晩夏
晩夏
蝉時雨の勢いが衰えてきた頃の街並みは騒がしかった。昼夜を問わずに救急、警察、消防と。勢いを欠いた蝉の声を掻き消すかのようにサイレンが鳴り響き続けていた。
時網市内の大学に通う積重月広も、そんな雑多な様子を勘違いを犯した瞳で眺める一人だった。
「最近は雨も多かったからな」
青を基調としたリュックサックを背負い直すと、道を疾走して行く見慣れた緊急車両を横目に大学へ向かって歩先の方も整え直した。
家を出る間際に確認した天気予報の調子は良かったらしく、予報士が伝えた通りの曇り空を呈していた。雲は掛かるのだが厚みの程は薄く、快晴を覆い隠す面積もそう多くはない。比率的には青がやや勝っている。
この調子であれば恐らく、彼が大学の敷地内へ至るまでに降られる心配は杞憂なのだろう。あるとすればここ近年で流行り出してきた局地的豪雨か異常気象の類だけだろう。
大仰な鉄門を月広がくぐり抜けると、夏休み中にも関わらずチラホラと学生たちの姿が目に付く。それらは総じて一箇所か、もしくは二人一組の組み合わせで特別棟前の大階段の空いているスペースを潰している。
彼の目的地でもある特別棟へ向かうにはここを登る他に術はないのだが、赤レンガ調の階段は殆どが人色で塗り潰されてしまっている。普通ならば一声かけて回る手間こそ生じるものの、それさえ克服すれば済んでしまう簡単な事柄である。
しかし彼にとって、他者が取るに足らない手間こそが難儀の程を極めてしまっているのだ。現に階段を見据えながら進む彼の額からは気温がそうさせる以上の脂ぎった汗が滲み出て来てしまっている始末。
コミュニケーション障害、対人恐怖症。呼び名や症状は様々にあるが、積重月広はそれらのいずれも患ってはいない。陥っている疾患が在るとすればそれは、自身の心身が他者に対して異常な拒否反応を示している、という思い込みである。
「お兄ちゃん、どーしたの?」
目の前に聳える現実の険しさに気圧され愚かにも踵を返そうとしていた月広は、血縁関係は全くない義理でもなく、ましてや妹でもない女性に呼び止められた。詰まる所。
褐色の丸目をパチクリと、元から癖っ毛質の長い金髪をコテで更に巻き上げたボリューミーな髪型を引っさげ、白昼夢にでも遭ったかのような不思議そうな顔相を彼に向けてきている背の低い女性――向鷲陽舞はアカの他人である。
にも関わらず陽舞は月広を「お兄ちゃん」と兼ねてから呼称し続けている。出会った当初から数えて、早くも二年と半年近くが経とうとしている現在に至っても。
「陽舞……今日は珍しく大盛況なんだよ」
月広は一瞬だけ自らの体裁を考えた上での説明を検討したが、結局は包み隠すに値しない相手であると判断したようだ。
「暇人の集い、ってヤツだね。それにしても本当に多いよね……二の四の六の八の」
「――数えるのはやめよう。刺激でもしてしまったら、それこそ事だよ」
「もー、お兄ちゃんは臆病過ぎるよ」
結局、同年齢の自主的且つ擬似的な妹の小さな背に隠れるようにして月広は大階段を登ることとなった。
かの有名なT大学の様相を喚起させられる特別棟の赤味がかった建物の内へ入ると、先ず目に付いてしまうのはやはり、この間の抜けたタッチで描かれている一枚のポスターだろう。
仰々しいトロフィーや盾が飾られるショーケースの横に張り出されるポスターには、ウサギにしては耳がやや短く猫にしては長いと……白い毛並みをしている以外の情報が曖昧至極なデフォルメが施されてしまった生き物が中央に描かれ、両端に渡って可笑しな文字の羅列が綴られている。
――日が暮れ今日も明日を待つ。
日が明け今日も昨日を省みる。――
深々しい意味合いを孕んでいるようにも見え、その実、とんと意味の伝わってこない奇妙な語録。ただ唯一、印象という名の記憶保管の優先順位を付ける作業の際には役に立つであろう物は強く感じさせてくる。
故にこうして今も、
「これってどーいう意味だろねー」
「確か小学生が考えた言葉じゃなかったっけ」
「へえ」
一間の話題にはなり得る。
特別棟の二階部、階段や昨年末に設置作業が完了したエレベーターで上がった先。どちらの上昇手段を用いたとしても廊下を暫し歩き進めた先に待つ、そこだけがスライド式の板金製の扉を成している部屋。そこが二人の目的地である。
『悪性と握手』と。駅前のスーパーのチラシ裏を活用していると思わしき、艶めいた白地に黒い油性ペンで達筆に記されている紙がテープで固定されている扉を月広が横開きさせて一声。
「亜鷹さーん、おはようございま――クサッ」
開くや否や途端に香ってくる腐卵臭に顔を歪ませる月広の薄開く視線の先。ブラウンの木目調の長机の上でポリエチレンの透明な袋を両手に、言葉の代わりに満面の笑みで返してくる麗人が一人。
光沢の強みで白い輪を被っているようにも見える長い黒髪。カラーコンタクトを付けているのか、瞼で覆った両の瞳はここへ至るまでに彼が見てきた快晴よりも濃い青色をしている。
「ごめんごめん……今ちょっと実験中だからさ、二人とも早く中に入って戸を閉めてくれる?」
処刑宣告だ。そう言わんばかりのしかめっ面を浮かべながら月広は、指示された通りに陽舞を異臭が巣食う魔窟の中へと招き入れ、後ろ手に戸をスライドさせる。
「くっさーい! 千里さん、今度は何の冗談ですかっ?」
「何の冗談て……私は大真面目に実験してるんですけど?」
苦笑なのか自嘲だったのか。複雑な笑みを浮かべてから千里は、手に持っている袋を机の上に放ってから大きく息を吸い込む。
「気中に潜む悪性……少しだけお話ししましょうか?」
◆三年前――雨の記憶
その日の午後から降り続いていた身勝手な雨粒等は地表に露出する全てを、又、露出している物等を経由してその全てを濡らした。
路肩に捨て置かれた前輪のない自転車。今日のような雨晒しに遭い続けて来たであろう、保護剤が剥がれ落ちて風化した鉄柵。その下を走る電車は時折、上部のワイヤーから火花を散らせながら疾走して行く。
道幅も寸尺も短い橋上からその様を睥睨する女性が一人、傘も携えずに佇む。腰元の毛先から滴る露が微細な凹凸を模する黒い道に落ちた際、雨音の轟音に溶ける囁きのような呟きが彼女の口から溢れる。
「亜鷹、千智……」
足元の暗がりから視線を上げる時になり、彼女が独り言を漏らしていた訳ではないことを悟らされる。遠くに思える街灯より辛うじて届いてくる光に陰を成す者がもう一人、空から続く縦縞の向こうに朧な輪郭を形成している。
曇天に曝される彼女とは違い、半透明なビニール傘を携えてこちらを見やるその女性は、セミロングの黒髪を指で弄りながら告げる。声色に抑揚は感じられないが、先の声よりもずっと通る、他者へ聞かせる為の声で。
「結局、亜鷹の名を棄てられなかったってこと?」
呆れたような言葉の列が順を追って耳に届く。しかし聞き入れる側の女性は微かな笑みを浮かべるだけで、他の心情を漏らそうとはしない。否。
真に他意を感じていないかのようにも思えてしまう。それ程に穏やかで、無機質な笑みである。
「違うかもしれません……単に私は、自分の命を棄てることを恐れただけです」
たぶん。言葉尻にそう付け足すとすぐさま、鼻での一笑が返ってくる。
「人間らしくて結構だっつーの。ならさ、生きればいいじゃん」
瞬間、傘の合間から見えた微笑を捉えていた彼女の黒い虹彩が深く、そして濃い青色に変わった。