震える心
私は走って農場まで来たが、眼を逸らして周囲を見ないよう歩いた。それは田畑の所々に、形を留めていない人や動物、それに血しぶきの痕。眼を逸らそうとも、鼻に錆び付くにおいは消せない。
「酷い……」
石造りの建物に補強された扉、雨戸の付いた窓。城のような建物であり、私の知る家とは随分と違う。引き戸の扉には血が乾いた痕、少し躊躇ってから右手で小剣を構える。慎重に注意深く、扉を引いて中を覗き込む。
建物の主は生きているのか。私、一人では怖くて耐えられない。怖い、助けて、一人は嫌。
床に転がる人に血だまり、人は胸と腹を押さえて小さくなっていた。ゆっくりと近寄って屈み、肩を揺すって意識を確かめる。
「大丈夫ですか……」
返事はなく、身体は冷くて人の温かさは感じられない。しばらく手を合わせ、眼を閉じた。
「どうしたら……」
考えようとすれば、恐怖や嫌悪を感じることが思い起こされる。私も蟲に食い殺されるのか、形を留めないほど引き裂かれるのか。
私を襲った忌まわしい蟲。どれも鋭利な横に折り畳まれた鎌腕に硬そうな骨格、それに不気味な八本の脚と気持ち悪い色。あの生き物は私の知っているムシとは違う。知っているのは蟲じゃなくて虫、もっと小さくて臆病な生き物。姿は似ており、ムシと呼ばれるのも同じだが、大きさが明らかに違う。
「鬼……」
そう――蟲は、鬼と呼ばれる生き物に近い。もしかしたら、私の祖先や先人達の呼んでいたモノはあの蟲であり、鬼ではないのか。それとも、魔物の類いかも知れない。
中の部屋を調べて行くが、私の他に人はいなかった。もしかしたら、蟲から逃げたのかも知れない。あるいは外の形を留めていない人が――。
そんなこと、考えたくないのに。最悪な結末が思い浮かんできて止められない。蟲に引き裂かれ、食い殺されるのか。彼は蟲を倒していたから、やられるなんてことはないはず。でも、やられたら――私が食い殺されるんだ。
「違う。彼なら倒せるはず……」
彼のようになりたい、それは蟲や鬼にも怖れない勇気。
「そんな……」
開いた雨戸の先に蟲、器用に鎌腕を使って引き裂いている。血と肉が飛び散って地面を赤黒く染め、その禍々しい雰囲気は鬼の他ならない。
「鬼なんて……」
呼吸を整えて弓を持ち、外で蠢いている蟲を狙う。狩り術は狩人によって違うが、私の狩り術は弓を使って獲物を射るだけ。獲物を発見するのに苦労するし、気付かれないように忍び寄るのも大変。それは臆病な生き物を狩る時だけ、凶暴な生き物には必要ない。
「……ンッ!?」
口元とつがえた矢を手で押さえられ、背後の気配を感じた。どうやら、私一人だけでは無かったらしい。
「油断し……ッ!?」
油断している手に噛み付き、左手に持つ弓で反撃。おかしい、聞き覚えのある声に台詞だ。
「ミサナギッ。ラガクだ……ッ」
「ラ……ン!」
「静かにしろッ。蟲に見つかる……」
嬉しさで喋ろうとする口を、もう一度手で塞がれてしまう。見覚えのある仮面と兜、それに鎧。違うのは手に防具を着けていないこと。
「次を射る間に近寄られるぞ」
「……ラガクさんッ」
心配させないでよ、誰も死んだなんて思っていません。
「手を貸してくれるか?」
「……当たり前でしょ」
私は瞳の涙を堪え、頼られる彼に強がりを言った。それは仮面をかぶるように、私も強くなる為に。
「フッ……当たり前か」
「そうです。当たり前のことを当たり前にする。私はそう習いました」
「なら、俺と同じだな。あのクソ蟲は手強い……一人では無理でも、二人なら倒せるかもしれない」
一人は無理でも二人なら――。その言葉に私は勇気と喜びを感じた。あの蟲を倒して一緒に生きて帰る。