第百五話 『一心同体』
トニーダが束ねていた鞭を垂らす。
ちたっ――
戦場の喧噪の中、微かに鞭が地面に落ちる音が鳴る。
それが戦いの合図となった。
トニーダが左腕を振るうと、鞭はまるで生き物のように蠢き、セラーナを襲う。
セラーナは最小限の跳躍で、右へ左へと鞭の先端を躱していく。
同時にワイバーンの尾がしなり、ロベルクへと強烈な突きを放つ。
「シャルレグっ!」
ロベルクは目の前に氷の壁を作り出す。分厚い壁に毒針が深々と突き刺さった。ロベルクは壁を回り込み、尾を切り落とすべく斬り下ろす。しかし毒針はもの凄い力で引き抜かれ、斬撃は空を切った。
「ふっ!」
セラーナは、敵の鞭が伸びきった位置から投げ矢を放つ。
しかし、トニーダが左手首をしならせると、鞭が高速で巻き上がり、空中で渦を作ると投げ矢を叩き落とした。
「小癪……」
トニーダが口走ったとき、セラーナは既に動き始めていた。鞭を防御に使わせることで、隙をこじ開けたのだ。
セラーナは低い体勢から鞭をかいくぐり、トニーダに迫る。小剣が銀の光の如くトニーダに突き込まれる。
完全に鞭の間合いの内側に入り込まれたトニーダは、少し驚いた顔をしつつも、己の小剣でセラーナの攻撃を切り払った。鞭が手元に戻り、セラーナに打ち下ろされる。再び距離を取ることを強いられるセラーナ。
「間合いが二つあるのは厄介ね」
続いてセラーナは球体を転がした。トニーダが石畳に視線を移し、攪乱と判断して鞭を振るおうとすると、今度はセラーナが球体に先んじて飛び込んできた。道具より本人が先行する状況に、トニーダは一瞬だけ躊躇する。
「順に片付けるまで!」
鞭がうねる。まるで生きているかのように襲いかかる鞭を、セラーナは軽やかな跳躍で回避していく。
「喰らいな!」
トニーダは左手の可動部を総動員して鞭を操る。そしてついに鞭先がセラーナの着地点を捉えた。
「っぅ!」
すんでのところで絡み付かれはしなかったが、ブーツ越しに足首を打ち据えられたセラーナは大きく背後に跳んで間合いを広げた。
「その程度の痛みでびびってんじゃないよ!」
挑発するトニーダ。が、上空に気配を感じた彼女は咄嗟に鞭を振り上げる。彼女に向かって落ちてきていた小さな油壺が、鞭の一閃によって砕け散った。獣皮製の鞭に粘度の高い油が付着する。
「ちっ。玉で気を逸らして、もうひとつ投げていたとは……」
濡れた鞭とセラーナとを忌々しく見比べるトニーダ。
「手数が……多いのは……淑女の嗜み」
セラーナは顔を顰めながらも唇に笑みを浮かべた。
セラーナが傷を負った事実に、ロベルクの動きにも隙ができる。
すかさずワイバーンが叩き付けるような爪の一撃をロベルクに見舞う。重いものによる攻撃はまともに受け止めてはならない。武器だけでなく、重さそのものが凶器となって襲いかかってくるからだ。隙に攻撃を差し込まれてしまったロベルクは剣でその攻撃を受け止めてしまい、吹き飛ばされた。
転がったところに再びワイバーンが掴み掛かる。
「吹雪の衝撃!」
鶴嘴のような鉤爪がロベルクの腑を抉る寸前、彼の身体から白く煙った冷気の衝撃波が走った。身の危険を感じるほどの冷気の爆風に、ワイバーンは思わず空中に舞い上がって距離を取る。
その間に、ロベルクセラーナの元へ走った。
「大丈夫かっ⁉」
「心配性ね。でも大丈夫、折ったり捻ったりとかはないみたい。ありがとう」
セラーナの無事に安堵したロベルクは、その視線と剣の切っ先をトニーダに向けた。その顔は憤怒にまみれ、数瞬前の慈愛に満ちた表情はかけらも見当たらなかった。
「別れは済んだかい? 別れを言う余力があったのは、お前たちが鍛えていた証拠だ。無駄ではなかったな」
トニーダが鞭を手元に戻して再び慎重に構えた。その上には、体勢を立て直したワイバーンが羽ばたいている。
「よくも痛めつけてくれたな。許さない……」
「甘いねえ。子供の戦いごっこや机上の戦盤遊びをしてるんじゃないんだよ」
ロベルクの怒りを軽く受け流すトニーダ。
「ジオ帝国の将軍は一騎当千。そして私とこのバルトア――ワイバーンは一心同体。私とこの子がいる以上、イルグネと……ウインガルド王国の命の火は今日消える」
「いいえ」
セラーナは攻めあぐねていたことなど関係ないように反駁する。
「あたしがいる以上、ウインガルドの火は絶対に消えない。あたしが守るから」
「そして……」
地面から氷柱が突き出し、トニーダとワイバーンは後退を余儀なくされる。気づけばセラーナの隣にはロベルクが並び立っていた。
「そして、僕がこの人を守るからだ!」
「面白いねえ……」
トニーダが冷酷な笑みを浮かべた。小剣を構え、鞭を揺らす。
「……おいで」
ロベルクとセラーナは同時に地を蹴った。乱立する氷柱をかいくぐって駆ける二人に、トニーダは鞭を、ワイバーンは尾を封じられる。
一気に間合いを詰めた二人。ロベルクはワイバーンに、セラーナはトニーダに目標を定めている。
氷の林を抜けたところで、セラーナは再び小さな玉をトニーダに向けて投げつけた。
「同じ手は喰わないよ!」
トニーダがいち早く反応し、鞭で球体を叩き付ける。すると球体は弾け、粉末をまき散らす。粉末は鞭の摩擦で発火し、その火は先刻油を吸った鞭をも燃やし始めた。
「これはっ!」
炎を上げて燃え続ける鞭。
セラーナは既に後方へ跳躍し、安全な距離を取っていた。
「同じ手とは限らないわ」
その間にも、トニーダの鞭はこびり付いた油で燃え続ける。トニーダは舌打ちをひとつすると、直に炭化するであろう鞭を投げ捨てた。
一方ロベルクは、氷の林を抜けて視界が開けた途端、ワイバーンに飛び掛かられた。
眼前に鋸のように並んだ牙が迫る。
「くっ」
下顎を殴り上げて反動で身体を沈める。
間髪入れず、直上から鉤爪が降る。
ロベルクは殆ど四つん這いの姿勢から石畳を蹴り、横に跳ぶ。
着地点を目指して迫る尾の毒針。
「おおおあああ!」
しかしロベルクは着地後に押し縮めた全身の筋肉を解放し、身を捻らせながら尾に向かって再び跳ぶ。
「ひゅっ」
短い息づかいと共に斬撃が放たれる。
尾を中心に半回転してワイバーンの背後に着地するロベルク。
少し間を開けて、重い音とともにワイバーンの尾が石畳に落ちる。
「『月の剣・双朔の舞曲』……」
激痛に吠えるワイバーン。堪らず高度を上げる。
「待っていたよ。味方から距離を取ってくれるのをね」
ワイバーンが高空に舞い上がったことを確認したロベルクは、シャルレグに念を送る。反応したシャルレグが実体化を強め、高度を上げるとワイバーンに狙いを定めた。
「生あるものは魂まで凍り付け……形あるものは全ての暖かき絆を奪え……」
シャルレグが竜の口を開く。そして内部では白い靄とともに、力を持たざる者でさえ戦慄する精霊力が渦巻き始めた。
「『嘆きの静謐』!」
シャルレグから力が放たれた。それは靄を纏ってワイバーンを打ち抜く。
ワイバーンは一瞬で羽ばたきを――動きを止めた。そして見る間に形を失って散っていく。肉体を形作っている微細な物質が超低温により結合を失い、空気中に紛れていったのだ。
数瞬の間をおいて、皮膚を切り裂くような酷寒の烈風が、真夏の門前広場を吹き抜ける。戦闘中の将兵は戦うのをやめ、魂を抜き取られたように冷気の出処を見上げた。
「……っ!」
トニーダはワイバーンの消滅を視界の端で捉えると、大きく跳び退ってセラーナと距離をとった。肩がわなわなと震え、表情は眉根に向かって怒気が集束していくのが見て取れる。両の目と、額冠の青玉とが、ぎらぎらと憤怒に光ったように見えた。
「よくも……よくも私のバルトアをっ!」
誰がワイバーンを消し飛ばしたかは明らかだ。トニーダは即座にロベルクに飛び掛かる。
「ぐあああっ!」
野獣のような咆吼を上げ、ロベルクに力任せの斬撃を叩き込むトニーダ。
「くっ」
ロベルクはそのひとつひとつを霊剣でいなし、受け流していくが、目の前にいる華奢な女性が放つ斬撃とは思えない重さに呻きを漏らす。
「将軍よ、戦場に連れてくればこうなることがあるとわかっていたはずだ」
「黙れっ! 黙れ黙れ黙れぇっ!」
狂戦士のようなトニーダの剣幕。
危機感を覚えたセラーナが後ろから追いすがる。
ロベルクとセラーナは二振りの刃で、同時にトニーダへ打ち掛かる。
「ぐっ……ぐがあぁぁぁ!」
二倍の攻撃に一瞬怯んだトニーダ。しかし、即座に対応して二人の斬撃をいなし、それどころか反撃すら繰り出してくる。
(な……なんだこれは……?)
ロベルクの背に薄ら寒い感覚が駆け抜ける。
(この女……ただ強いだけではない。微かな精霊の乱れ……無理矢理に筋力や敏捷性を吊り上げられているのか……?)
ロベルクが防御のために一瞬間合いを広げたの隙に、トニーダはセラーナに力を込めた一撃を放つ。
「があっ!」
「しゃっ!」
トニーダの細腕から繰り出されたとは思えない、重い斬撃。セラーナは無理に受け止めず、吹き飛ばされるように後方へ跳躍する。宙返りしつつ、空中から投げ矢で反撃する。しかし――
「ふんっ!」
顔面を狙った容赦のない攻撃だった。しかしトニーダは己の腕で投げ矢を受け止めた。
「な……なんですって⁉」
攻撃の手こそ緩めなかったセラーナだったが、思わず口から驚きの声が漏れる。
トニーダは、投げ矢を腕に刺したまま、憤怒の形相を一瞬たりとも崩さず、二人に熾烈な斬撃を放ち続けた。まるで隆々たる筋骨の大男が繰り出しているかのような重い攻撃が延々と続く。豹変したトニーダの膂力によって、手に持った頑丈な小剣も、徐々に刃こぼれが見え始めていた。
(どこにこんな力が……肉体の限界が来るぞ)
(相手の力を生かして立ち回ってるけど……そろそろきついわね……)
ロベルクとセラーナはいつしか肩で息をするほど疲労が蓄積していた。
「……剣舞うたびに吹雪巻き起これ」
ロベルクは相手の猛攻がやんだ隙に魔法を発動する。シャルレグから霊剣へと力が送られ、刃が白々と輝いて霞を纏う。
「ぐがあ! がっ!」
「おおおっ!」
トニーダの攻撃をかいくぐり、霊剣を振るう。刃から放たれる吹雪がトニーダの頬を凍てつかせ、肌を竦ませていく。だが彼女のの動きは一向に鈍る気配を見せない。
セラーナが挟み撃ちで小剣を振るう。
トニーダがそれに対処している隙にロベルクが斬り下ろす。視界に入っていないはずの一撃にトニーダの反応が遅れる。
ようやく切っ先がトニーダの長い肩当てを捉える。肩当てを斬り飛ばすが、まだトニーダの肉体まで刃が届かない。
ロベルクたちの背後に足音が迫る。振り向く余裕はない。だがその音と息づかいで音の主はわかった。
「主、額冠を!」
駆け付けたフィスィアーダは、いち早く精霊の乱れに気づいた。
セラーナが反射的に懐から短剣を取り出して投げる。投げ矢より殺傷力は高い。トニーダは難なく斬り払う。
だが、腕を振らせ、隙を作ることこそセラーナの目的だ。
(防御が、開いた!)
ロベルクは間髪入れず斬り上げる。
「届けっ!」
トニーダが意図に気付き、頭を反らせる。だが微かな差で霊剣の切っ先はトニーダの額冠に飾られた青玉を引っ掛けた。
トニーダの額から額冠が弾け飛ぶ。
空中で青玉が小さな爆発を起こし、砕け散る。
額冠が石畳に落ち、甲高い音を響かせた。
「え……?」
トニーダが狼狽えた声を漏らす。
その顔がほんの一瞬恐怖に染まり、直後、糸の切れた操り人形のようにくたりと倒れ伏した。
戦場に突如として訪れた沈黙。
ロベルクとセラーナは呼吸を整えると、抜き身の得物を持ったまま互いに寄り添う。
セラーナの腕がロベルクに絡む。
「こっちも……一心同体なものでね」
ロベルクは、トニーダにではなく、物言わぬ額冠を見下ろして勝利を宣言した。




