婚約破棄された伯爵令嬢、前世は社会福祉士だったので、まずは夫から逃げてきた母子を助けます
社会福祉士が異世界に転生したらどうなるんだろう?と思って、気軽に書いてみた短編です。もし反応が良ければ、続きを書いてみようかなと思っています。
「婚約を解消してほしい」
そう言われたとき、エレノアは一瞬目を見開いたものの、すぐにいつもの冷静さを取り戻した。
向かいに座る婚約者、侯爵家の嫡男アルバートは、どこか居心地悪そうに視線を逸らしている。
十二歳の頃に婚約して八年。恋愛感情はなかったが、仲が悪かったわけでもない。少なくともエレノアは、いずれ彼の妻となり、侯爵家を支えていくのだと思っていた。
「理由を伺っても?」
「……好きな女性ができたんだ」
やはり、と思った。
ここしばらく、アルバートが特定の令嬢と妙に親しくしていることには気づいていた。二人きりで話している姿を何度か見かけたし、先日の夜会では、人目を避けるように庭園の奥へ連れ立っていくところまで目にしている。
なるほど。浮気か。そんな男は、こちらから願い下げだ。さっさと切るに限る。
「承知しました。ご両親には、すでにお話を通してあるのですか?」
「いや、それはこれからだ」
エレノアは思わず眉を寄せた。婚約は二人だけの問題ではない。特に伯爵家と侯爵家の間で結ばれた婚約となれば、両家の合意が必要になる。
「でしたら、まず侯爵様に話を通してください」
「そういうところなんだ!」
突然声を上げられ、エレノアは目を瞬いた。
「……何のことでしょう?」
「君はいつもそうだ。何があっても冷静で、正論ばかり言う。僕がどう思っているかなんてお構いなしだ。そういうところが可愛げがないんだ」
何を言っているのだろう。
結婚後、侯爵夫人として家を支えられるように学べと言ったのは、彼の両親だ。領地の収支報告を読み、使用人の配置を覚え、侯爵家が付き合う商会についても学んだ。彼が苦手だというので、社交上の細々とした予定の管理を手伝ったこともある。
「彼女は君とは違う。いつも僕のことを考えてくれて、僕がいないと困ると言ってくれる。可愛らしい人なんだ」
つまり私は、可愛げがないと言いたいらしい。
以前にも似たようなことを言われた気がする。
『お前って、本当に可愛げがないよな』
誰に言われたのだっけ?
そう思った瞬間、激しい頭痛がエレノアを襲った。
◇
前世の自分は、三十代の社会福祉士だった。
家庭内暴力から逃げてきた女性と子どもたちが暮らすシェルターで働いていた時期もある。泣きながら電話をかけてくる女性の話を聞き、子どもを連れて夜中に逃げてきた母親を迎えた。警察や病院、学校、行政機関と連絡を取り、住居を探し、生活費の申請を手伝い、仕事探しの支援もした。
好きな仕事だったし、やり甲斐もあった。けれど、楽な仕事ではなかった。
仕事に没頭していたせいか、異性と出会うきっかけも少なかった。それでも男性に誘われて出かけたことは何度かあったが、結局おつき合いに発展することもなく、気楽な独り身だった。
記憶を辿ってみても、死因は思い出せない。長い一日を終えて帰宅し、簡単な夕食をとった。缶のままビールを一缶だけ飲んだ。疲れた身体を引きずるようにして風呂へ入り、温かい湯に肩まで沈んだ。
――ああ、疲れた。
覚えているのは、そこまでだった。
そしていつの間にか、この世界でエレノア・ハーグレーヴ伯爵令嬢として転生していたらしい。もっとも、今の今まで前世のことなど、きれいさっぱり忘れていたのだけれど。
「……前世でも可愛げがないと言われていたわね」
自室のベッドに腰掛けたエレノアは、思わず呟いた。
どうやら魂が変わっても、人間の性格というものは大して変わらないらしい。
◇
婚約解消は、思った以上にあっさり成立した。アルバートの父である侯爵は激怒したらしい。
「しっかりした伯爵令嬢を妻に迎えれば、頼りないお前でも何とか侯爵家をやっていけると思っていたのに」
と、息子を叱りつけたらしい。
アルバートが結婚を望んでいる女性は、確かに愛らしく素直な女性ではあるものの、領地経営にも社交にもあまり関心がないという。それでもアルバートが彼女を選ぶというなら、仕方がない。
「これからは自分の仕事は自分でやれ」
侯爵はそう息子に言い渡したらしい。
これから彼は、今までエレノアに任せていた分まで、自分で背負わなければならないだろう。
エレノアとしては、もう心底どうでもいい話だった。別にアルバートに不幸になってほしいわけではない。好きな女性と結婚したいなら、好きにすればいい。ただし、自分で選んだ道なのだ。これまでエレノアに任せきりにしていたことを、これからは自分でこなさなければならない。それくらいは自業自得だろう。
そして婚約がなくなったことで、エレノアには思いがけず自由な時間ができた。これまで侯爵家に嫁ぐための勉強や、アルバートの手助けに費やしていた時間だ。
さて、何をしよう。
そこで思い出したのが、以前から月に一度ほど手伝いに行っていた教会だった。
この国には、前世のような社会福祉制度はほとんど存在しない。貧しい者、親を亡くした子ども、病気で働けない者。そうした人々の支援は、主に教会と貴族の慈善に委ねられていた。
せっかく暇になったのだ。もう少し本格的に手伝ってみてもいい。
◇
教会では週に二度、貧しい者たちに食事を配っていた。エレノアは厨房を手伝い、食事を配り、時には訪れた人々の話を聞いた。
前世の社会福祉士としての目で改めて見てみると、この世界のやり方には不可解に思えることがたくさんあった。
教会の人々は優しい。困っている人がいれば食べ物を与える。着るものがなければ古着を渡す。孤児を見つければ孤児院へ連れていく。だが、それ以上のことはほとんどしない。
貧困も家庭内の問題も、どこか本人に原因があるものとして受け止められている。困っている者には施しを与える。けれど、なぜその状況に陥ったのかを知り、そこから抜け出すために何が必要なのかを一緒に考える、という発想はない。社会福祉士だった前世の感覚からすると、そこには大きな違いがあった。
そんなある日。
二人の幼い子どもを連れた女性が教会へやってきた。二十代半ばくらいだろうか。左頬が腫れている。腕にも、袖から青黒い痣がのぞいていた。
「主人に……殴られて……」
女性は泣きながら訴えた。
対応した年配のシスターは、困ったように眉を下げた。
「まあ……ご主人も、何か腹を立てることがあったのでしょう」
エレノアの手が止まった。
「でも、もう帰りたくありません」
「そんなことを言ってはいけませんよ。夫婦なのですから。あなたにも何か、ご主人を怒らせるようなことがあったのではありませんか?」
「……」
「お子さんたちのためにも、お父様とお母様は一緒にいた方がいいでしょう。今日は少し休んで、落ち着いたら帰って謝りなさい」
いやいや、それは違うでしょう。それは絶対に駄目なやつだ。
「ちょっと待ってください」
エレノアは思わず口を挟んでいた。シスターが驚いて振り返る。
「少し、私がこの方と話してもよろしいでしょうか」
女性を別室へ連れていき、子どもたちには軽食を用意してもらった。
エレノアは女性の正面ではなく、少し斜めに椅子を置いた。
「お名前を伺っても?」
「マリアです」
「マリアさん。ご主人があなたを殴ったのは、今日が初めてですか?」
マリアは首を振った。
「どのくらい前から?」
「結婚して……数か月後くらいからです」
結婚して四年になるという。夫は酒を飲むたびに暴力をふるう。しかもひどく嫉妬深い。市場で男性の店員と言葉を交わしたり、近所の男性に挨拶をしたりしただけで、不貞を疑われた。
「最近、暴力はひどくなっていますか?」
「……はい」
「刃物で脅されたことは?」
マリアの顔が強張った。それだけで答えは分かった。
「子どもたちには?」
マリアの目から涙が落ちた。
「上の子が……私を庇おうとして……」
エレノアは息を吐いた。帰してはいけない。これは夫婦喧嘩ではない。少なくとも今夜、この母子を夫のもとへ戻すことだけはできない。
「マリアさん」
エレノアは静かに言った。
「今夜は帰らなくていいです」
マリアが顔を上げた。
「でも……」
「これからどうするかは、明日考えましょう。今日はあなたとお子さんたちが安全な場所で眠ること。それだけ考えます」
◇
問題は、その「安全な場所」がなかったことだった。
教会には宿泊用の部屋がいくつかある。しかし夫が訪ねてきて「妻を迎えに来た」と言えば、シスターたちはマリアを家へ帰そうとするだろう。むしろ善意から夫婦を仲直りさせようと、夫を呼び出して話し合いの場を設けかねない。それでは、かえってマリアを危険に晒すことになる。
マリアを実家へ避難させることも考えた。だがマリアは首を振った。
以前一度夫から逃げたとき、父親から、
「夫に従えない妻など恥さらしだ」
と言われ、夫の家へ送り返されたという。
それならば。エレノアには一つ心当たりがあった。
「お父様。お願いがあります」
その日の夕方、エレノアは父の書斎を訪ねた。
「今度は何だ」
婚約解消以来、父は娘に少々甘い。
「お祖父様たちが以前使っていた屋敷、今は空いていますよね」
伯爵位を父に譲った祖父母が、王都を離れて領地で暮らすまで使っていた屋敷だった。今は最低限の管理だけされている。
「使わせていただけませんか?」
「何に使う」
エレノアが状況を説明すると、父の顔がみるみる険しくなった。
「つまり、夫から逃げた妻を、我が家が匿うということか?」
「はい」
「それは他家の夫婦の問題だろう」
「その女性は刃物も向けられています。子どもも殴られています」
「しかし――」
「これまでより暴力がひどくなっているんです。このまま帰せば、次は命に関わることになるかもしれません」
父が黙った。
「もし、取り返しのつかないことになったら――今日助けなかったことを、きっと後悔します」
長い沈黙のあと、父は深くため息をついた。
「お前の好きにしろ」
「ありがとうございます」
「ただし問題を起こすなよ」
「努力します」
「お前の『努力します』は信用ならん」
失礼な。
◇
こうしてマリアと二人の子どもは、その屋敷の最初の住人になった。
建物の管理と掃除を兼ねてメイドを一人雇い、万一に備えて警備の者も一人置いた。もちろん、その費用はエレノアの負担だ。今後もこの場所を維持していくなら、いずれ安定した資金源を考えなければならない。
エレノアは、マリアを入居させるときにいくつかの決まりを言い聞かせた。この屋敷の場所を、絶対に外部の人間に教えないこと。外出するときは、できるだけ護衛を伴うこと。今後ほかの女性が暮らすようになった場合、お互いの事情を外部で話さないこと。そして、たとえ夫や親族が訪ねてきても、本人の許可なく会わせないこと。
「そこまでする必要がありますか?」
教会のシスターは驚いた。
「あります」
「でも、ご主人が心配して探していらしたら……」
「だから教えないんです」
エレノアはきっぱり答えた。
「暴力を振るう夫に居場所を知られてしまったら、ここへ避難した意味がないでしょう?」
シスターは納得しきれない顔をしていた。それでもエレノアは譲らなかった。
◇
もちろん、安全な場所を用意すれば終わりではない。数日後、エレノアはマリアに尋ねた。
「これから、どうしたいですか?」
マリアは戸惑った。
「どう……とは?」
「ご主人のもとへ戻ることもできますし、戻らずに新しい生活を始めることもできます。マリアさん自身は、どうしたいですか?」
「……戻りたくありません」
「分かりました。では、戻らずに暮らす方法を一緒に考えましょう」
「そんなこと……できるのでしょうか」
「できるようにするんです」
まず必要なのは収入だった。
「何か得意なことはありますか?」
「私なんて、何も……」
「何でもいいんです。好きなことでも、人から褒められたことでも」
しばらく考えたあと、マリアは言った。
「刺繍なら……」
見せてもらうと、驚くほど上手だった。花や小鳥を細かな糸で描いた布は、十分商品になる。
エレノアはサンプルを伯爵家と取引のある商会へ持ち込んだ。最初は渋い顔をされたが、試作品として小袋とハンカチを作らせてみると、思った以上によく売れた。
マリアは少しずつ、自分でお金を稼ぐようになり、子どもたちの顔からも怯えが消えていった。
生活が落ち着いたのを待って、エレノアは改めてマリアからこれまでの経緯を詳しく聞き取った。いつ頃から暴力が始まったのか。どんな時に、どのような暴力を受けたのか。怪我をしたことはあるか。どこで治療を受けたのか。刃物を向けられたのはいつか。子どもたちへの暴力はどの程度だったのか。
話が前後するたびに急かすことなく確認し、エレノアは一つずつ時系列に整理していった。そしてマリアの供述書としてまとめ、本人に内容を確認してもらった。さらに、過去に怪我の治療を受けた記録など、暴力を裏づけるものも可能な限り集め、婚姻の解消を求める申し立てとともに法廷へ提出した。
この国にも、命の危険があるほどの暴力を受けてまで、妻が夫のもとに留まらなければならないという法はない。ただ、それを証明し、正式に婚姻を解消するには、それなりの手続きが必要だった。
マリア一人では、何をどこへ訴えればよいのかさえ分からなかっただろう。エレノアにとっては、それもまた前世で何度となくしてきた仕事の延長だった。
その間にも、エレノアはいろいろな人から言われた。妻は夫に従うべきだ。子どもから父親を奪うのは可哀想だ。夫婦のことに他人が口を出すものではない。
そのたびにエレノアは丁寧に説明した。
「夫婦で意見が合わないことと、殴ることは別です」
「父親がいることより、安全に暮らせることの方が大切な場合もあります」
「実際に、夫に殺される女性もいるでしょう?」
最後の問いには、誰も否定できなかった。この世界でも、夫に殴り殺された妻の話は珍しくない。ただ、それを防げるものだと考える人が、ほとんどいなかっただけだ。
◇
マリアの申し立てを受け、正式な審理に進む前に、双方から事情を聞く機会が設けられた。当然、夫からも事情が聞かれた。
後から聞いたところによると、夫はひどく興奮し、
「妻が勝手に家を出た」
「夫として躾けただけだ」
「あいつが男に色目を使うから悪い」
などと、ずいぶん一方的な主張を繰り返したらしい。
だが、そこで感情的に言い分を並べることと、正式に異議を申し立てることは別だった。
夫にはマリアの申し立てに反論するための期間も与えられていた。しかし、自分の言い分を聞かせさえすれば妻は当然戻されるものと思い込んでいたらしく、期限までに必要な手続きを取ることも、彼女の供述を覆すような証拠を提出することもなかった。
そして数か月後。
正式な審理では、マリアから提出された供述書や資料をもとに判断が下され、婚姻の解消が認められた。
知らせを受け取ったマリアは、しばらく紙を見つめていた。
「……本当に、もう帰らなくていいんですね」
「ええ」
エレノアは頷いた。
「もう、あの人の妻ではありません」
マリアは何も言わなかった。ただ、胸の前で紙を抱きしめると、ぽろぽろと涙をこぼした。
数日後、マリアは子どもたちとともに、小さな借家へ移ることになった。刺繍の仕事で、どうにか三人で暮らしていけるだけの収入を得られるようになったからだ。
荷物を運び終えた日、マリアは何度もエレノアに頭を下げた。
「本当に……ありがとうございました」
「私は少し手伝っただけです。これから暮らしていくのは、あなたですから」
「でも、あの日、お嬢様がいなかったら……私はきっと、あの家へ戻らされていました」
エレノアは何も言わなかった。
戻っていたらどうなっていたのかを考える必要は、もうない。
マリアの娘が、新しい家の窓から顔を出して笑っていた。
それで十分だった。
翌週。
エレノアがいつものように教会で食事を配っていると、年配のシスターがやってきた。
「エレノア様」
「はい?」
「少し、ご相談してもよろしいでしょうか」
以前なら、シスターがエレノアに相談を持ちかけることなどなかった。
「もちろん」
「実は……夫を亡くした女性が来ているのです」
「はい」
「まだ小さなお子さんが三人いらして。家賃を払えなくなり、このままでは子どもたちを孤児院へ預けるしかないと」
エレノアは食事を配る手を止めた。
「それで?」
シスターは少しためらってから言った。
「エレノア様なら……何か方法をご存じではないかと思いまして」
エレノアは奥を見た。
教会の片隅に、痩せた女性が座っていた。その傍らには三人の子どもがいる。
――なるほど。
どうやら、マリアの件だけでは終わらないらしい。
前世では社会福祉士だった。もう二度とすることはないと思っていた仕事だ。けれど、この世界にも困っている人はいる。そして困っている人がいる以上、それを支える仕組みも必要になる。
エレノアは小さく息を吐いてから、シスターに言った。
「まず、その方のお話を聞かせていただけますか」
婚約を失って、自分の人生は予定から大きく外れてしまったと思っていた。けれど、予定外の道も案外悪くないのかもしれない。
エレノアは女性のもとへ歩き出した。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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