第百二十三話 『十面埋伏』
葉月十九日、早朝。
日が昇り、じりじりと暑さが増してきた頃、ロベルクが街道の果てにに人影を認めたのと、斥候が駆け戻ってきたのは、ほぼ同時だった。
「義勇軍、退却してきます!」
「よし。土塁を下げる。協力者の皆さんに水と食料、寝台の準備を依頼。弓箭兵は矢と太矢の準備」
「承知!」
ロベルクが土の精霊に呼びかけ、土塁の一部を下げて通路を作る。斥候がそのまま細く開いたすき間に吸い込まれていった。
その間にも街道には次々と義勇軍が姿を現していた。夜通し駆け続け、よれよれの様相だ。ジオ軍に追いつかれていないのは奇跡としか言いようがない。
ロベルクは、近くで橙色の花畑を眺めている幼い姿の御使いに声を掛ける。
「メイハースレアル、君には予定通り義勇軍の治療をお願いしたい」
「任せて!」
メイハースレアルは土塁の背後に飛び降りると、耕地との間に設営された天幕の群れの中へ消えた。
隊列も組まず、ばらばらに退却する義勇軍。まず到着したリーシ隊は辛うじて集団としてのまとまりをもって退却してきた。
そのあとを追って退却してきたのは先陣の混成部隊だ。
「アルフリスがいない」
セラーナが、ロベルクだけに聞こえるように囁く。
「多分大丈夫。優秀な将か強力な殿がいないと、こんなに早く帰れないよ……ほら」
ロベルクが指さした先に、アルフリスか姿を現した。彼は走りつつも時折振り返っては突出し過ぎたジオ軍に大剣を叩きつけ、他の義勇兵に追いつかない様に振る舞っている。
「アルフリス……よかった」
「彼は優秀な将であり優秀な殿だね。だけど……」
「戻れたのは三分の二、ってところね」
セラーナの瞳に哀悼の色が浮かぶ。が、それを払うように首を振ると、支給されたクロスボウに太矢を装填した。
ロベルクは土塁の裏で待機していた自身の部隊に司令を下す。
「全員、土塁の上へ。反撃態勢に入る」
五十人の義勇兵が土塁の上に並ぶ。広い土塁に等間隔に並んでいるので、兵同士の間隔は広い。ロベルクとセラーナは右端、フィスィアーダは左端に陣取る。指令は風の精霊を利用して届けるので遅延はない。
義勇軍が花畑を避けて細い通路に分散し、列を作って土塁の隙間へと逃げ込む。天幕に転がり込んだ者から、メイハースレアルと、彼女によって一時的に祝福され、力を強化されたた生命の精霊使いが傷と疲労を癒やし、有志の町民が食料と水を提供する。
最後にアルフリスが内側に駆け込むのを確認して、ロベルクは土の精霊に呼びかけて土塁の隙間を閉じた。
ジオの軍勢が迫る。
街道を抜けたジオ軍は、開けた土地でいったん集合する動きを見せた。夜間に休憩を入れたのか、義勇軍より多少動きがいい。おかげで追いつかれなかったのであれば、義勇軍にとっては幸運だった。中軍がやや突出、左翼右翼がそれに続く、魚鱗陣である。明らかに花畑を踏み荒らす陣形だ。
整列もそこそこに、中軍からラッパの音が鳴り響く。
鬨の声。隊長以外全て歩兵のジオ軍が一斉に駆け出した。多少の犠牲は顧みず、土塁を登って突破する動きだ。
(そのまま……来い……来い……)
全速力で迫る大雑把な魚鱗陣を睨み付けるロベルク。間もなく花畑だ。
「弓箭兵、構え。精霊使いと魔道士は召喚及び詠唱開始」
ロベルクの指示の元、弓を持つ者は矢をつがえ、クロスボウを持つ者は構える。あちこちで精霊が姿を現し始めた。
もしジオがイルグネを、せめて属国や植民地として、たとえ不公平であっても公に交易を行っていたら、耕地を蹂躙するような陣を敷いたりはしなかっただろう。また、もしドラッティオがウインガルド義勇軍を侮っていなかったら、追い付かれる危険を冒してまでわざわざ花畑を避けた義勇軍の非効率的な行動に疑問を持っただろう。しかし、どちらにもならなかった。
最初のジオ兵が可憐な花を踏みしだく。
「っ‼」
彼は声もなく、二列目を走る兵の目の前から急に消えた。
「えっ⁉」
二番目の兵も、脳が異常を察知したときには既に足裏の地面を失っていた。
「止ま……」
なん人もの兵が制止の声を上げようとしたが、突撃命令を受けて走り始めた軍勢は前進を止めることはできなかった。そもそも、倒れた者を踏みつけ、乗り越えてきた軍勢だ。初めの落とし穴が一杯になれば次の落とし穴に嵌っていく。花畑に口を開けた千の落とし穴は数瞬を数える間もなく悲鳴と怒号の坩堝と化した。周囲には砂煙が上がり、視界を薄膜で遮った。
半数ほどが罠の犠牲となり、漸くジオ軍は突撃を止める。
砂煙が収まり、ジオの将兵が土塁を見上げたとき、彼らは目を疑った。突撃前まで五十程しか並んでいなかった義勇軍が、いつの間にか二百を超える規模で整列し、落とし穴の原に鏃や杖を向けていたのだ。
「なんとかうまくいったな……」
ロベルクの『蜃気楼の魔法』である。なん人も同じ人物が並んでいる。しかし、混乱をきたしたジオ軍にそれを確かめる余裕はなかった。
「放て」
ロベルクの指示で攻撃が開始された。元々の人数は五十だ。既に穴の底で杭に刺さっている死体と脱出しようと藻掻いている者を選別する余裕はない。五十人はまず、火矢と火の精霊を穴の底に放つ。
落とし穴から炎と黒煙が吹き出す。あちこちで悲鳴が上がり、落とし穴を己の肉体で埋めていく。一方で、偶然通路を進んでいた集団は、逆上して土塁方向へ決死の突撃を敢行してきた。
「氷槍。刺し貫き、厳冬の墓標とせよ」
ロベルクがシャルレグに攻撃を命じると、氷の王シャルレグが即座に反応した。通路の地面から巨大な無数の氷柱が聳え立ち、落とし穴を避けて密集したジオの将兵を串刺しにする。反対端の通路ではフィスィアーダが魔法を放っており、その光線のような冷気はあらゆる生命の肉体を粉微塵にし、無慈悲に消滅させた。花畑の罠だけで、ジオ軍はさらに半数の兵を失った。
ことここに至って、漸くジオの中軍後方の本陣からラッパの音が聞こえてきた。それに合わせて、動ける兵は後退していく。
頷くロベルク。背後に控えていた連絡員に声を掛ける。
「回復が済んだアルフリス隊の数は?」
「約半数です」
「よし。敵の後退に合わせて打って出る。落とし穴の後始末はリーシ隊がしてくれるから無視する。弓と魔法の射程を保って、攻撃は遠隔攻撃のみとする。前進!」
「おおおお!」
ロベルクが土塁に下り坂をこしらえると、義勇兵は雄叫びと共に駆け出した。同時に土塁の隙間から心身共に満たされたアルフリス隊が飛び出してくる。蜃気楼の魔法と風の精霊による拡声によって、その数は千を超えるものに捏造されていた。
火焔の中から現れた義勇軍の姿に、後退を始めたジオ軍の本陣がさらに混乱し始めたのが遠目にも見て取れた。中軍から後退するはずの陣形は崩れ始め、我先に逃げる者が出始めている。
死の燭台と化した落とし穴の間を駆け抜ける義勇軍。落とし穴の殆どは、焼死した者と串刺しになってから焼死した者で満たされていた。運良く落とし穴から這い出すことができたジオ兵も後詰めのアルフリス隊によってとどめを刺されていく。三年の間、高圧な支配を続けてきたジオ人に対し、ウインガルド人は容赦なかった。
混乱、そして黒煙と叫喚の中にあったジオ軍は、残留兵力の半数程度にしか見えない義勇軍の反撃に、さらに浮き足立ち、武器防具を捨てて逃走し始める。
平地が狭まっていき、隘路へ殺到するジオ軍。
と、急に森の中から太矢が飛び、先頭を切って馬で逃げたドラッティオとその側近たちに襲いかかる。ドラッティオは無恥と任務放棄の代償として側近の数人と馬を失った。
一度に百ほどの太矢を受け、伏兵を悟ったジオ軍。そこに短槍ほどもある弩砲の太矢が複数打ち込まれ、数人の兵士が一度に刺し貫かれる。間髪入れずにさらに百の太矢。再装填の射撃間隔ではない。森には最低でも二百張りのクロスボウがジオ軍を狙っているということになる。すでに事前に把握していた兵力を超えている。
ジオ軍は指揮官から末端まで等しく恐慌状態に陥っていた。
ロベルクは一度追撃を止めると、その場にひとが隠れられる程度の氷の壁を二百ほど立てる。数が多いのは勿論偽装のためだ。
「攻撃用意!」
兵達が一斉に氷壁の裏側で弦を引き絞る。同時に小声の詠唱も聞こえる。
「放て!」
五十の攻撃がジオ軍の背後から襲い掛かる。
狭い街道の入口で、退却するジオ軍の隊列が乱れた。
「あー、ドラッティオが真っ先に逃げたわ」
セラーナが街道の奥を眺めて首を振った。
アルフリス隊が壁の隙間から突出し、もたつくジオ兵に後ろから斬り掛かる。この壊乱でドラッティオはさらに約五百の兵を失った。
アルフリスは深追いを禁じ、隊を戻す。
「これより我らは花畑に戻り、残敵掃討に移る。ロベルク、よろしく頼むぞ」
「言われるまでもない。健闘を祈る」
ロベルク隊は僅かに体力回復の魔法を施して追撃を再開する。森から五十人の義勇軍が合流した。クロスボウは確かに二百張りあったが、半数は台に固定されており、射撃と同時に紐で操作されていたのだ。
逃げ続けるジオ軍が、今度は急に転倒し始める。そこへ射込まれる太矢。再び百発ずつ二連射。ロベルク隊も息を合わせて背後から追い立てる。再びの十字砲火にジオ軍はもはや軍としての規律を維持してはいなかった。
青息吐息で駆けるジオ軍に、今度は東の岩山から落石が襲いかかる。微弱な精霊魔法で支えられていた岩を解放するという仕掛けだが、それに気づいたのは追う側であるロベルク隊の精霊使いだけであった。
もはやジオの軍勢は散り散りとしか言えない様相を呈していた。疲労と恐怖で満たされた彼らの目には、地面に雑に埋められた罠に気づく余裕はなかった。猛獣狩りの罠に足を挟まれた兵たちは次々と討ち取られていく。
「もう少し!」
追うロベルク隊の前に、木を倒しただけの簡単な柵が現れる。
ジオ兵の数人が絶望し、へたり込む。だが歩みを止めたとしても彼に待っているのは死だけだ。
倒木の向こう側で待ち受けるのは、クスター隊の百五十人だ。じっくり待ち伏せて、体力も気力も充実している。
倒木の陰から、火の精霊が放たれ、地面に仕込まれていた油壺が発火する。火の壁と木の壁、二つの壁にジオ軍は退却を阻まれた。
そこにロベルク隊が追いつき、もはや死の象徴となった氷壁が立ち始める。
ジオ軍は越冬する虫の群れのように丸く集まっていた。
「構え」
ロベルクが攻撃準備を指示する。右手を振り上げ――
「突撃、突撃しろぉ!」
輪の中から狂気に冒された叫びが響く。
ドラッティオだ。
ジオ軍が一斉に獣じみた雄叫びを上げる。
兵士たちは炎に焼かれながら火の罠を突破していく。
「お前だ、お前が先に行けぇ!」
ドラッティオに蹴り飛ばされた兵士が数人、炎の壁に突っ込む。突破しようとする姿勢ではない。腹から飛び、火に覆い被さったのだ。その兵を踏みつけ、炎の壁を通り抜けるドラッティオとその側近。
「うわ……人の上に立っちゃいけないやつだ……」
セラーナが呆れた声を漏らす。
ロベルク隊は決死で火に飛び込むジオ軍に容赦なく矢と魔法を浴びせる。
倒木の向こうからクスターの怒号が聞こえる。
「攻撃! 一兵たりとも逃すな!」
敗走してきたとはいえ、もともとジオ兵のほうが人数が多い。決死の突破を試みるジオ軍に、クスター隊は苦戦を強いられていた。
ロベルクも剣を抜き放つ。
「これより近接攻撃を許可する。突撃!」
鬨の声が上がり、伏兵を吸収したロベルク隊二百がジオ兵に突撃する。
たちまち乱戦状態になった。ジオ軍は、背後をロベルク隊に圧迫され、戦うのか炎の壁を通り抜けるのかという二者択一を迫られていた。自暴自棄になった将兵はそれぞれが勝手に行動し、次々と討ち取られていった。
「ドラッティオが逃げた!」
敗走したジオ兵の掃討もほぼ終えようとしていた頃、炎の向こうから叫びが上がる。
「いけない!」
ロベルクは魔法で即座に炎の柱を消し去ると、倒木を飛び越えて駆ける。常にそばで戦っていたセラーナだけがその行動に気づき、後を追ってきた。
遙か遠くの丘に、甲冑を脱ぎ捨てて側近と共に走るドラッティオの姿が見える。
「このままでは見失う……シャルレグ!」
ロベルクは氷の王を召喚した。透明な氷のドラゴンが姿を現し、臨戦態勢をとる。
ドラッティオの姿が丘の向こうに消えていく。
(取り逃がしてしまうっ! ……街道ごと凍らせていいか? 自軍への影響は?)
次の瞬間、快晴の空に一瞬で白雲が立ち上ると、巨大な雷がドラッティオの一党を打ち据えた。
二瞬ほどのち、地を割らんとするような激しい破裂音が耳を打つ。
静寂が訪れる。
丘の上にあったドラッティオ一党は、残らず黒い焦げの塊に成り果てていた。
その奥から丘を登って現れた二つの影。
ひとりは鈍く光る黒い鎧を身に付けた、薄褐色の鬣のような長髪を持つ男。
もうひとりは、白い司祭衣に緑のマントを纏った栗色の短髪の少女。
「レイスリッド! ミーア!」
ロベルクとセラーナの声が重なる。
丘の上には、半年前に別れた懐かしい姿があった。




