第百十九話 『蟻の一穴』
ハックリーは、イルグナッシュとイルグネ、そしてリアノイ・エセナを巡って物資の輸送や土地の産品の売買を生業とするウインガルド人の行商である。
大陸暦六二四年葉月七日、彼は前日までにイルグナッシュでの仕入れを終え、その日を行商団の休養日と決めていた。ハックリーはジオ帝国相手にも商売をしている行商なので、宿屋で個室を利用することを許されている。鎧戸が陽光を遮ってくれたおかげで惰眠を貪ったハックリーは、その日、遅い朝食をとっていた。
大して豪華ではないが腹は膨れる定食。そして酒。ハックリーの休養日の楽しみは、朝から酔っ払って一日を過ごすことだった。
だが、彼の楽しみは中断を余儀なくされる。入口の扉が荒々しく開かれ、二人のジオ兵が不機嫌そうな足音を立てて入ってきた。兵士たちはハックリーと同じ大机に陣取って腰掛ける。
(厄介なことになった)
たかられるならまだまし、酷いときは酒の肴に殴られることもある。だが、ジオ人によるウインガルド人に対する理不尽な暴力など慣れっこなハックリーは、先んじてエール酒を二つ注文し兵士たちに差し出す。
「兵士様、いつも街のためにお働きくださり、ありがとうございます」
心にもない世辞を口にするハックリー。
ただ酒と褒め言葉に、苛つきを僅かに収めるジオ兵。
「全くだ! 働き過ぎってもんだ! ……食い物もいいよな?」
「勿論でございます」
ハックリーが即座に肉の串焼きを注文する。ただ飯にもありつけたジオ兵たちは、さらに機嫌を直す。
「お疲れのご様子。一体、どうなさったんですか?」
「出陣命令だよ……四日後に出陣だとさ。急すぎる」
確かに急だ。商人の勘ともいうべき違和感が、ハックリーの思考を安全確保から商売へと切り替える。
「ずいぶん急でございますね。ご準備もお忙しいことでしょう」
「今までにこんなことはなかった。あと十日、休みを貰っていたのに、ふいにされた。娼館にでも行こうかと思っていたのに。気に入ってたウインガルド女が急に失踪しちまって、新しい相手でも探そうと思ってたんだが」
きな臭い。
治安維持やちょっとした盗賊団の討伐程度で、非番の兵まで招集することはない。つまり、どこかで大規模な戦闘が行われる前兆だといえよう。
ハックリーが二杯目のエール酒をジオ兵たちに差し出す。
「それはお疲れ様でございます。軍功の前祝いということでもう一杯。そういえば、このたびはどちらへ向かわれるのですか?」
「ああ、なんでも南の方らしい。イルグネとかいう町で暴動が起きたそうだ」
「ほう。イルグネといえばウインガルドが統治を許された数少ない町。ジオ軍の皆様にお救いいただければ、いまより増してジオ帝国に感謝と敬意を持つことでしょう」
「違いない」
大変なことになった、とハックリーは内心大汗をかいていた。大変とは、ウインガルドの残光が消される大変さと、商売について危険をはらんだ好機がやってきたことの二つの意味である。どちらの大変さを重視するにしても、この兵士からさらに情報を引き出す必要がある。
「ところで、どの程度の兵力を街の守りのために残してくださるのでしょうか? 兵士様にお守りいただいているからこそ無事に商売ができております手前、街から兵士様が減るのは心細いです」
「今回は俺みたいな奴がたくさんいるらしい。話によると四千人が出撃するそうだ。つまり全体の……ほとんどだ」
「……それはおおごとでございますな」
(四千……全体の八割か。つまりイルグナッシュに残すのは千人……)
駐留する兵力の大部分を出撃させるということだ。イルグネの討伐にそんな大兵力を運用するということは、いよいよイルグネのウインガルド人を根絶やしにすることにしたのか。
ハックリーは全身全霊をもって平然を装った。
その間にも兵士たちは飲み食いを続け、ハックリーから満腹と酩酊をせしめた。ようやく腹をさすりながら立ち上がるジオ兵。勿論、代金を出す素振りは欠片も見られない。
「ご武運をお祈りいたしております」
「おうよ。次にお前の店を見つけたら贔屓にするぜ」
立ち去るジオ兵。
二人が出て行った扉が閉まる。
(私の運勢に巨大な何かが乗ってきた。幸か不幸かも定かでない、巨大な何かだ……)
ジオ兵の気配が完全に消えた途端、ハックリーは全身から汗が噴き出すのを感じた。手拭いを取り出し、顔を拭う。
(危険、とかいう生易しい情報じゃない。道は二つ。ジオ帝国に使い倒されながら細々とした安定を取るのか、はたまたいつ滅びるかわからない祖国にいつ手に入るかもわからない高値でこの話を売るのか……そもそも売ったところで敵兵力は約八倍。退けられるのか。どの道、賭けるのは私の命……)
ハックリーは悪酔いしかけるほど悩みに悩み抜いた。
そして彼は、自身の未来を後者に賭けることにした。




