第百六話 『作られた将軍』
トニーダ将軍と五体の魔獣を失ったジオ帝国魔獣軍は、アルフリス隊と城壁上のクロスボウ隊の挟撃を受け、門前広場の戦線を維持することができずに敗走した。魔獣に手も足も出なかったクロスボウ隊も、強力な敵に一矢報いることができ、生き残りの兵士たちは肩を叩き合った。
北門の修理を手伝っていたロベルクのもとに伝令兵が駆け付けたのは、それから二日後のことだった。
「敵将が目を覚ましました」
「すぐ行く」
ロベルクは短く返事をし、作業に当たっていた仲間に断りを入れると、トニーダが収監されている領主の館へと向かった。
トニーダは貴族の捕虜として館の一室に監禁されていた。その他の捕虜は地下牢に投獄されているが、応急手当や最低限の食事などは施されている。
ロベルクが部屋に入ると、リーシと長身の側近、そして旅の仲間は既に集合しており、トニーダが横たわる寝台を遠巻きにしていた。
トニーダの両手両足には、過日の驚異的な戦闘能力を考慮して鉄製の枷が取り付けられていた。トニーダはロベルクに顔を向けようとして、痛みに顔を顰める。その動きは緩慢で、一昨日に見せた鬼神のような覇気は微塵も感じられなかった。
ロベルクを視野に収めたトニーダは、はっと目を見開いた。目元から涙が溢れ出す。
「やはり……夢ではなかったのですね……」
自分の顔を見るなり泣き出したトニーダを見て、ロベルクは軽く狼狽えた。
「夢……とは?」
「この『命ある者』は、額冠に操られていたんだよ」
フィスィアーダが答える。
「額冠……」
誰ともなく、その言葉を反芻する。
一同は、トニーダの変わりように一瞬言葉を失った。これが数日前に恐ろしい破壊力を見せつけ、多くの防衛施設を叩き壊し、死傷者を生み出した軍団の指導者だったとは、到底思えなかった。ただの貴族の娘が、額冠に操られただけでこれほどの破壊を撒き散らすとは。
「記憶は……」
「あります」
リーシの問いに、トニーダは木の根でも噛んだかのような苦々しい顔になった。
「ですが、そこに私の意思はありませんでした。まるで、動く絵画をずっと観ているかのような……」
トニーダの顔から血の気が引いていく。今まで戦場を駆け巡った、酸鼻な光景が脳裏で再び蘇っているのだろう。
ロベルクは二日前の戦いを思い出す。確かにこの女性と一騎打ち――いや、セラーナと二人がかりで打ち掛かったにもかかわらず押され気味の戦いを繰り広げた。そしてフィスィアーダの助言により相手の額冠を弾き飛ばし、唐突に戦いが終わったのだ。
「うっ……」
トニーダが身を起こそうとして激痛に顔を顰めた。そのまま長い時間を掛けて上体を曲げ、座る姿勢を取った。枷は手足にしか填まっていないので、寝台の上で身を起こす程度の動きはできるようだ。
「全身の筋肉痛が続いているようです」
兵士が特に哀れんだ様子もなく報告する。
トニーダはなんとか自力で起き上がった姿勢を維持しているが、眉根を寄せ、歯を食いしばっている。起きているのが精一杯な様子のトニーダに、手を貸す者は誰もいなかった。
痛みの中、貴族としての矜持がそうさせるのか、背筋を伸ばし、町の暫定的な責任者であるリーシの方へ顔を向けた。
「私の本当の名前は、トーニエ。トーニエ・クレーゲルといいます。ジオ北方にある小さな町を治める、男爵家の娘です……」
トニーダ――いやトーニエは、自分が魔獣軍に入隊する経緯について語った。負債がかさんだ父の領地へ帝国が支援するのと引き換えに、彼女は嫁に出されることとなったそうだ。その際「貴族としての教養を身につけさせる」という名目で、全寮制の学院に入学させられた。公式の記録では、その後行方不明になったとされている。その後、額冠が持つ支配の能力を引き出す力が高かったトーニエは、トニーダ将軍として魔獣軍を率いて転戦していたということだ。
「自分の意思ではないとはいえ、これまでウインガルドに与えてきた被害の大きさは理解しています。せめてもの贖罪に、帝国や魔獣軍についてお話しできることがあればと思っています」
「そ……そんなことで……」
不意に、リーシの護衛をしている兵士の口から声が漏れた。
「そんなことで命が助かるとでも思っているのか⁉ こいつはジオの将軍……たくさんのウインガルドの民を殺してきた。リーシさんが許しても俺が許さない!」
鼻息荒くトーニエを睨み付ける兵士に、他の兵士たちが大きく頷く。
普段理性的なリーシですら、イルグネ城内外を蹂躙した仇敵を前に、燃え上がる怒りを懸命に押さえ込んでいる様子が見て取れた。
「見ての通り、ウインガルド人はいち町民、いち兵士に至るまでジオへの怨嗟を抱いている。貴公の役目は真偽の曖昧な情報提供ではなく、公開処刑による我が軍の戦意高揚だと考えている」
リーシの隠しきれない殺意が室内を揺蕩う。しかしトーニエは動じる様子も見せず、静かに言葉を返した。
「私も帝国貴族の端くれ……処刑は覚悟しています。ですがこのままでは後悔を抱いて冥界へ赴くこととなりますので」
「…………」
戦場に赴かない令嬢にまで擦り込まれたジオ人の戦争観に気圧されるウインガルド人の面々。
沈黙の中、セラーナがフードの中から声を発した。
「じゃあ、まずはあなたの隊はなんの目的で移動し、なんの目的でイルグネへ進路変更したのか、答えてもらおうかしら」
「待てよ!」
先ほどの兵が荒々しく遮る。
「話を聞いて命を助けさせるつもりじゃないだろうな⁉ リーシさんだって殺すと言っている! せっかくの勝ち戦で捕まえた敵将だ。殺す以外にあり得ないだろ!」
「聞くだけならただよ」
食ってかかろうとする兵士を優雅にかわすセラーナ。セラーナの戦いぶりを見ていなかった兵士は、余裕の身のこなしをするセラーナにさらに腹を立てる。
「俺は……俺はジオ軍の弓箭兵に姉さんを殺された! 絶対に許せない!」
「あら……あたしと逆ね」
セラーナの一言に練り込まれた苛烈な憎悪に、兵士は射竦められるように動きを止められた。
「あたしは姉様以外の……両親と、まだ赤子だった弟、叔父、叔母、いとこ、それに一緒に暮らしていた人たち……みんなジオ軍に殺されたわ。まあ、姉様も行方不明だから生きているのかもわからないけどね」
フードの中から響く透明感のある声は、冷静と言うより超越的な響きを孕み、室内の激しい感情を一瞬で鎮めた。
「……でもね、ここで将軍を殺したら、ジオ帝国とやっていることが同じでしょ?」
「た……確かにその通りだ」
代表のリーシが折れたので、周囲の兵たちも怒りの矛を収めざるを得なかった。
衣擦れ。
トーニエが寝台から足を下ろし、セラーナに正面を向けて座り直した。痛む身体を動かし、延命を提案した相手に精一杯の礼の姿勢をとる。
「我々、魔獣軍第五軍は、リアノイ・エセナに集結すべく移動中でした。旅人などとの余計な接触がないよう、街道を外れた森の中を選んで進軍していました。そこにイルグネを追放された部隊が現れ、合流した我々は報復のために進路を変えてイルグネに攻撃を加えたのです。将軍には国益に適えば独断で軍事行動を起こしてよいという権限が与えられていますので」
運命の悪戯がなければ、武器など握らずに一生を終えたであろうただの貴族令嬢の様相を見せるトーニエ。その口から淡々と語られる軍事の情報と攻撃的な行動に、義勇軍の面々は一様に背筋が冷える錯覚を覚えた。
一方でセラーナは「ふうん」と感情の乗らない返事を返した。若干血の気の引いた様子ではあったが、そのまま敵将に向き合う。
「次に、第二皇子ヴォルワーグ派の有力貴族の中でウインガルド領に戦力を提供している名と、大将軍の配置について話しなさい」
「……ヴォルワーグ皇子殿下に付き従った貴族の中で最も力があるのは、サンバース公爵。大将軍は我が魔獣軍大将軍レサーレ閣下の他、闇神フェル・フォーレンの聖騎士団長フォラントゥーリ府主教」
「なっ……」
その名に、ウインガルド人の面々は雷に打たれたかのように全身を強ばらせ、思わず一歩後ずさった。
「サンバース公爵というのは……?」
「ジオ五王家よ」
ロベルクの問いに、セラーナが言葉を絞り出す。
五王家とは、初代皇帝ディムラルの血を引き、皇帝を選出する権限を持つ五つの公爵家を指す。過去、ジオ帝国は五王家が力の均衡を取ることによって舵取りが行われてきた。先帝ゼネモダスは五王家から帝国の運営に口を出されることを嫌い、簒奪時に五王家の主な者たちを殺害し、それに変わって簒奪に貢献した七人の大将軍に巨大な権力と軍事力を与えることによって、五王家を帝国運営の中枢から排除した。だが、影響力を失ったとは言え、五王家がジオ帝国内で未だ大きな力を持つ勢力であることは変わりない。
「あのろくでなしに肩入れする五王家がいるなんてね。そして……まさか大将軍が二人も付くなんて」
セラーナの口から乾いた笑いが漏れる。
その横で感嘆するリーシ。
「ナセリアは敵情にも詳しいな。それに肝が据わっている。こんな人材がイルグネにはせ参じてくれるとは、風が我らに吹いてきたと言えるな。エクレイド陛下も冥界でお喜びになっていることだろう」
その名――
先王の名――
父の名――
それを耳にしたセラーナはびくっと身を震わす。そしてできるだけ自然に、呼吸を整えながら一歩退いた。
「し……失礼。あたしはちょっと中座させてもらうわ」
「あ……ああ、そうだった。敵将と刃を交えたとはいえ、一介の旅人に対して空気の重い場所に長居させてしまった。済まない」
リーシの謝罪にセラーナが優雅な礼を返して退室する。
しかしロベルクは、セラーナの声の揺れを見逃さなかった。静かに閉じた扉をすぐさま開き直し、セラーナを追う。
廊下を歩くセラーナは早足だったが、次第に歩みが速まり、最後は駆け足になってあてがわれていた私室に飛び込んでいった。
追うロベルクがセラーナの部屋に入ると、彼女は窓の前に立ち尽くしていた。床を踏みしめる足は気迫を込めているのではなく、そうしないと崩れ落ちそうな危うさを孕んでいた。一方で両の拳は震えるほどの力で握り締められていた。
「セラーナ……」
扉を閉じたことを確認して、名を呼ぶ。
「…………」
「セラーナ、気負い過ぎては……」
「……殺したい……」
耐えに耐え抜いた末にそれでも耐えきれずセラーナの口から零れた言葉。ロベルクは彼女が我慢しているのはわかっていた。だが国是を守るため、彼女はトーニエの処刑を止めるしかなかった。彼女の呻きは、苦しみを知っていながら部屋から連れ出さなかったロベルクの心を締め付けた。
振り返るセラーナの頬には、幾筋もの涙が決壊した堤のごとく流れ続けていた。追ってきたロベルクの姿を見たときには、もはや耐える力も理由もなかった。
ロベルクにぶつかるように抱きつき、その胸へ乱暴に顔をうずめるセラーナ。
「こ……殺したい……本当は殺したいよぉ……」
国を治める者として言うべきではない感情。頭でわかっている。
「セラーナ……よく耐えたね……」
ロベルクはまた、セラーナの秘めた感情を受け止められるのが自分だけであるということもわかっていた。そのまま黙ってセラーナの髪を撫でる。
「きっと……『殺さなくてよかった』って思うときが来るんだろう。だから君は殺さない選択をした……僕はそう思うんだ」
「父様……母様……う、うああああぁぁぁぁっ!」
セラーナの悲痛な慟哭は、押し殺し続けていた私情とともにロベルクの胸の内だけで響き渡った。




