第5章 信頼
麻利亜さんは私の知らないことをたくさん知っている。星のこと、草花のこと、歴史のこと、化学のこと。直接話したことはほとんどなかったけれど、お姉ちゃんや美沙ねえとの会話を聞いていれば、その知識の深さは容易に窺い知ることができた。
だからだろうか。麻利亜さんの言うことが理解できないことがしばしばあった。それはお姉ちゃんも同じだったようで、しょっちゅう意見のぶつかり合いを起こしていた。どちらもなかなか自分の考えを曲げようとはしなくて、それでも不思議と馬が合うのだった。麻利亜さんとお姉ちゃんが知り合ってまだ1年も経っていないけれど、美沙ねえと3人でいるのがもはや当たり前のようになっていることが、それをよく表していたと思う。
それに対して私と眞子の関係は至って平和だった。衝突することもなく、一方的でもなく、でもだからこそ、本音を見せることもなかった。生まれたときから何かにつけて一緒で、それが当たり前になっていた。
私達の間には風が吹かなかった。雨が降らなかった。だから地も固まらなかった。だから簡単に崩せた。
眞子がクラス内の立場が悪くなっていることに気付いてすぐ、私は眞子と一緒に登下校するのをやめた。眞子はお姉ちゃんに憧れていて、強がっていた。私が距離をおいたことに対して、眞子が何か言ってくることはなかった。
だから、今、私は眞子の友達でもなんでもなくて、無関係のはずなのに。
なのに、どうして。
教室がこんなに窮屈なのだろう。
その言葉は突然発せられた。
休み時間、誰ともなしに、ふと思い出したかのように。
「美菜のお姉ちゃん入院してるんだって?」
…え?
何で?
何で知ってるの?
「何、事故ったの?」
「ほら、前に先生が言ってたじゃん。高校生2人がトラックにはねられたって」
「あー、あれ」
「そういえばあの後、先生に呼ばれてたよね」
おかしい。
私は言ってない。
私は誰にも言っていない。
私は陽向以外の誰にも、お姉ちゃんのことを教えてはいない。
先生も内緒にしてくれた。
新聞にも名前は載っていないはず。
なのにどうして、知られているの?
まさか、陽向が…?
陽向をちらりと見やる。
彼女は素知らぬ顔で、雑談の輪に加わっていた。
おかしいよ。私が眞子の悪口を言ったのは、本心からではなかったのに。クラスにとけ込むためだったのに。
なのに、一層孤立してしまったような気がする。みんなが私の悪口を言っている気がする。馬鹿にされている気がする。
何かの本で読んだ。あなたと一緒に誰かの陰口を言っている人は、あなたのいないところで誰かと一緒にあなたの陰口を言っている。
私と笑って話している陽向も、私にバイバイと手を振った後、私のことをあざ笑っているかもしれない。電話やメールで誰かとやりとりをしているかもしれない。
ほら、今にも聞こえてきそうだ。
「美菜のやつ、私たちの仲間だと思ってるみたいだけど、勘違いもいいとこだよね」
「ばっかじゃないの。あんたも眞子と同類だっての」
「目くそが鼻くそを笑うのって、滑稽だよねぇ」
「キャハハハハッ」
「アハハハハハ」
誰を信じればいいのか分からない。
誰が私の味方なのか分からない。
誰になら秘密を打ち明けられるのか分からない。
誰の味方をすればいいのか分からない。
分からない。
私は、どうしたらいいのか、分からない。
誰も信じられなくなって、私は一人になった。
でも一人は怖くて、誰かに傍にいてほしくて、私の足は病室へと向かった。
お姉ちゃんの腕を握る。温かい。でも、すごく細い。随分と痩せこけてしまっている。
「お姉ちゃん…私…どうしたらいいのかな…」
返事なんて期待していなかった。むしろ、声が返ってこないからこそ、ありのままに思ったことを言えた。だから。
「…知るかよ」
そう声が聞こえたとき、私は飛び上がるほどびっくりした。お姉ちゃんが薄く目を開けて、こちらを見ていた。
「…なーに、汚い面してんだよ」
そう言って、馬鹿にしたように笑った。
その後は大変だった。ナースコールを押して、看護師さんが来て、私と同じように驚いて、お医者さんを連れてきて。色々と質問をされていた。自分の名前が分かるかとか、ここはどこだと思うかとか、今日は何月何日かとか、事故のことを憶えているかとか。
お姉ちゃんは自分がずいぶん長く眠っていたことに驚いていたけれど、それ以外の点では特に動揺していないようだった。美沙ねえはどうしたかだけ、私に聞いてきた。もう退院したよと答えると、お姉ちゃんは「そっか」とだけ言って興味を失ったかのように視線を逸らした。
「馬鹿じゃないの!? だから言ってるでしょ、ちゃんと周りを見て渡りなさいって!」
お姉ちゃんは仏頂面で何も言わなかった。本当のことを話す気はないようだった。私はどうすればいいのだろう。お母さんに真実を伝えるべきか。それともお姉ちゃんたちの気持ちを尊重して黙っているべきか。
私は結局何も言わなかった。それがいいと思ったわけではなく、判断を保留した結果だった。私が言う必要なんて無いのだ。要らぬ不利益を被ることになる。してもしなくてもいいのなら、何もしない方がリスクは少ない。
一通りの検査をして、またお医者さんが来て、色々と話をした。
「痛みはあるかい?」
「体中痛いし、ダルいし、何とかしろよ。あと色々チューブとか繋がってて動きにくいったらありゃしない。さっさと外して」
「しばらく体を動かしてなかったからね。リハビリで少しずつ調子を取り戻していこう。痛みは痛み止めがあるから、遠慮せずに言ってね。点滴とかは検査の結果を見て、食事ができるようならほとんど抜けると思うよ」
意識が戻って、検査も特別問題ないようだったので、お姉ちゃんは個室から相部屋に移ることになった。でも、そこでお姉ちゃんが反発した。相部屋なんか行くくらいなら帰ると言いだしたのだ。お母さんも巻き込んで、散々看護師さんやお医者さんと言い争った結果、ギリギリ退院可能だろうということになった。ただし、
「まだ骨が完全にくっついたわけじゃないんだから、家では絶対安静にしていること。動き回るなんて以ての外だ。そして毎日ちゃんとリハビリに来ること、いいね。君はまだ全然健康体じゃないんだ。何かおかしなことがあったらすぐに連絡するように」
そういう条件付きで、だ。
でも、そんな言いつけをお姉ちゃんが守るわけがなかった。
退院前に試験外泊というのをした。要するに一晩試しに家に帰ってみて、問題がないかを確認するのだ。
その夜のことだった。電話がかかってきた。
「すみません、ウチの麻利亜がお邪魔してはいないでしょうか?」
電話をとった私は面食らった。今はもう9時を回っている。そりゃあ高校生が夜遊びをしてもおかしくはないけど、麻利亜さんが?
「いえ、ウチには来てませんけど」
「そうですか…すみません、夜分遅くに」
「どうされたんですか?」
「さっき部屋をのぞいたらいなくて…靴もありませんの。夕食は食べていましたのに…」
「…」
「あ、ごめんなさい、ご心配なさらず。多分そのうち帰ってくるでしょうから。失礼いたしました」
そう言って電話は切れた。
「何の電話?」
横になったまま、お姉ちゃんが訊いてきた。私は躊躇する。
今、お姉ちゃんは動けないのだ。伝えたところで、何もできない。無駄に心配させるだけではないだろうか。
でもそんな一瞬の逡巡をお姉ちゃんは見逃さなかった。
「誰が、来てないかって?」
「…」
狭い家の中だ。普通に話していれば聞こえる。そうでなくてもお姉ちゃんは今、何もすることがないのだ。会話に聞き耳を立てるのも当然だろう。
隠す意味はないと思った。言う必要もないけれど、お姉ちゃんが尋ねてくるのなら、隠し通す必要もない。
「麻利亜さん」
「あ?」
「…麻利亜さんが、家にいないんだって。夕飯食べた後にいなくなったから、ウチに来てないかって麻利亜さんのお母さんが」
目の色が変わった。
「麻利亜が? どこに」
「分かんないから電話が来たんでしょ」
と、不意に思い出す。この前の夜、繁華街で麻利亜さんを見かけたことを。
「そういえば…」
「何?」
私はあのときのことを話した。それでお姉ちゃんがどう考えるかなんて、深く考えもせずに。
「あの馬鹿…!」
苦々しく吐き捨てて、お姉ちゃんは起きあがろうとした。痛みが走ったのか、眉間の皺が深くなる。
「だ、だめだよ。お医者さんに止められてるんだから」
「そんなこと言ってる場合かよ」
「…」
「あんたの言葉が本当なら、麻利亜は前からちょくちょく夜に出歩いてることになる。あんな所に、あんな格好で通ってることを、おかしいと思わないのかよ。仮装パーティーでもするってか?」
それは私も思った。あのときの麻利亜さんは異様だった。足取りはおぼつかなかったし、目の焦点も合っていなかった気がする。問題ないとは、とても言えない。
でも。
だからって何ができる?
探すと言っても、どこを?
歩いているのを見かけただけで、その近くにいるとは限らない。
警察に連絡する? いや、それは麻利亜さんの両親がすることだ。それにただの夜遊びだったらまともに扱ってくれるとも思えない。
「大丈夫だよ。そのうち帰ってくるよ…多分」
我ながら説得力がない。お母さんがいれば多少は安心できるかもしれないけれど、あいにく今は仕事中だ。お姉ちゃんが渋々布団をかぶったのを見届けて、私はトイレに立った。
甘かった。
用を足している途中、玄関のドアの開く音が聞こえた。一瞬お母さんが帰ってきたのかと思ったけれど、時間が合わない。まさか。急いで済ませてトイレから出る。
布団はもぬけの殻だった。
まとまりの無さをどうしよう…