臭気を吐き散らす悪性――その1
亜鷹千里の青い瞳が捉えている世界は常人と比べ、些か散らかった印象を受ける。ほぼ密閉状態の室内で揺蕩う黒いシミ、先刻やって来た二人の男女、男の背後で窪んだ眼底を晒す青い人影。しかし、その大半を彼女以外の人間は認識することすら叶わない。
「やっぱり駄目、か」
ピンと正していた背筋を椅子に返却し、吐息を一つ。気中の黒シミは息に煽られて右往左往、縦横無尽と。
「何がですか?」
狭い世界を行き交った。そんな錯覚を起こしていた黒シミの一派を吸い込みながら、背に青い悪性を携せている積重月広が問うて来る。顔が歪んでいるのは恐らく、この黒シミを吸い込んでしまったからであろう。
「残留思念に幾ら語り掛けを行ったとしても、最初から彼等にコミュニケーションを図るという機能などは無かったんだよ。彼等はたぶん、悪性の本体から吐き出された吐息か溜息か、詰まりは一風変わった呼気なんだよね」
吐いた息に言霊が住み付こうとも所詮は同音。得てして代わり映えない言葉を連呼し続ける存在なだけ。千里は続いて説明の補足をしたつもりになっていたのだが、どうにもそれを聞いた月広と陽舞の顔の歪さは一向に晴れる気配を察せられない。
月広に至っては臭気の異様さにいよいよ耐え切れない様子、陽舞もその一歩手前。両者は鬱血したかのように顔相を蒼ざめさせ、両目は虚ろ虚ろと。瞬きの間隔が異常に狭まり、向こう数分の間には閉じたきりになってしまうことだろう。
「えーっと、大丈夫?」
白目を剥こうか、そんな危うい様子の月広はやはり。
「大丈夫に見えますか?」
皮肉めいた苦言を以って返し、小鼻を摘まんで見せる陽舞は意外にも。
「吐きそう……」
千里の見立てより遥かに繊細な神経を成していたようだ。
「無駄だと分かったことだし息抜き――もとい、身体と精神衛生を整える為にもカフェに行きましょうか」
些かばかりの罪悪感が醸す苦味を噛み締めた笑みを繕い、千里は袋をくしゃくしゃに丸め、足元のゴミ箱へとそれを捨てた。
時網大学のキャンパス内に設けられた学食とは別の、外部から出店している『スタートアップ』と名付けられたカフェへ三人は訪れる。
入りがてらに注文を終えていた二つのアイスコーヒーと抹茶風味のラテが、全面をガラス張りにした壁際の席へ運び込まれて来る頃。肩を窄めて見せる千里とは対照的に、向かいに座った二人は未だ浮かない表情を呈していた。
「あの、さ……話し、聞いてた?」
ようやく到着したアイスコーヒーをストローですする千里が問うと、虚ろな目つきの二人は揃って頷いた。
◆
ことの顛末は二日前まで遡った。
千里等が所属する『救済サークル』の長である女性、月波郁刃が千里の前に連れてきた一人の女学生が此度の面倒ごと――サークル活動の依頼者だった。
あの部屋に女学生を運び込んで来た早々、郁刃は窓という窓を全開に開け放ち、一声。
「彼女、普通の腋臭じゃないらしいんだよね」
赤面。その瞬間、郁刃以外の二人は揃って顔を紅潮させた。依頼者は俯き、千里だけが取り乱した様子で叫ぶ。
「郁刃さん、ド直球が過ぎますっ!」
何が、と漏らす代わりに郁刃が見せたのは渇いた笑い。そこで彼女等は思い及び、悟る。この人間のもの見る目が自分たちとは全く異なった目であることに。
「あのですね……普通、女性は誰でも腋臭なんて伏せて置きたい事柄に決まってるじゃないですか。それを郁刃さんは――オブラートって知ってます?」
「薬とか包むアレでしょ? あーあと、柑橘系のお菓子を包んでるのもそうよね。うん、あれは美味しい」
ダメだ。二人が一斉に吐いた溜息はその一言を内包させる。当の本人は依然としてあっけらかんと、今し方に口にした菓子の味を口内で喚起させている様子。緩み切った頬がそれを物語る。
月波郁刃の人間性を吟味する場で無いことを思い出した千里は、吐いた溜息のついでに女学生へと向き直ってから問う。
「それで、詳しく話してくれますか?」
「あ、はい。つい先週辺りからその、臭ってきまして……」
俯き加減はそのままに。女学生は自身の身に降りかかった奇異な変化を途切れ途切れながらしかし、着実に千里へと伝えた。
「つまり。気付いたら腋臭に近い症状が現れた、と。それも汗をかく場面でなくとも、常に腐卵臭が香ってくると」
「はい……今も、しますよね?」
涙袋を膨らませて見つめてくる女性だが、千里はその言葉を聞き及びならも全く別の器官を働かせようとしていた。
「えーっとですね。少しの間、このアイマスクをして貰ってもいいでしょうか?」
「へ?」
千里がそう告げて差し出してきた黒い布地を前に、女学生は当然の困惑顔を返してくる。が、すかさずに元来の役割を思い出したであろう郁刃がフォローに入る。
「変なリアクションとか見せたらアレでしょ? それにさ、あんただって他人が自分の脇を嗅いでる姿なんか見たきゃないっしょ?」
「あ、ああ……はい。それでは」
郁刃からのドヤ顔めいた目配せを千里が受け取ると、女学生の手が千里の差し出したアイマスクを取り、そのまま装着する。
それを見てから今度は郁刃が窓の方へ向き、後ろ手でオッケーサインを送ってくる。そうしてようやく、千里は深く閉じた瞼を開いた。
青――否。その色は蒼と称えられるものだろう。空の色よりも透き通った印象を与えながらも、その奥を見据えればどこまでも深い、まるで深海のような濃い色味の蒼が迎え入れる。陰陽の加減次第で多彩な変化を見せる不思議な色調の瞳が女学生を据える。
「どう?」
何かを察した様子の郁刃が尋ねてくる。
「確かに臭いますね……それも、かなりのモノです」
女性の両脇からフツフツと湧いて出てくる黒い靄を見据えながら千里は応える。
「え、そんなに――?!」
女学生の叫喚に応じたかのようにして、黒い靄は一層に激しく放出されていく。その様は殆に常識の範疇を超えており、人の両脇から暗雲が立ち込めてきている、とも言い表せる奇妙で奇怪な様相である。
暗雲を吸い込まないようにして一呼吸し終えると、千里は再び息を吐き出す間際に閉じた瞼を開き、告げる。
「もう、結構ですよ」
◆
千里のストロー口から聞こえる音が、アイスコーヒーの容器の底に残る数滴を根こそぎに吸い尽くそうと立てる騒々しい音に変わった頃、ようやく二人の顔色が元に戻っていた。
「それであの臭いだった訳ですね」
「抹茶ラテの香りにこんなに感動する日が来るとは……」
淡い緑の液体が収まっている透明なカップを両手で持ち、上部の蓋を取り外して中の匂いを嗅ぐ陽舞の姿はさながら、砂漠の中でオアシスを探し当てた旅人が如く千里の黒目には映る。
「大袈裟よ。そんなこと言ったらチカさんに失礼よ?」
「その依頼者って、チカさんって言うんですかっ?」
「そうだけど……知り合い?」
「あ、いや、顔見知り程度なんですけどね。何度か話はしたことあります」
不意に発せられた第一声が持ち合わせる驚嘆の意は強く、千里にはその後に続けられた月広の歯切れの悪い物言いが酷く気掛かりに思えてしまう。
「何か思いところがあるなら言ってくれる?」
半分以上も残ったコーヒーを一口すすると、月広は一重の瞼を塞ぎ、すぐに開いて見せる。しかしその瞳に漂う決意の色は鈍く、これから彼が伝え聞かせてくるであろう話の内容が薄平べったい物であることを千里は直感する。
「実はですね――」