4 森の中、くまさんに出会いました
「く、ま!?」
『グルルルルル……』
私は、ポカンと口を開いて、熊そっくり獣を見つめた。いつの間にか、大きな獣に背後を取られていたのだ。
私が雨だと思ったのは、ヨダレであった。その獣の大きな口から垂れたヨダレが、ポタポタと私の顔にかかる。
ひぃーっ!? 食われるー!
私は、素早く体を反転させて熊のような獣と睨み合ったまま、少しずつ後退していった。
熊もどきは、まだ動かずこちらをじーっと見つめている。多分、警戒しているのかもしれない。だけど、何やら唸りながらダラダラと口からヨダレを流しっぱなしである。
うーわー、絶対に餌だと思われているよ。
熊、くま、クマ……熊に遭ったら死んだふり……じゃない! そんなの嘘だし……あ、木に登る……って、熊も木登り上手だって! 他にはえぇっと……そうだ、リュックに何か使えるものが……殺虫剤、ちっがーう! 熊は蟻じゃないって! 落ち着け……落ち着け……一度、深呼吸して……。
背中から変な汗が出てくる。
何故か頭の中に、森のくま○んのフレーズが浮かびあがった。しかも、ご丁寧に一番の歌詞から流れてくる。
そして、私は頭の中で曲がかかったまま、スタコラの部分でちょうど逃げ出した。
走りながら後ろを振り向くと、やはり熊もどきは歌のように追いかけてくる。ズドンズドンと迫力のある音響が聞こえてきそうな熊の走りであったが、私の脳裏では可愛らしいトコトコという歌が流れていた。
『グオーグオー!』
何やら熊もどきが、雄叫びをあげながら追ってくる。追いつかれたら食われると、私は必死になって地面から飛び出ている木の根を避けながら走った。
歌は、最終フレーズに差し掛かる。
「何がありがとうだ。お礼に歌なんか歌うかー!」
ラララと脳裏で熊もどきと手を繋いで花畑で歌って踊る自分の姿が流れる中、それを振り払うようにぶんぶんと首を振った。その瞬間、うっかりと木の根に躓いて転んでしまった。
「ふぎゃあっ!」
勢い余って顔面からスライディング状態で、鼻を擦りむいてしまう。今、物凄い妙な叫び声をあげたような気がしたが、聞いたのは熊もどきだけなので気にしない事にした。
「うぅっ、地味に痛い……」
擦りむいた鼻に指でそっと触れる。指先を見ると、少し血がついていた。
「後で薬でもぬっておこう。それよりも早く逃げないと……ヤバい!」
このままでは熊もどきの餌になってしまう。
私は急いで立ち上がろうとした。すると、ポンと背後から肩に何かが置かれた。
「へ?」
嫌な予感がして恐る恐る重みを感じる右肩に視線を向けると、そこには黒い大きな獣の手があった。爪が異様に長い。
ピシッと固まった私は、ギギッとロボットのように振り向いた。
思った通り、そこには熊もどきが2本足で立っていた。大きな図体が私を見下ろしている。
終わった……。
お母さん、ごめんなさい。そっちに世界へ戻れそうにありません。
リュックの中身を使う時間もありませんでした。異世界に来た早々、食われてしまいます。
どうか、異世界で楽しく暮らしていると思っていて下さい……。
机の引き出しの底に貼りついているへそくりは使っていいから……。
あ、でも、私のコレクションは捨てないで!
熊もどきが大きな口をあけて叫んだ。
『グオー!』
「きゃあー!」
逃げられないと悟った私は、覚悟を決めて目を瞑った。
「………………………?」
だが、何の衝撃も痛みも訪れない。いつの間にか、肩の重みも消えている。
怪訝に思った私は、そろそろと目を開けて振り向いた。
『グル、グル、グルグル……』
「へっ?」
熊もどきは何もせず、大人しく私の背後に立ったままでいた。
よく見ると、片方の手にリュックを持っていて、それを私に差し出してきたのだ。
「このリュック、私の……。そういえば、慌てて置いて逃げたんだっけ。もしかして、これを私に渡すために追いかけてきたの?」
『グル……』
「ありがとう、くまさん」
『グル?』
私は、リュックを受け取った。
熊もどきをよく見てみると、その瞳も穏やかで大人しそうだ。さっきは、色眼鏡で見てしまったから、怖く見えたらしい。ごめんね、くまさん。
私のいた世界とこの世界は違うんだから、常識の思い込みに気をつけようと、心に刻み込んだ。
そうして、リュックを背負おうとし、もう片手にずっと握りしめていた母からの手紙にようやく気づいた。
「やだ、これがあったのに……何、忘れていたんだろう」
これを先に読んでいれば、熊もどきの事が分かって、逃げる必要もなかったに違いない。
確か、ちょうど熊もどきの説明を読み始めた所だったんだよね……。
鼻を擦りむくコトもなかったのに、ついてないなぁ……。
しわしわよれよれになっている手紙を一枚一枚広げて丁寧に伸ばしていく。
すると、まだ傍に立っていた熊もどきが、ひょいっと手を伸ばし、突然手紙を一枚取った。
「えっ?」
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
パッと見上げると、じーっと手紙を見つめていた熊もどきが、ボタッとヨダレを流したかと思えば、ぱくっと齧ったのだ。熊もどきは、実に美味しそうに手紙をむしゃむしゃと食べていった。
ぎゃあぁぁー、お母さんの手紙がー!
ペロッと舌で口を舐めた熊もどきは、地面に伸ばして置いてある手紙を見つめた。
私は、慌てて手紙をかき抱いて熊もどきに叫んだ。
「だめーっ、これは食べちゃダメ!」
『グルグル……』
熊もどきと視線を合わせる。
軽く首を傾けた熊もどきは、私の言った事を理解したのか、そのまま踵を返すとゆっくりと去って行った。
「うぅっ、一枚食われた……」
がくっと肩を落とす。
まだ、読んでいない便箋を食われたのだから、かなりのショックである。
でも、いつまでも落ち込んでいられない。また、獣が現れたら大変である。
私は、順番に並べて、手紙の続きを読み始めた。
『それから、熊そっくりで大きな動物は、獰猛じゃないから安心してねぇ。
魔獣だけど、普通の草食動物みたいに大人しいの。言葉も結構通じるから、飼う事も可能なのよ。
だけど、一つだけ注意。紙が大好物だから、大切な書類とか食べられないように気をつけてね?』
遅かったよー、お母さん。
もっと早く教えてくれー!