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第2章 家族

私の家と眞子の家が郊外の新興住宅地に移り住んできたのは、ほぼ同時期だった。

同じ町内会に同じ年に引越してきて、子どもの年齢も同じ。お母さんたちはすぐに仲良くなった。

そしてその時、私も眞子もおなかの中にいた。お母さんたちは、お互いの子どもの名前を交換してつけた。

私は美沙ねえの「み」の字を貰って「美菜」。眞子はお姉ちゃんの「ま」の字を貰った。

私は美沙ねえが大好きだったし、眞子もお姉ちゃんのことを尊敬していた。

私たちはいつも一緒だった。一緒に学校に行って、一緒に帰って、一緒に遊んで、一緒に出かけた。

よくご飯も一緒に食べた。お泊りもした。一緒に一輪車の練習もした。一緒に笑って、一緒に泣いた。

そして、突然家庭に亀裂が生じたのも、同じ頃だった。


ウチはお父さんの浮気が発覚した。お母さんは泣き喚いた。お父さんは不機嫌そうな顔で何も言わなかった。

毎日のように食器が割られ、普通の会話がされることはなくなった。家の中から笑顔が消えた。

ある日、お母さんが離婚届を突きつけた。お父さんは黙って判子を押した。私たちはお母さんに連れられて家を出た。

だからその後、眞子の家で何があったのか、詳しくは知らない。

私が知っているのは、その頃から眞子の家もおかしくなり始めたということだ。

眞子のお父さんは、仕事もしないで一日中酒を飲み、眞子のお母さんや眞子や美沙ねえに暴力を振るうようになった。

一時期、眞子の体にはあざやみみずばれが絶えなかった。私や先生が何を訊いても、眞子は何でもないと言い張った。

しばらくすると眞子は怪我をしなくなった。私は、何か問題が解決したのだろうと思った。

でもそれは、美沙ねえが眞子を庇っているというだけの話だった。

いつもトイレで着替えをする美沙ねえを不審に思ったお姉ちゃんが問い詰めた。無理矢理服をめくると、その下は傷だらけだった。

おそらく外部への発覚を恐れた眞子のお父さんが、虐待の方法を変えたのだ。

不思議なことに、眞子も美沙ねえも助けを求めたりはしなかった。

それどころか、いつもお姉ちゃんの言うとおりにしかしない美沙ねえが、「誰かにばらしたら絶交だから」とまで言ったらしい。

「どうせ脅されてるんだよ。まったく、男なんてくそくらえだ」

お姉ちゃんはそう吐き捨てた。立て続けの騒動で、お姉ちゃんはすっかり男嫌いになってしまった。

「男なんてみんなクソくらえだ」「いつだって男の都合に振り回されて、いつだって割を食うのは女子供だ」

それがお姉ちゃんの口癖だった。


集中治療室と書かれた部屋に私たちは通された。ドラマでよくある心臓をモニターする機械の音が一定のリズムを刻んでいる。

そこに並ぶベッドの一つに、お姉ちゃんは横たわっていた。

体のあちこちに包帯が巻かれている。点滴のチューブや何かの機械がたくさんついている。お母さんが声をかけるけれど、目を開けることはない。

お医者さんの話によると、あちこちの骨が折れているらしい。特に頭蓋骨の骨折と、それによる脳の近くの出血が重大で、意識が戻らないのはそのせいだろうということだった。できる限りの治療はしたけれど、いつ意識を取り戻すかは分からない。もしかするとずっとこのままかも知れないという。

お母さんはその話を淡々と聞いて、数枚の書類にサインをした。入院手続き、手術同意書、という文字が見えた。

そのあと警察の人がやってきて、お母さんは私を置いてどこかへ行ってしまった。私は椅子に腰掛けて、お姉ちゃんの顔を見つめていた。

お姉ちゃんと美沙ねえは、下校途中に自転車に乗っているところをトラックにはねられたらしい。お姉ちゃんに比べれば美沙ねえは軽傷で済み、それでも全治3ヶ月の診断で同じこの病院に入院している。

私のせいなのだろうか。

私が悪い子だから、こんなことになったのだろうか。

そんなはず……そんなはず無いけれど、それでもそう考えずにはいられない。

美沙ねえのお見舞いに行こうかと思ったけれど、眞子がいる気がしてはばかられた。美沙ねえもその家族も、眞子がいじめられていることは知らない。もし眞子がいたらどう接すればいいのか、私には分からなかった。

どれくらいの時間が経っただろう。病院の空気は無機質で、いつまで経っても何も変わらないかのような気がしてくる。お姉ちゃんの肌は白くて、ピクリとも動かない。ただ機械から空気が送られて、胸がゆっくりと上下しているだけだ。

誰だっていつかは死ぬんだ。おじいちゃんも、おばあちゃんも、お父さんも、お母さんも、お姉ちゃんも、美沙ねえも、眞子も。そして……私も。そう思うとなんだか急に怖くなって、私はお姉ちゃんの手を握った。とても温かくて、少しだけ安心した。


事故の後も眞子が特に変わった素振りはなかった。相変わらず仏頂面で、無反応で、独りだった。相変わらず私は何も話しかけられなかった。

休み時間に、陽向が顔をのぞき込んできた。

「美菜ちゃんどうしたの? 顔色悪いよ?」

「……ううん、だいじょうぶ。ちょっと寝不足なだけ」

「そう?」

首を傾げて、心配そうな顔をする。心配されている。陽向は私のことを心配してくれる。大切な、友達。

始業の鐘が鳴って、先生が教室に入ってきた。

「授業を始める前に、みなさんにお話があります」

先生はそう言って教室を見渡した。私と目が合う。すぐに先生の言わんとしていることに気づいた。

「昨日の夕方、この町で高校生のお姉さんがトラックにはねられて大けがをする事故がありました。みなさんも道を渡るときは車がいないかをよく見て、確かめてから渡るようにしましょう」

お姉ちゃんと美沙ねえのことだ。眞子の席を見やる。眞子はムスッとしたまま机に目を落としていた。


「崎本さん、鶴羽さん、ちょっと職員室に来てくれる?」

授業が終わると先生はそう言った。教室がざわざわと波立つ。私は知らず、眉をしかめていた。職員室に、しかも眞子と一緒に呼ばれるなんて。勘弁してほしいな。でも先生にそんなこと言えるはずもなく。

眞子は無言で立ち上がると先生についていった。私は次の授業の準備をするフリをして、少し時間をずらした。先生と眞子と、1メートルくらい離れて私。無言で教務室へ入る。先生は椅子に座って、クルリと向き直った。

「今回は大変だったわね。おうちのほうは大丈夫?」

「……別に、大したことじゃないし」

そう言ったのは眞子だった。私は無言で頷いて返答に代える。

「何かできることがあったら、遠慮無く先生に相談して頂戴ね。休んだり早退するときも教えてね。知られたくなかったら、クラスのみんなには先生から上手く説明しておくから」

私はお辞儀をした。「ありがとうございます」と「おねがいします」が混じって変な言葉になった。

眞子と一緒にいるのを誰かに見られたくなかったので、さっさと教室に戻ろうとすると、先生に呼び止められた。

「あなたたち、最近一緒にいるの見ない気がするけど、何かあったの?」

私は返答に窮した。先生は少しいぶかしんでいたみたいだけれど、結局何も言わなかった。


「何々? 何だったの?」

案の定、教室に戻ると周りに尋ねられた。

「別にー」

笑ってはぐらかす。眞子はまだ教室に着いていない。

「そういえば聞いた? 今朝ね、女子トイレの窓ガラスが割れてたんだって」

鴇が周りに話題を振った。そのお陰で、私への注目は立ち消えた。私に集まっていた子たちが、みんな鴇の方を向く。

「え? 何それ?」

「ほら、すぐそこのトイレ、窓にガムテープ張ってあるでしょ。隣のクラスの女子が見つけて先生に言ったらしいよ」

「えー、気付かなかったー」

「あたしは知ってたよ。でもあれ、割れたんじゃなくて割られたの?」

「普通割れないでしょ」

「だよねー」

他愛も無い会話。それが一瞬にして凍りつく。

「誰がやったんだろう」

「どうせまた眞子でしょ」

「そうだよね、決まってるよね」

「どうしようもない奴だな、あいつ」

「野蛮だね」

心臓が脈打つ。冷や汗がジワリと出てくるのを感じる。

眞子はもうすぐ戻ってくる。いや、すぐそこにいるかもしれない。

私が何か言っているわけじゃない。でも、この会話を聞かれたら。

平静を装って辺りを見渡す。ああもう、みんな声のボリューム落としてよ。

私は悪くない。私は何もしていない。

なのに、この後ろめたさは何だろう。

眞子と一緒にいるのをクラスのみんなに見られたくない。

でも、眞子の悪口を聞いているのを眞子に見られたくもない。

私は傍観者なのに。中立なのに。

どうしてこうもビクビクしなきゃならないんだろう。

私はそっとその場を離れた。

席に座ったとき、心底ほっとしている自分に気付いた。


「美菜ちゃん、一緒に帰ろ」

帰りの会が終わると、陽向がいつものように駆け寄ってくる。陽向が塾に行く日以外はいつも一緒に帰っているのに、毎回言われる台詞だ。それが恥ずかしいようで嬉しい。だけど……

「……ごめん、ちょっと今日は……」

「またお買い物? だったら手伝うよ」

「ううん、えっと……」

口ごもる。陽向は首を傾げる。答えに困るほど、どんどん気まずくなっていく。

「ちょっと、こっち来て」

私は陽向にそう言って、教室を出る。辺りに人のいない渡り廊下に来て、向き直った。

「みんなには内緒の話なんだけど」

内緒話と聞いて、陽向は顔を輝かせた。女の子はみんな秘密が大好きだ。

私は事故にあった高校生の一人がお姉ちゃんであること、意識不明で入院していること、これからしばらく病院に通うから一緒に帰れないことを述べた。

「誰にも言っちゃだめだからね」

「うん、内緒だね。ゆびきりげんまん」

私たちは小指を交わした。


陽向と別れて、病院へ着いた。お姉ちゃんのいる病室へ向かう。と、入り口で話し声が聞こえた。聞き覚えのある声。

「ねえ、真希ちゃん、起きてよ。もう夕方だよ。ネボスケにも程があるよ」

病室に入ると、そこには車椅子に乗った美沙ねえがいた。私の姿を認めるといつもの柔らかい笑みを浮かべるけど、顔には涙の跡があった。普段左右にくくっている髪を下ろして、化粧っ気もない。両足と左腕に巻かれた包帯や首を覆う装具、そして点滴を連れて車椅子に乗る姿はお姉ちゃんに負けず痛々しかった。

「こんにちは、美菜ちゃん。久しぶりー」

「……美沙ねえ、大丈夫?」

「大丈夫大丈夫。全然大したことないよ」

そう言って両腕を上下させて見せるけれど、その動きは緩慢でぎこちない。

「それより、真希ちゃんの具合はどうなの?」

そう訊かれて、返答に窮する。うまく説明できるかとか以前に、私もよく分かっていないのだ。お医者さんもきっと今後どうなるかは分からないだろう。

押し黙る私をどうとったのか、美沙ねえは小さく「そっか」とだけ言った。そして再びお姉ちゃんの方を向く。

「ねえ、真希ちゃん、起きてよ。何か言ってよ。そうじゃないと私、どうしたらいいか分からないよ……」


その後もずっと美沙ねえはお姉ちゃんに語りかけていた。やがて看護師さんが呼びにきて、美沙ねえは自分の病室へ戻っていった。病室の番号を教えてもらった。行くかどうかは分からないけど。

「あら、あんた、いたの」

ほとんど入れ替わりにお母さんが入ってきた。仕事帰りなのだろう、大きな鞄を片手に提げている。

「今そこで美沙ちゃんに会ったけど、お話してたの?」

「うん。ほとんど美沙ねえがお姉ちゃんに声をかけるだけだったけど」

「笑ってた?」

「泣いてもいたけど、顔はずっと笑ってたなぁ」

「……そう、しっかりしてるわね。立て続けにあんな事があったのに」

その言葉に違和感を覚えた。お姉ちゃんの怪我と美沙ねえ自身の怪我のことを言うのなら、その言い方は変だ。立て続けというのは、同時に起きたことには使わない。事故の前後に何かあっただろうか。まさか、眞子がいじめられていることが発覚した? いや、それなら私がお母さんに怒られるか、少なくとも事情を聞かれるはずだ。

「どうしたのよ」

そう言われて、お母さんの顔をじっと見ていたことに気づく。怪訝な顔をされたので、慌てて視線を逸らす。

「う、ううん、何か最近あったっけ?」

「あら、あんた、眞子ちゃんから聞いてないの?」

その言葉がぐさりと突き刺さる。作り笑いで何とか誤魔化す。

でもお母さんの話を聞いて、そんなのはどうでもよくなってしまった。


普通の人――もちろん私も――にとって、病院は病院だ。評判とか掛かり付けとかあるけど、病院に行ってきたと言えばそれが眼科でも耳鼻科でも小児科でも人々の反応は大して変わらない。ただ一つの科を除いて。

眞子のお父さんが、精神科に入院したらしい。正確に言えば、させられた。しかも個室に閉じこめられているという。きっと美沙ねえが入院したときに、お医者さんが不自然な傷に気づいたのだ。それで虐待が発覚した。

目の裏に情景が浮かんでくる。暗く冷たい部屋に男の人が閉じこめられている。男の人は鉄の扉をどんどんと叩く。喚きながら。叫びながら。力の限り。目は血走っている。体は痩せこけている。伸びた髪を振り乱し、拳からは血が滲んでいて……

「美菜!」

目を開けた。見慣れた教室がそこにあった。鴇が眉をひそめながらのぞき込んでいた。

「何ボーッとしてんの。みんな体育館に行ったよ」

「……あ……うん、ごめん」

頭を振って、変な映像を頭から追い出す。実際にどうなってるのかなんて知らない。ただ、この事が知れたらまた眞子を嘲るネタにはなるだろう。だから私は誰にも言わない。

別に眞子の肩を持つわけじゃない。私は何もしていない。するつもりもない。だから、良くはないけど悪くもないはずだ。

私が眞子の味方をしなくちゃならない理由だって、きっとないのだ。眞子とは幼なじみなだけで友達ってわけじゃない。だって、友達だなんて言ったこと、一度もないから。眞子を友達だというのなら陽向も鴇も友達で。それなら私は一体、誰の味方をすればいいのだろう。

「またボーッとしてる」

その声に我に返る。

「あんた最近変だよ? どうしたのさ?」

「……別に、何でもないよ。行こ」

立ち上がる。体がやけに重かった。

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