第百三十四話 『消息』
格式の高めな宿をとるはめになった。
密談――というほどのものではないのだが、ジオ人であるイオテニフが共も連れずに歩き回ると、いろいろと不穏な空気になるかも知れない、という配慮である。もっとも、レイスリッドと気安く語るこの男をそこらの領民や将兵にどうこうできる筈もないのだが。
厚い扉の客室に入る。応接セットに各自が腰をかけるなり、ロベルクが表情に掛かる影を隠さぬまま話の口火を切った。
「まずは、病に冒されていた母を無理矢理旅に同行させた理由を聞かせてください」
「……俺たちは、死んだことになっているはずだが」
「確かに。しかし、七十余年も閉鎖された森で暮らしていれば、漏れ聞こえてくるものです。真相を知ったことは隠していました。僕に知られるのは都合が悪いのだろうと思いましたから」
ロベルクの言葉を聞いたイオテニフは、口を噤んだ。しばし息子の姿を眺めると、ゆっくりと口を開いた。
「お前の母、ミューリュリーの病は、森妖精だけが罹るものだった。評議会は、西の妖精の森で治療法が確立されたという噂を聞きつけ、俺にミューリュリーを連れてそこへ向かえと命じた……実際は、感染を恐れて俺とミューリュリーを森から追放したに等しい。俺はロベルクの養育を信じ、西の妖精の森に治療法があることを信じ、旅立った。いや、そうするしかなかった。あのときの俺には力がなかった」
そこまで語ると、イオテニフは息子の顔を一瞥した。
ロベルクは特に口を挟む必要性を感じていなかったので、ただ頷く。
イオテニフは言葉を続けた。
「病身のミューリュリーを連れての旅は酷いものだった。だが、ミューリュリーの方が余程辛いと思えば、俺の苦労などどうでもよかった。生命の精霊を使い倒し、それでも途方もない時間がかかった。いよいよ生命の精霊が寄り付かなくなった頃、漸く西の妖精の森に辿り着いた。果たして、治療法はあった。いや、正確には、病の悪化を遅らせる方法、というべきか」
イオテニフの周囲の闇――混沌が色濃くなる。感情が蝕まれているのだ。
「たった数年だったが、ミューリュリーと共に過ごす時を延ばしてくれて、埋葬までしてくれた……そういえば、彼女の病は感染性のものではなかった、という知見を得た。西の森の同族には感謝しかない。同時に、俺たちを追放した東の森の連中への恨みは深まった。このまま心が荒れていく俺が大恩ある西の森に居続けては、いずれ害を与えてしまう……そう考えた俺は、西の森を出ることにした。五十年前くらいだったか。冒険者や用心棒の真似事をして食いつないだ。何せ、大陸を跨ぐ旅で実力だけは付いていたからな。そんなときに俺を拾ってくれたのが、ジオ帝国騎士サイルベード・メルスドリア……後のゼネモダスⅢ世だ」
「ゼネモダス……」
ロベルクがその名を反芻する。途方もない話だ。自分の父が、皇帝に直接仕えていたとは。
「母を助けようとしていたことは理解しました。息子の僕からもお礼を……ありがとうございました」
「夫として当然だと思っている」
イオテニフがすっかり冷めた温葡萄酒を口に含む。ロベルクたちもそれに倣った。
レイスリッドがつまみの干しロヒ魚を噛りながら口を開く。
「で、帝国森妖精軍大将軍閣下が、こんな異郷で何をしている?」
「元、だ」
イオテニフが憮然と訂正する。
「陛下が崩御なされたことは知っているな?」
「ああ。ルーノ皇子殿下に暗殺されたとか」
「そうだ。卿も知っての通り、俺達は『大将軍』などという大層な肩書を拝領し、大軍を統帥しているが、その本質は陛下個人の臣下……つまり陛下の私兵だ。故に、俺は皇都ジュマールにいる意味がなくなった」
「確かに、俺達は『皇帝陛下』ではなく『ゼネモダスⅢ世陛下』に忠誠を求められた……成程、合点がいった。で、ここには他に何人来てるんだ?」
「俺と、クリッド殿、トーブル殿だ。配下は殆ど置いてきたが、どうしてもついてきたいと言った者が一万くらいいる」
レイスリッドが、ふむ、と声を漏らした。
「すると、ヴォルワーグ殿下に付いたのは、レサーレ殿と、恐らくその指導者フォラントゥーリ殿。ルーノ殿下に付いたのは、エグネラーク殿……か。魔法軍は? いまは誰が大将軍なんだ?」
「卿が行方不明になったあと、ナイルリーフという男が大将軍になった。ぽっと出の男だが実力は申し分なく、誰も異論は挟まなかった。で、彼も目下行方不明さ。現在はルーノ皇子の食客でソイドリグという……男? ……女? 不思議な奴が大将軍代理と名乗って魔法軍を束ねている」
「ナイルリーフ……」
三人とも、その名に聞き覚えがあった。リグレフの内戦で死闘を演じた魔導師。最後はバルコニーから海に落ち、その行方はわかっていない。
三者三様に、その名が齎す心のざわつきを飲み込む。
再びレイスリッドが口を開いた。
「……つまり、どちらも過半数の大将軍の支持を得られなかった、ということか」
「魔竜エグネラークは土地の守り神だから、実質0人だろう。だが、ルーノ皇子が軍の掌握に成功すれば、潮目は変わる……卿はどうするんだ?」
「俺は、どちらにもつかない」
レイスリッドの言葉は、ロベルクとミーアには当たり前だったが、イオテニフを酷く驚かせた。
「卿はルーノ皇子殿下に付くと思っていたが……暫く見ない間に、雰囲気といい考え方といい、随分変わったな。そういえば、今までなにをしていたんだ?」
「話せば長いのだが……簡単に言うと、東大陸まで飛ばされていた……」
レイスリッドは、ヴォルワーグの奸計でヴィナバードに吹き飛ばされてからここに至るまでの経緯を、掻い摘まんで話した。リグレフの内戦の後は、ヴィナバード周辺の政情安定化に奔走していたようだ。
「……で、今はこいつの手助けのためにちょっと足を伸ばしてきたってわけだ。悪党に恋人を拉致られちまってな。取り返した上で、そいつをぶちのめさなくてはならない。少々面倒な相手だからメリコトカ伯爵に助力を請いにきたのだが、色よい返事はもらえなかった」
「成程」
イオテニフは顛末を即座に理解した。
「じゃあ、ロベルクは俺たちとあまり関係を持たない方がいいかも知れないな」
息子の方へ向き直るイオテニフ。
「俺はジオの大将軍だった。お前が俺とあまり関わると、恋人によく思われないだろう」
「父上、残念です。一度は轡を並べたかった」
「なあに、今のお前は十分強い……精霊を見ればわかる。それに、俺たちの時間はまだまだたくさんある。百年もしないうちに再び会うこともあるだろう」
「父上が生きていたとわかっただけで十分です」
ロベルクの表情に掛かった影は、折り重なった帳のうち幾枚かが取り除かれたかのように明るみを取り戻していた。




