第百四十二話 『セラーナのシルフィーネ王朝』
ロベルクとセラーナは手を繋いだまま、ミーアが開いた市門をくぐった。その数歩後ろではフィスィアーダが殿を守っている。フィスィアーダと共に戻った霊剣は、再びロベルクの腰に戻り、歩を進めるたびに揺れていた。
ヴォルワーグ政権下の三年で城壁外に広がったスラム街を駆け抜ける。広く整備された街道に出て、スラム街の物が風に飛ばされない程度離れたところで『風走り』を発動した。歩幅が伸び、三人の疾走は加速した。
駆け通しだったロベルクとセラーナ、そしてフィスィアーダがリアノイ・エセナの市門が森に隠れて見えなくなるほど離れた辺りでひと息ついていると、レイスリッドとミーアが『瞬間移動』で現れた。
「セラーナ、まずは脱出おめでとう」
レイスリッドが口角を吊り上げた。
一方セラーナは、頭一つ以上高いレイスリッドを神妙な面持ちで見上げる。
「心の底から、ありがとう。そして、ごめんなさい」
「ん?」
首を傾げるレイスリッド。
セラーナは言葉を続けた。
「今まで、あなたの言葉や行いに対して口では感謝しつつも、心の隅では企みや打算を疑ってた。いま初めて、純粋な感謝の気持ちを持てた。だから……ごめんなさい」
いつになくしおらしいセラーナの姿にレイスリッドが大笑する。
「そのくらいで丁度いい。俺はそれだけのことをお前にしちまったし、為政者はそのくらい慎重な面があった方がいい」
「そう?」
セラーナが釣られて顔を綻ばせる。が、すぐに真顔に戻り、レイスリッドと、そしてミーアを交互に見た。
「ごめんついでに図々しいかもしれないけど、ウインガルドに力を貸してくれる気はある?」
レイスリッドが赤毛に染め直した長髪を掻き上げ、うーん、と唸った。隣ではミーアがそれを見上げている。
「無理だな」
「だよねー」
セラーナも答えを分かっていて尋ねただけに、特に落ち込む素振りは見せなかった。
「将とか臨時の宮廷魔術師とかは無理だ。なんてったって俺はウインガルド滅亡のきっかけを作った悪の首領だからな。民がその恨みを忘れるはずがない。だから……急使や戦場での援護とか、民衆に顔を出さなくても済む手助けはしてやるよ。ヴォルワーグの野郎が吠え面かいて逃げ出すのを見届けるまで」
「ありがと。当てにしてるわ」
二人の政治家は至極無礼な口調で、ウインガルドとヴィナバードの一時的な軍事同盟を締結した。
次にレイスリッドはロベルクに視線を向けた。
「さて、ここからイルグナッシュまでは三人で行けるな? ロベルクも腑抜けから立ち直ったことだし」
「っ……否定できない……けど、もう大丈夫だ。レイスリッド達はどうするんだ?」
「俺達はあとひとつ嫌がらせをしてから南下するつもりだ。お前達は先に行け」
「わかった」
ロベルクはそこで言葉を切ると、レイスリッドとミーアに向かって姿勢を正した。
「レイスリッド、ミーア。ふたりがいなかったら僕は再び立ち上がることはできなかったと思う。本当にありがとう」
「いいってことよ」
レイスリッドとミーアは、示し合わせたように悪戯な笑みを浮かべた。
「本番はこれからだ。お姫様をしっかり送り届けろよ」
「当然だ」
ロベルクとレイスリッドが拳を打ち合わせる。三人とふたりは互いに背を向けて駆け出した。
氷月九日。花嫁強奪事件から八日後。
ウインガルド義勇軍の主だった面々は、リーシの執務室で暗い顔を突き合わせて会議を行っていた。
「いつまでも善意の協力者に頼るわけにはいかなかった!」
「だが、彼らを失ったことによる戦力低下は未だ補えていない!」
堂々巡りだ。
リーシは表情に出すまいとしながらも、無意識にこめかみへ指先を当てていた。
突然、執務室の扉がけたたましくノックされた。
一瞬で沈黙した面々の中、リーシが「入れ」と呼びかける。
入室したのは伝令だ。
「ベルフィン商会より急報です」
「構わない。この場で言ってくれ」
リーシの指示に伝令は頷くと、一呼吸おいて口を開いた。
「ヴォルワーグ皇子とセラーナ王女の結婚式に闖入者があり、セラーナ王女が強奪されました! 犯人は……ロベルク殿とのこと!」
「おおっ!」
執務室に歓声が溢れる。
「して、ロベルク殿は?」
「目下、行方不明とのことです」
明るみかけた場の雰囲気が一気に萎んだ。
「潜伏して、出るに出られないのか」
「やはり、帝国の追手からは逃げられないのか」
「お姫様を連れていては、いかにロベルク殿といえども……」
失望の色を帯び始める執務室の中でリーシとアルフリスだけが、苦虫を噛み潰したような表情を作りつつ、多少の安堵感を得た。潜伏や隠密こそがセラーナの最も得意とするところだったからだ。
「いや、気持ちを先走らせてはいけない。ここは慎重に情報収集を……」
「うおーん!」
場を落ち着けようとしたリーシの言葉を遮って、共に落ち着きを演出せねばならない筈のアルフリスが大音声で泣き始めた。
「お嬢、よかった……よかった……うおーん!」
「騒がしいわね」
突然、扉が開け放たれた。
そこには、『風走り』で長時間走り通して顔を上気させたロベルク、セラーナ、そして顔色一つ変えないフィスィアーダが立っていた。
氷月九日。
ロベルク、セラーナ、そして再び封印を破り顕現したフィスィアーダは、イルグナッシュの市門をくぐった。
ウインガルド義勇軍の善意の協力者ナセリアがセラーナ王女であったことは、まだリーシしか気づいていない。もっとも、事件自体イルグナッシュにはまだ伝わっていなかった。ジオ帝国への背信が露見する覚悟で急報の早馬を走らせたベルフィン商会と、『風走り』で移動したロベルクたちが、ほぼ同時に到着したからだ。
三人はまっすぐ城へと向かう。
行方不明とされていたロベルクたちの姿を見て慌てふためく門番。
「つい今しがた、急報が来ましたが、それはまさか……」
「僕達のことかも知れないね。リーシに会いたいんだけど……」
「今は会議中ですが、きっとお喜びになるに違いありません」
確認に行こうとする門番の責任者をセラーナが呼び止める。
「二度手間だから、ついて行っていい?」
「は。お三人だったら大丈夫でしょう」
一行は門番の責任者について城門をくぐった。
セラーナはマントのフードを取る。深呼吸をひとつすると、久しぶりにひとつに結んだ黒髪を軽く揺する。
門番の責任者が振り返るが、目が合うと顔を赤らめて前を向いた。だがそれは貴人を見た反応ではなく、髪型を変えた美少女と目が合って気恥ずかしくなった様子だった。
館の中は相変わらず綺麗に整えられていたが、どことなく落ち着きのない空気に包まれていた。階段を上り、リーシの執務室へ導かれる。
騒ぎ――歓声だ。
首を傾げるセラーナ。
「なにかしら?」
「さっきの急報とやらは、どうやらいい知らせだったようだね……」
ロベルクの返事を遮るように、全ての歓声を掻き消して吠えるような声が響いた。
「うおーん!」
「…………」
三人は視線を交わす。怪訝そうなフィスィアーダに、ロベルクは苦笑し、セラーナが溜息で返事をした。
セラーナは門番の責任者を追い抜かし、手ずから執務室の扉を開いた。
「騒がしいわね」
中の面々の視線がセラーナに集中する。
半瞬も掛からずに静まり返る執務室。
「……ただいま」
彼女に視線を向ける人々の表情は様々だ。帰還を歓迎するものが半分、誘拐犯ロベルクが間髪入れずに現れたことへの驚きを見せるものが半分、といったところだ。音といえば、号泣を必死で堪えるアルフリスの嗚咽のみだ。
リーシが立ち上がり、扉へと歩を進める。セラーナの前に来ると、リーシは跪いた。驚く義勇軍の重鎮たちを背に、リーシは口を開く。
「セラーナ王女殿下」
その言葉に、重鎮たちが息を呑んだ。視線がリーシからセラーナへと移る。
「……あ、バレちゃったか……」
セラーナの返答に、重鎮たちの顔面から血の気が失せた。
「な……なんだって……」
「ナセリアが、王女殿下……」
リーシは言葉を続ける。
「セラーナ王女殿下、ご帰還おめでとうございます。殿下がお健やかにおわしましたこと、このリーシ、恐悦至極に存じます」
リーシが頭を垂れる。
ソファや椅子に腰掛けたまま唖然としていた面々は漸く理解が追い付き、慌ててリーシの後ろに跪くと首領に倣う。
再び口を開くリーシ。
「これまで我々が殿下にいたしました御無礼の数々、到底許されるものではございません。しかしながら、我々の人材は未だ貧弱。王国の未来の為、何卒わたくしめの首ひとつでご容赦頂きたく、伏してお願いいたします」
「!」
跪いていることも忘れてリーシに気遣わしげな視線を送る義勇軍の重鎮たち。
セラーナが微笑んだ。
「愛されているのですね、ヒルヴィ副伯」
「は……」
「わたくしはあなたに感謝しているのです。よくぞ我らの魂を……ウインガルド王国の名を守ってくれました。そのような功臣をなにゆえ罰したりしましょうか」
「!」
思わずセラーナの顔を見上げるリーシ。その目から涙が溢れ出す。
「勿体なき御言葉、痛み入りましてございます。この上は、さらに身命を賭して……」
「いけません」
「えっ!?」
セラーナの言葉に、感涙も引っ込む勢いで聞き返すリーシ。
「命は最後の最後まで掛けないこと。生きようとする意志こそが、限界を超えた力を発揮するのです。わたくしは雌伏のときにそれを学びました。皆さんもゆめゆめ忘れてはなりません」
「はっ!」
一糸乱れぬ、とはいかなかったが、一斉に頭を下げる義勇軍の重鎮達。
それを見遣り、セラーナはやや緊張した面持ちで微笑みを作った。
「ぐずぐずしている暇はなくなりました。わたくしが戻ってきた……ということは、今ここにシルフィーネ王朝の再興が……否応なしに成ったっということです。ヴォルワーグ皇子が指を咥えて見ているはずがありません。再び灯ったシルフィーネ朝の火があっという間に消えるのか、燃え上がるのかはわたくしたち次第。共に手を携え、奪われた国土を取り戻しましょう!」
「殿下のご帰還は、必ずや在野の将兵たちを奮起させ、ウインガルドの旗の下に馳せ参じさせることでしょう!」
「おおーっ!」
リーシの返事に呼応して執務室に歓声が響く。
後世の歴史家によれば、『セラーナのシルフィーネ王朝』(シージィ帝国式には『後シルフィーネ朝』)の成立はこの日、大陸暦六二五年氷月九日とされる。再び正当なるウインガルド王室が再び表舞台に立った。それは燻り隠されていた戦の火種が再び燃え上がることも意味していた。




