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第4章 信仰

私が部屋に訪れると、美沙ねえは弱々しく笑った。眞子はいない。そうなるようにタイミングを見計らったから当然なのだけれど。

「どうしたの、美菜ちゃん。顔が怖いよ」

「…美沙ねえこそ、顔色悪いよ」

美沙ねえは黙って笑うだけだ。やつれ具合は輪をかけて酷くなっている。昨日も今日もお姉ちゃんの部屋に来なかったのは、歩くことさえままならないからではなかったかと思うほどに。背筋をぞっとしたものが走る。

「美沙ねえ、もうやめようよ。意味ないよ、こんなこと」

「何のことかな」

「何もかもだよ。あえて1つ挙げるなら、美沙ねえがトラックにはねられたこと…ううん」

私は一歩進み出た。決心して、言葉を紡ぐ。

「より正確に言うのなら…美沙ねえが自分からトラックに飛び込んだこと、かな」


美沙ねえは言った。自分はお雛様だと。今なら、その意味が分かる。

お雛様というのは元々流し雛だった。人々の災厄を一身に受けて、川へ流す身代わり。美沙ねえがそれを自認しているのなら、不幸を背負いたがっているなら、全て説明が付いてしまう。

どうして眞子が父親からの暴力を受けなくなったのか? どうして美沙ねえの体には傷があるのか? どうしてその事実を隠そうとしたのか?

どうして美沙ねえの自転車は大破したのか? どうしてお姉ちゃんの自転車はそうではないのか? どうして麻利亜さんは未だに怯えているのか? どうして美沙ねえは一向に良くならないのか?

美沙ねえが、ただただ盲目的に信じているからだ。自分が傷つけば、みんなうまくいくと。

家庭内暴力を美沙ねえは一身に受けた。それが一番の解決策だと思って。不幸の手紙が届いたとき、美沙ねえは車に飛び込んだ。自分が不幸に会えばお姉ちゃんと麻利亜さんは助かると信じて。皮肉なことにそれはお姉ちゃんを意識不明にし、麻利亜さんを一層怯えさせることとなった。そして美沙ねえは今、お姉ちゃんを助けようとしている。自分が代わりに良くならなければ、お姉ちゃんが良くなると信じて。

そんな、歪んだ信仰心。そんな、純粋な狂気。

美沙ねえにとって、己とは何なのだろう。他人のためにそんなに簡単に投げうてるものなのだろうか。もしも美沙ねえが私の立場だったら…一体どうするのだろう。

そんなこと、考えても無意味なのかもしれない。私は美沙ねえではないし、美沙ねえは私ではない。他人の心の内なんて、分かりようがない。でも、美沙ねえは、あまりにも分からなさすぎる。


「今日の騒ぎも、美沙ねえなんでしょ? 何があったの?」

「…美菜ちゃん、ヨウケツって知ってる?」

美沙ねえは答えず、その代わりに問い返してきた。声は弱々しくて、今にも途切れてしまいそうだ。私は質問の意味も分からずに答える。

「知らない」

「血が溶けるって書いて溶血っていうの。中学校の理科でやるよ、きっと。面白いんだぁ。血液ってね、塩水なの。なめるとしょっぱいの」

何を言っているのかよく分からない。美沙ねえが虚ろな目をして語るのを、私は黙って聞いていた。

「塩ってね、水を引き寄せる力があるの。塩の瓶の蓋を開けたままにしておくと、湿気を吸って固まっちゃうでしょ? だからね、血の細胞を濃い塩水に入れるとね、中の水が抜けて梅干しみたいにしわしわになるの。逆に水道水に入れるとね、どんどん水を吸い込んで、まん丸になって、仕舞には風船みたいに割れちゃうんだ。それを溶血って言うの」

よく分からない。よく分からないけれど、何だか嫌な感じがする。何かとんでもない犯罪の告白を聞くような気分だ。

「水道水って、私たちは普通に飲んでるけど、実は血にとっては毒なの。だから直接血管に入れると、血の細胞がみんな破裂しちゃうの。血がないと人間は死んじゃうよね。だから、水って一番ありふれた毒なんだ。不思議でしょ? 面白いでしょ?」

鳥肌が全身に広がっていく。美沙ねえは脇の点滴を指す。まさか。まさかまさかまさか。

「簡単だよ。ここに薬を入れるところがあるもん。この中身を抜いて、代わりに水道水を入れるだけで、体に水が回って、溶血を起こして、息が苦しくなって、頭がボーッとしてきて…死ねるはずだったんだけどな。思ったより早く看護師さんにばれちゃった。私ってダメだなぁ。こんなんじゃ真希ちゃんが起きてくれないよ」

「そんな…」

声が震える。

「そんなことしたって…お姉ちゃんは…」

「起きるよ。だって、風邪は人にウツしたら治るって言うでしょ? 私のせいで眞子が死にそうになったときも、私が手首を切ったら麻利亜ちゃんが助けに来てくれた」

「…そんなの、偶然だよ」

「グウゼン? どうしてそんなこと言えるの? 何が何と関係あるかなんて、分かりっこないよ。無かったら無かったで、私はまたそのグウゼンが起こることを期待するだけだよ」

そう言って美沙ねえは笑う。わらう。ワラウ。

「違う!」

私は叫んだ。怖かった。とにかく否定したかった。美沙ねえはじっと私の目を見つめる。

「…何が、違うの?」

「だって…だって…」

言葉が思いつかない。でも、違うのだ。何かが違うのだ。そんな怖いこと、あってはならないのだ。お姉ちゃんはお姉ちゃんだけど、美沙ねえもお姉ちゃんみたいなもので、私はどちらのお姉ちゃんも大好きだから、嫌なのだ。

…そうだ。美沙ねえは私にとって大切な人なんだ。だから失いたくないんだ。お姉ちゃんの友達だからではなく、友達のお姉ちゃんだからでもなく、美沙ねえは美沙ねえだから、生きていてほしいんだ。そう気づいたら、少しだけ、口が動いた。

「…もしそれでお姉ちゃんが目を覚ましても、美沙ねえがいなかったら絶対悲しむよ!」

ふっと美沙ねえの顔から笑みが消えた。美沙ねえの笑顔以外の表情を、私は初めて見た。

「…真希ちゃん、怒るかな?」

「怒るよ。私も怒るもの」

「泣いちゃうかな?」

「泣くよ。私も泣くもの」

「そっかあ…」

美沙ねえは天井を見上げる。

「真希ちゃんが悲しむようなことは、したくないなあ…」


それから美沙ねえの病状は目に見えて良くなっていった。お医者さんたちは首を傾げていたけれど、私には分かった。食べられなかったのではなく、食べなかったのだ。リハビリも真面目に行うようになった。お姉ちゃんの病室に毎日来て、今日は何をやったよ、何を食べたよ、だから真希ちゃんも起きようよと耳元で囁くのだった。その気持ちに応えてか、お姉ちゃんの顔色も日増しに良くなっていくようだった。


でも。

完全に不安を拭い切れたわけではなかった。お姉ちゃんはまだ目覚めないし、眞子はいじめられたままだ。そして麻利亜さんもまた、呪いに怯えているのではないだろうか。元気になった美沙ねえを見て、麻利亜さんもまた、落ち着きを取り戻してくれるだろうか。


その日はお母さんと夕食を食べに出かけた。

給料が入ったからとお母さんは言っていたけれど、とてもそんな余裕はなかったんじゃないかと思う。お姉ちゃんの入院費用もあるし、ただでさえウチは母子家庭なのだ。それでも私を外食に連れていってくれたのは、病院疲れの私を労ってのことだったのだろう。お母さんの方が疲れているであろうことは明らかだったのだけれど。


夜の繁華街は、とても不気味だ。客引きのお兄さんお姉さんの声、酔っぱらいのおじさんの声、たくさんの足音、目に悪そうなネオンサイン。スーツ姿の人もいれば、チャイナドレスの女性もいるし、金髪とアロハシャツの怖い人もいる。私はお母さんの手をぎゅっと握って、喧噪の中を歩いた。

「何にする? 中華? 洋食? お寿司?」

「…何でもいい」

「そんなこと言わないで、せっかくの外食なんだから食べたい物言いなさいよ」

「…じゃあ、チャーハン」

「中華ね。そういえば、最近美味しいラーメン屋さん出来たのよ。七味唐辛子がすごくよく合うの。行ってみましょうか」

「…七味って、麻薬が入ってるんだよね」

「え? 今何て言ったの?」

「…何でもない」

麻利亜さんから聞いた話だ。七味唐辛子の七味の中には、ケシの実が入っている。ケシというのは麻薬の材料となる植物で、それを巡って起きたアヘン戦争は社会の授業でも出てきた。もちろん七味唐辛子を植えても芽は出てこないようになっているらしいけど。

ラーメン屋に着いた。お母さんが扉を開けて店の人に声をかける。私も後ろに続いて、扉を閉め…ようとした。

扉の向こう、店の前、繁華街の通り。たくさんの人が行き交っているその中に、ひときわ目立つ姿があった。小柄な体格に不似合いな黒いロングコート、長く下ろした黒髪、切りそろえられた前髪、厚いマスカラと真っ赤なルージュ。

麻利亜さんだ。間違いない。

一人のようだった。麻利亜さんはふらふらとおぼつかない足取りで歩いていた。私にも気づいていない。ぼんやりとしていて、なんだか危なっかしかった。人混みの中でぶつからないだろうか。いや、それよりも一体何をしているのだろう。

「美菜、何してるの。早く入りなさい」

お母さんに呼ばれて振り向く。再び外に目をやると、麻利亜さんの姿を見つけることは出来なかった。

何だか、嫌な予感がした。

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