第6章 姉妹
お母さんに電話をかけると、金切り声が返ってきた。
「あんた、何やってんのよ! 真希は動かしちゃいけないって、あれほど言ってたでしょ!」
「だって…」
まさか動けるだなんて思わなかった。少し姿勢を変えるだけで痛がっていたはずなのに。
電話口の向こうで溜息が聞こえた。
「…まあ、あんたはもう宿題やって寝なさい。真希のことはお母さんが何とかするから」
「でも…」
「いいから」
「…はい」
受話器を置く。
台所に目をやると、汚れた食器の山が目に付いた。
お姉ちゃんが入院してから、家事の負担が増えた。
食器洗いは面倒で、時々放ったらかしになっている。
洗濯機は必要に駆られて回すけれど、お風呂は掃除もしていなくて、最近はシャワーだけだ。
どれもこれもお姉ちゃんが大怪我をしたからだ。
「早く治ってくれないかなぁ…」
私は呟いた。
…口に出して、誤魔化した。
そうでもしないと、別の嫌な考えが出てきてしまいそうだったから。
――お姉ちゃんが、面倒を起こさない人だったらよかったのに、なんて。
夜中に家からいなくなった麻利亜さん。
それを重傷の体で探しに出たお姉ちゃん。
その後、病院から電話がかかってきたとき、既に私は寝入っていた。
だから詳しいところは分からないけれど。
麻利亜さんは無事だった。
お姉ちゃんは風邪をこじらせて再入院した。
いや、もともと病院に戻る予定ではあったのだけれど、おかげでお医者さんたちも辟易したらしい。
入院期間が少しだけ延びた。
翌日、放課後に病室へ向かうと、お母さんと看護師さんとお医者さんが数人いて、少し気まずい思いをした。
お母さんに叱られても、看護師さんに諌められても、お姉ちゃんが気落ちした様子はなかった。
ただ、具合は悪そうで、目をつぶっている間も常に眉は寄っていた。
その姿を見て、私は奇妙な感覚に襲われた。みんながいなくなると、知らず口が動いていた。
「お姉ちゃん…何でこんなこと…」
「は? 何が?」
「だって…こんな怪我してるのに…どうしてこんなに無理してまで、助けようとしたの? お姉ちゃんが動かなきゃいけない理由なんてなかったじゃない。無理しなくても、麻利亜さんを助けることはできたはずだよ。なのに…」
お姉ちゃんは痛みで眉間に刻まれたしわをさらに深めた。
「馬鹿じゃないの? 何でわざわざ理由を探す必要があるのさ。あんたは泣くときに、笑うときに、いちいち自分がどうしてそうしてるのか考えてるわけ?」
「…」
「ああもう、あんた見てるとムカつくわ。これをしちゃいけないんじゃないかとか、自分がする必要あるのだろうかとか、言い訳ばっかり。怖くてできないだけだろ? やりたいことをやればいいじゃん。強くないとこの先やっていけねーよ。満足できなくて、流されて、良いように使われて、自分に嘘ついてまで正当化して。そんな生き方、私はごめんだね」
奇妙な感覚が強まる。
これは、罪悪感? 嫌悪感?
頭の中がぐちゃぐちゃになる。
美沙ねえのこと、麻利亜さんのこと、陽向のこと、鴇のこと。
そして、眞子のこと。
…私は、何をしているのだろう。
お姉ちゃんの言葉は正しいのかもしれない。
自分に正直になる、やりたいことをやらなきゃ意味がない。
でも、誰もが常にそれを実践できるわけじゃないのだ。
私はお姉ちゃんのように強くはない。
やりたいことをやるやらない以前に、「やれない」のだ。
自分の立場を失わないために。自分の居場所を奪われないために。
…それとも、それも逃げなのだろうか。
分からない。麻利亜さんの不安を取り除くためにトラックの前に飛び出した美沙ねえの気持ちが、その美沙ねえを庇ってより深い怪我を負ったお姉ちゃんの気持ちが、そのお姉ちゃんが助かるなら死んでもいいと言う美沙ねえの気持ちが。まるで、自分より大切なものがあるとでも言うような。
そんな馬鹿な。
そんなこと、あるはずがない。
いくら他人を助けても、大切な人がどんなに幸せでも、自分が不幸なら、意味ないじゃないか。
それとも、私が間違っているの? 私がおかしいの? 私は悪い子なの?
そんなことない。私は何もしていない。何も悪いことはしていない。もっと悪い子はいる。眞子をいじめている子たちのように。もっと悪い人はいる。平気で法律を破る人たちのように。ほら、今、そこにも――
「すみません!」
知らず、私は口を開いていた。
目の前にはとても成人には見えないお兄さんがいた。きょとんと私を見ている。口から白い息が漏れている。足下には、未だ煙を上げている煙草の吸い殻。
「…そんなところに、煙草を捨てないでください」
そら見ろ。悪い人っていうのは、こういう人のことだ。まだ大人じゃないのに煙草なんか吸って、火のついたまま道端に投げ捨てて、それに対して何も引け目を感じていない。こういう人が悪なんだ。私は違う。私は何も――
しかしお兄さんは意外な言葉を口にした。
「あ、いや、僕じゃないです」
「…え?」
私は呆気にとられる。何を言っているのだろう、この人は。現場を見られておいて、シラを切るつもりなのだろうか。私は訝しげにその人を見つめる。
「火がついた煙草が落ちていたから、消しただけです。…僕が煙草を吸う年齢に見えます?」
その口から漏れる白い息。私の口からも。
…
…
かあっと、顔が火照るのが分かった。そうだ、当たり前じゃないか。私はこの人が煙草を踏むのを見ただけで、煙草を吸うところも捨てるところも見ていない。人が刺されて、警察がやってきたときに誰かが手当をしていたら、その人が犯人になるのか? 馬鹿じゃないか、私は。現場を押さえたつもりで、何も分かっちゃいなかった。ああもう! 恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい!
「ご、ごめんなさい、私ったら、とんだ勘違いを…」
慌てて頭を下げる。もちろんこの人が嘘を言っている可能性もないわけじゃないけど、私にそれを見分けるすべはない。それに、年齢はともかく、煙草を吸うような人には見えなかった。お兄さんは腹を立てる様子もなく、にこやかに応じる。
「いいっていいって。拾わなかった僕も悪いんだし」
「ごめんなさい! ほんと、ごめんなさい! 息が白かったもんだからてっきり…」
「だからいいって。むしろ、嬉しかった」
「え?」
お兄さんはよく分からないことを口にした。嬉しかった? 見当違いな指摘をされて、嬉しかった? 何を言っているのだろう?
「じゃあ、ありがとう」
信号が青になる。お兄さんは自転車にまたがると、急いで走り去ってしまった。私は呆然とその姿を見送り、我に返ったときには再び信号は赤になっていた。
信号待ちをしながら、私は考えていた。
どうして? どうして感謝されたんだろう。怒られこそすれ、感謝されることなんてしていないはずなのに。私には分からない。でも、一つだけ分かることがある。
心が、暖かい。
こんな私でも、感謝されることができるんだ。こんな私でも、役に立つことができるんだ。役に立ちたい。私の大切な人に、感謝されるようになりたい。私は何ができるだろう。眞子に何ができるだろう。
次の日の20分休み。3時限目は理科室で行われるので、みんなが教室を出て行く。私はそれを興味無いとでもいうような素振りで受け流した。
みんながいなくなる。眞子だけが、最後に出てきた。
眞子は出来るだけ自分の席から動かない。目を離した隙に何をされるか分かったもんじゃないから。教室移動のときは最後に出て最初に戻ってくる。今なら周りの目も無い。
「ね、眞子、一緒に行こうよ」
私は笑顔を作って眞子に呼びかける。しかし眞子は黙って背を向けて歩き出した。私は慌てて眞子の肩をつかんで引き止める。
「ちょ、ちょっと待ってよ。話を聞いて――」
「消えろ」
「…え…?」
眞子が何を言っているのか分からなかった。どうして? どうしてそんなこと言うの?
「あ、あはは、聞き間違いかな。それとも、冗談? そうだよね、本気じゃないでしょ? 私たち友達だもんね?」
私がそう言うと、眞子は勢いよく振り返った。その顔は、酷く歪んでいた。
「ふざけんな! いまさら友達面するんじゃねえよ! 感謝されるとでも思ってんのか!? 友達!? 友達ってのは、陰で相手の悪口を言うもんなのかよ! 困っていても見捨てるもんなのかよ! そんなことをしても簡単に許されるもんなのかよ! そんなのは友達なんかじゃねえ、ただの都合のいい人形だ! あんたはアタシにそれを求めてるのかよ!」
返す言葉が無かった。知られていたのか。でも、仕方なかったじゃない。そうでもしなかったら、私は…
無かったことにしたい。夏休み前に戻りたい。まだ眞子と仲直りできる頃に。いや、そもそも眞子がいじめられていたこと自体を無かったことにしたい。でも、そんなのは無理な話だ。
眞子は走り去った。カツカツと冷たい足音が廊下に残響していた。
私に追うことはできなかった。
思いついたシーンを切り貼りしても物語としては完成しないんですよね…
溝を埋める努力をします。最後まで書いてから。