんだ、って思うと……ちょっとね」
「だからこそ、民に対する思いやりを知る者が元首にならないといけないんだ……君みたいに」
「ロベルク……」
セラーナは頭をロベルクの肩に預けた。
「……支えてよね」
「勿論だよ」
二人は暫し、ジオ侵攻以来のお祭り騒ぎを眺めた。
背後に魔力の高まりを感じ、二人は振り返る。目の前にレイスリッドが『瞬間移動』して現れた。
「いよう。城の対侵入結界に穴があるぞ」
相変わらず赤く染められた髪を揺らし、レイスリッドは片手を挙げて挨拶した。ロベルクとセラーナも挨拶を返す。
「あ……レイ……じゃなかった、魔導師のノルさんだったっけ?」
「随分他人行儀だなロベルク。レイスリッドでいい。この近くには誰もいねえ」
レイスリッドはロベルクの横まで来ると、街を見下ろした。
「始まったんだな」
「ああ。小さな『点』と『点』が繋がり、波が起こり始めた」
「いい兆候だ。『波』が王都奪還への思いが大きくなれば、それを外から鎮めるのは難しい。大きな『波』がうねっていれば、逆境が訪れたとしても跳ね返す力となるだろうぜ」
「そうだな」
ロベルクは再び街を見下ろす。その喧騒はまさに、王都奪還への強い意欲だ。
「で?」
セラーナが二人に割って入った。
「あなたは今、どこから来たの?」
「イルグナッシュから三日ほど北に行った辺りだ」
「じゃあ……あなたの『瞬間移動』の力を見込んで、ちょっとお使いを頼みたいわ」
「言ってみな」
レイスリッドはそれまでの俺様気取りな様子を改めて、セラーナに正対した。
「あたしがウインガルドを再興したことをいろんな所に伝えてほしいの。文書は今から作るから、それを持って行って」
「お安いご用だ。どこに持って行けばいい? さしあたって、ラーティ……」
「大陸各国の首都へ……シージィ帝国の帝都サンリアンとヴィンドリア王国の王都クエクリアを優先して」
「おい……ちょっ……」
レイスリッドが言葉を詰まらせる。セラーナの依頼は、大陸の端から端まで飛べと言っているに等しいからだ。
「シージィは皇太子府にも寄って……あ、ジオ帝国には行かなくてもいいから」
セラーナの譲歩的な発言に、レイスリッドは一瞬唖然としたが、やがて諦めた様に赤く染まった髪を掻いた。
「やれやれ、王女様にはかなわねえな。いいぜ、その信頼に免じて引き受けてやる」
「お願いね。今から書状を作るわ。寒いから、一刻(約二時間)後に、またここに来て」
「わかった。ちょっとミーアにも伝えてくる」
レイスリッドは『瞬間移動』の呪文を唱えると、姿を消した。
テラスにはロベルクとセラーナが残された。
「『瞬間移動』で王国の再興を宣伝するなんて、素晴らしい思いつきだね」
「まあね」
ロベルクの驚きに対し、セラーナはさほど喜ばずに答えた。
「宣伝と言えば聞こえはいいわ。でも実際のところは、万一戦で負けたら難民が発生しますよ、受け入れてください、ということを暗にお願いするためのものよ。でも、東方諸国もジオ帝国の拡大主義に危機感を持っている様子だったから、多分人的資源として大切にしてくれるんじゃないかしら」
「あとは僕たちが、できることをできる限りするだけか」
「そうね。難民なんて出すわけにはいかないわ」
二人は浮かれた街に背を向け、主塔の中へと姿を消した。
氷月十二日、レイスリッドが任務を果たして戻ってきた。
誰にも見られない物寂しい場所で、決して公に嘉賞されることのない任務の復命をしたレイスリッドを、ロベルクが呼び止めた。
「剣の稽古を付けてくれないか」
ロベルクの剣の実力を認めていたレイスリッドは、師として言葉の裏を感じ取った。
「今夜、北門の外に来い」
「働きづめのところ悪いが、よろしく頼む」
ロベルクが改まった一礼を行うと、レイスリッドは一つ頷き、姿を消した。
夕刻、ロベルクは市門の閉門に合わせて街を出た。
城壁上の衛兵の顔が麦粒よりも小さく見える程も離れたところで、風の精霊を召喚し、レイスリッドの精霊力を探知する。程なくしてレイスリッドの感知に引っかかり、彼からの誘導が始まった。
ロベルクは『風走り』を始めた。
四半刻も走った辺りで、森の中へと誘導される。暫く行くと木々が開けた。
広場のような場所の中央にレイスリッドは待っていた。
「思ったより早かったな」
言いつつレイスリッドは、杖先に黄緑色の細長い筒を発生させる。以前の稽古でも使った、叩くと音が出る玩具だ。
「ああ……」
ロベルクも早速懐から紐を取り出し、刀身が露出しないよう柄と鞘を結わえ付ける。
ふたりは準備を終えると、間合いを取って正対した。
「……ヴォルワーグ皇子か」
レイスリッドの憶測にロベルクが頷く。
「混沌に蝕まれていた。蟷螂の鎌が八本、下半身から生えた。全く攻撃の隙がなかった……」
「ふむ……」
話を聞いたレイスリッドが、徐に剣先を下ろした。
「まずは、『型』をやってみろ」
ロベルクは頷くと、間合いからさらに二歩下がり、『月の剣』の『型』を見せる。三十種類の剣捌き。三十種類の体捌き。
まばたきもせず見守ったレイスリッドは、短く唸った。
「完璧だ。魔物の鎌の八本くらい、問題なくあしらうことができるだろう」
「じゃあなんで⁉」
ロベルクの焦りをいなすように、レイスリッドは杖を下段に構えた。
「『月の剣』の真髄は、『舞曲』にある」
「全ての『型』が連続技になるということだろう?」
「いや。それは表面上の強さに過ぎない」
「表面上?」
ロベルクか問い返す。
頷くレイスリッド。
「そうだ。確かに『舞曲』と呼ばれる連続技は強力な技術だ。だが、この剣術は、打ち込みからの連続技ではなく、相手の動きにこちらの動きを合わせ、あたかも共に舞うかのように立ち回るとき真価を発揮する」
「共に舞う……」
「『舞曲』とは、即ち相手の動きに寄り添うことを暗に示している。俺はお前に『月の剣』を教えるとき、相手の動きに寄り添い、影を突き崩す秘剣、と言った。寄り添って身体を捌き、共に舞うとき……『月の剣』は真の強さを見せるだろう」
そこまで言うとレイスリッドは、玩具が生えた杖を掲げ、新たな呪文を唱える。
「エジライレート・ナタク!」
刀身が変化する。それまで児戯にも生温い筒だったものが、冷徹に切断の目的を果たす片刃の剣――半年以上前に、シャンリン・チェンが振るっていたものと酷似した剣へと変化した。
「シージィ剣⁉」
「いくぞ……『月の剣・暦巡りの舞曲』!」
レイスリッドが踏み込む。殺意を具現化したような刃を閃かせ、飛び込んでくる。
「くっ!」
(同じ『月の剣』なら、師の攻撃が僕より速かろうと太刀筋は追えるはず!)
ロベルクは十分の一瞬程遅れて『月の剣』の動作に入り、レイスリッドの太刀筋を凝視する。
(踏み込み、まさかの左薙ぎ、身体を沈ませての逆風……)
死を運ぶ旋風を必死で回避し続けるロベルク。
(いくつの『型』が繋がっているんだ……まだか……まだか……⁉)
しかし、いつしかロベルクは、レイスリッドの剣閃の間近を添うように回避し、意識しなくても相手の足先すら踏まず、自然と自分の霊剣の進む先が、まるで案内されているかのように相手の身体へと導かれていることに気付いた。
(これが……寄り添うということ……これが……『舞曲』の神髄!)
その感覚に逆らわず、ロベルクはレイスリッドの攻撃に寄り添った太刀筋を、導かれるがままに返していく。
いくつかの金属音といくつかのくぐもった音が広場に響き――
三十の『型』を繋いだレイスリッド最大の『舞曲』が終わった。
互いに跳び退り、夜風がひと吹ききするほどの時間、切っ先を構えて正対していた。が、「いてて」と声を上げてレイスリッドが片膝をついた。
「大丈夫か⁉」
駆け寄るロベルクと同時に、レイスリッドは自力で立ち上がった。
「問題ない。所詮、鞘だからな。まあ、俺のように筋肉の鎧を身に着けていない奴が喰らっていたら全身打撲で立ち上がれなかっただろうがな」
レイスリッド笑いながらが全身に力を込め、筋肉を膨れ上がらせた。
ロベルクも釣られて口許を綻ばす。
「魔導師の言葉とは思えないな。でも……見えた。『舞曲』の神髄が」
「師の教えがいいからな」
レイスリッドは口角を吊り上げながら、杖から伸びた刃を消滅させた。
殺気を放つ武器が消え、ロベルクは息を吐いた。
「死ぬかと思った」
「命の危険からしか学べないこともある」
「そうだな……そんなこと、学ばなくてもよい人生だったらよかったのかも知れないが……僕は自ら足を踏み入れた」
「守るための力だ」
「ああ」
ロベルクの決意の籠もった返事を聞き、レイスリッドは満足そうに杖を剣帯に吊った。
「ジオ軍は間もなく出陣する。十日以内にこの辺りは敵兵で溢れかえるだろう」
頷くロベルク。
レイスリッドはその肩を叩いた。
「死ぬなよ」
「分かってる。この街は……」
「お前が、だ。それとお前の大切な人」
「勿論だ」
ロベルクとレイスリッドは視線を交わし、拳をぶつけ合った。二人の信頼は、それで十分だった。




