第1話 甘い言葉と婚約破棄
「……ということで、キミとは婚約破棄をさせてもらうよ。エリザ・シュターテット」
その口調は、まるで今日の天気でも話すかのように穏やかだった。
大怪我を負ってベッドに横たわる私に対して、婚約者であるジョッシュ・アンハワーがニカっと微笑み白い歯を見せて言った。
突然の婚約者の訪問、そして畳みかけるように一方的に告げられた衝撃的な通告に、私はただただ戸惑うばかりだった。
「え……?」
混乱の極みで、次に何を口にすればいいのかわからないまま、私から絞り出たのはたった一文字の言葉だった。
六年前、十一歳の頃に決まった婚約。
それ以来、ジョッシュは私に会うたびに、数々の甘い言葉を囁き続けてきたはずなのに。
『あなたはいつだって、本当に美しい』
『あなたと逢えるのを、今か今かと心待ちにしておりました』
『あなたを幸せにする権利を、私にください』
『私の生涯を、あなたに尽くします。エリザ』
……一体、どうしてこんなことになってしまったのだろうか。
私が十歳のころ、シュターテット領の領主であった両親は不慮の事故で亡くなった。
そして悲しみに明け暮れる私のもとに、遠縁の親戚だという叔父と叔母がやってきて領地を引き継ぐことになった。
領地の名を引き継いだ叔父はブランド・シュターテットと名乗った。
こうして、一度も会ったことのない叔父と叔母との生活が始まったのだ。
最初の頃こそ、彼らは優しい態度と笑顔で私に接してくれたが、すぐにその本性を現した。
暴言と暴力を受ける日々。
逃げ出そうにも、両親の財産は既に彼らの手に渡っており、私一人の力ではどうすることもできなかった。
彼らがそれをする理由、おそらく両親の財産が叔父に渡ったことで、私はもう用済みだったのかもしれない。
食事の時も、私に出されるのは酷いものばかりだった。
叔父夫婦は使用人が作った料理を食べるけど、私の料理は叔母がわざわざ作る。
腐りかけの野菜、鼻を突く臭いのひどいスープ、カビの生えたパン。
食事の最中は、叔父と叔母にいびられながら食べる。
情けなくも、いつも涙を流してしまう自分自身が嫌だった。
私が涙を流すたびに、叔父と叔母は下卑た笑い声をあげた。とても、とても嬉しそうに。
それでも、私は耐えた。
なぜなら、私にはこの地獄から守ってくれる人と、逃げ出させてくれる人がいるという算段があったからだ。
それは、両親の代から仕えてくれていた使用人たちだった。
彼らは優しい声をかけてくれて、叔父と叔母からの折檻を陰ながらかばってくれた。
執事のロイド、私の世話をしてくれたメイドのジーン。そして、たくさんの使用人たち。
公然と私をかばえば、叔父と叔母に解雇されてしまうため、彼らは水面下で私の日々を護り続けてくれていた。
私にとって、第二の親と呼べるのは、メイドや執事といった使用人たちだった。
そして、他の領地の息子との婚約。
この婚約こそが、私に許された唯一の逃げ道だったのだ。
婚約者の名はジョッシュ・アンハワー。
これも遠い血縁関係があるらしいと聞いたが、私の両親からそんな話を聞いた覚えはない。
それでも、ここから逃げ出せるのならば、誰でも良かった。
ジョッシュと会う際、叔母にはいつも釘を刺された。
『エリザ。失礼の無いようにしなさい。そして、あの男を絶対にモノにしてくるのよ』と。
そのせいで、私はいつもぎこちなかった。
そう言われても、具体的にどう振る舞えば良いのか分からなかったから。
だけど、ジョッシュがくれる言葉に、私は救われていた。
『あなたはいつだって、本当に美しい』
『あなたと逢えるのを、今か今かと心待ちにしておりました』
『あなたを幸せにする権利を、私にください』
『私の生涯を、あなたに尽くします。エリザ』
ジョッシュはそう言うたびに、ニカっと笑い白い歯を輝かせていた。
聞いたことのない愛の言葉の数々。こんな世界があるのかとさえ思えた。
そんな叔父と叔母との地獄のような生活は七年続いた。
だが、その状況は一瞬で終わりを迎える。
三日前、夕食を食べていた時のことだ。
この日も、叔父と叔母からの酷い言葉を浴びながらの食事だった。
涙を流しても、私は夕飯を食べ続けなければならなかった。食べなければ、その後の折檻が始まるから。
そして、私は一刻も早く食べ終わる必要があった。
なぜなら、使用人たちが私の姿を見て、叔父と叔母に憤っていたのが分かっていたからだ。
使用人たちは拳を強くギリギリと握りしめ、歯を食いしばって、主である叔父と叔母を睨みつけていた。
周りのことなど気にしない叔父と叔母はそれに気づいていなかったようだが、もし見つかったら大変なことになる。
だから、使用人たちの怒りが露呈しないように、私は急いで食事を終えなければならなかった。
その時、外から『ドン!』という大きな音が響いた。
何事かと、使用人たちが慌てて確認のために外へ出て行った。
そして事件が起きた。
突然の爆発。
私と叔父と叔母が食事をしていた広間で、大きな爆発があった。
その時の記憶は曖昧だけど、身体が大きく吹き飛ばされた覚えがある。
それから三日間、私は気を失っていたらしい。
目を開けると、私はベッドで寝ていた。
そして、最初に目に映ったのは屋敷の近くにある村の娘で幼馴染、メグの顔だった。
「よかった……! エリザ、気がついたのね! 三日も意識が無かったんだよ!」
私に抱き着くメグ。その目には涙が浮かんでいた。
「メグ……私、どうしたの……? それに、ここはどこ?」
メグが説明してくれた。
お屋敷が火事にあった事。そして私は怪我をして、村の教会に運ばれ治療を受けていた事。
たしかに、私は身体中が包帯やら、布で巻かれている。
「メグが治療してくれたの?」
「ううん。私じゃない。知らない人がエリザを治してくれたの」
「知らない人?」
「うん、お屋敷の人じゃなかったと思う。変なローブを着てて顔も見えなくて、誰だか分からなかったの」
誰だろう……? 屋敷には、治療の知識がある人なんていなかった気がするけど。
「それでね、エリザ。凄く言いにくいんだけど……領主様ご夫妻が亡くなったの」
メグの言葉を聞いて、私は何も言えなかった。
驚いたことは確かだったけど、それが悲しみとは違うものだった。
感じたのは、もしかしたら安堵だったかもしれない。
「そう……なの。教えてくれてありがとう、メグ。他の使用人たちは大丈夫だった?」
「うん。けが人はご夫妻とエリザだけだった。それとね、お屋敷も火事で無くなっちゃって……」
「そう……良かった……使用人たちに怪我がなくて。屋敷の人たちは、今何をしているのかしら?」
「えっと、それがね。なんか皆いなくなっちゃって。たしかにお屋敷が全焼しちゃったから、泊まる所も無かったとは思うんだけど……」
それを聞いて、私は安心した。
私のために、ここに残っていると聞いたら無力な私にはどうしようもなかっただろう。
仕事が無くなったのは申し訳ないけど、一刻も早く皆にはそれぞれの生活について欲しいと心の中で願った。
「あとさ、エリザ。領主様は、どうしていいか分からなかったから、村の人たちで、村の共同墓地に埋葬したんだけど、大丈夫だったかな?」
「……うん。ありがとう。何から何まで」
貴族と言えど、疫病が蔓延しかねないし遺体をそのままにするにはいかないのだろう。
それに、そもそもどこに埋葬すればいいのだろうか。
私の両親は遠い場所の丘に埋葬されていた。そこは両親が生前、若かりし父と母が出会った場所だということが、村の中でも有名だったからだ。
私は両親のお墓参りをする時に、いつも悲しい気持ちになっていたが、その場所が両親の出会った場所と聞いて、少し嬉しい気持ちになった事を思い出した。
「ねえ、エリザ。あのさ、この土地ってエリザが継ぐの?」
「ううん、女の私は継げない……と思う。でも婚約者のジョッシュがいるから、もしかしたら領主になるのかもしれないね」
「へぇ! エリザが領主様になったら嬉しいよ!」
メグ、いや村民はみんな知っていた。私が叔父と叔母に虐げられていたことを。
そんな私を村の皆はとても優しく受け入れてくれていた。
叔父と叔母は村の人たちに、私腹のために税率を上げたり、酷い言葉を掛けたり、凄く悪い事ばかりしていたのに。
屋敷にいるのが辛いとき、私はたびたび村に逃げて来ていた。その時、メグと知り合って仲良くなった。
年代が近い子どももメグ以外におらず、小さい時からお互いに名前で呼び合うと決めていた。
そんな会話をメグとしていた時だった。
突然、ノックもせずにドアがガチャリと開いた。
そのドアを開けたのは――私の婚約者ジョッシュ・アンハワー。
ジョッシュは私を見つけると、すぐに口を開いた。
「やあ。ブランドさんが亡くなったそうだね。……ということで、キミとは婚約破棄をさせてもらうよ。エリザ・シュターテット。ブランドさんも居ないので、君に伝えに来たんだ」
「え……?」
「ああ、そうだ。屋敷は火災で焼失してしまったが、燃えカスとはいえ、残った物に手は出さないようにね。所有物と領地は、親戚である我がアンハワー家のものになった。正式にね。君も、すぐに我が領地から出ていきなさい。確かに伝えたからね。ではっ!」
ジョッシュはそう言うと、ニカっと笑い、白い歯が輝いていた。
そしてすぐにドアが閉められて、去っていくジョッシュ。
「えっ? ……ええっ?」
私の戸惑ったかすれた声は、虚空に消えた。
私とメグは、窓から元許嫁のジョッシュの姿を追った。
ジョッシュが馬車に乗る際に、馬車の中に美しい女性がいるのがチラっと見えた。
黒い髪と黒いドレスを纏っていた妖艶な女性。
その女性と仲睦まじく会話をしているジョッシュ。すると馬車が走り出し、見えなくなった。
……そうか、そういうものなのか。
おそらく最初から、そういう女性がいたのだろう。
「何あれーーーー!!!」
部屋にこだまするメグの絶叫。私の怒りを、メグが代弁してくれた。
「あいつ、今から私がぶっ殺してくる!!!」
「いいの。いいんだ、メグ。私は大丈夫だから」
「う……エリザがそう言うなら……でもさあ! はー、これだから男ってやつは!」
「別に私は気にしてないよ。叔父と叔母が決めた許嫁だし。それに私自身も別にって感じだったしさ」
……少しばかり、私も強気で言い返すような調子で言ってみた。
だけど、今はあまりに色々な事が一度に起こりすぎて、適切な言葉が見つからなかった。
はぁ、とため息が自然と漏れた。
婚約破棄の上に、この領地から出ていけと言われてしまった。
おそらく、ジョッシュと一緒に居た女性からすると、私は邪魔なのだろう。
……これから、どうしよう。
「ねぇ、エリザ。エリザさえ良ければ、私たちと一緒に暮らそう?」
メグが私の顔を見て察したのか、優しい言葉を掛けてくれる。
その優しさが、嬉しかった。
だけど……
「ううん。私がいると迷惑かけちゃうから。私はなんとかするよ」
「なんとかって……」
メグも私の状況を理解していた。
身寄りがあれば、叔父と叔母からとっくに逃げ出していた。
だけど、私に逃げ場など無かった。
しかも、今の私は身体中に包帯を巻いていた。
この身体中の怪我の状況を知るのが怖い。
だけど、身体の何かがおかしい。
こんなに包帯やらを巻いているのに、痛みが全く無い。
「ねぇメグ。私の怪我って、どういう状況なのかな?」
「えっ!? えと、えーっと……」
メグが言うのを躊躇っている。
そんなにひどい状況なのだろうか。
「メグ。私は大丈夫だから、教えてもらえないかな?」
「……わかったわ、エリザ。気をしっかり持ってね」
メグが私の包帯をシュルシュルと解いていく。頭や、腕。身体と。
だけど、違和感の通りだった。
私の身体には傷一つなかった。
「あ……あれ? なんで……? 怪我が治ってる……あんなにひどかったのに、こんなに早く?」
メグがとまどっていた。そんなに傷があったという事なのだろうか?
「あ、でもここは……エリザ、気をしっかり持ってね」
メグが最後に残った、私の左手にグルグルとたくさん巻かれた包帯を解いていく。
『気をしっかり持って』とメグに二回も言われた事で、私は気が緩んでいた。たぶん、大丈夫なのだろうと。
その包帯が解かれた時、ソレが姿を現した。
私の左手が、金属の左手になっていた。
「うわーーーーーーーーーーーっ!!!」
あまりに驚いて、大きな声を出してしまった。
私って、こんな大きい声を上げられるんだ、と変な事を思ってしまった。
これは……義手?
しかし、左手の感覚があまりに自然で気が付かなかった。
感覚が手と変わらない。なんというか、布に触った感覚さえも分かる。義手なのに。
それに義手には、装飾品のように綺麗な蔦のような細工が彫られている。
銀のような金属も、ネックレスや指輪のようなキラキラと輝いているものではなく、艶が無いが、それが凄く上品さを醸し出していた。
「きれい……」
その左手の義手の美しさに、あまりに見とれてしまって自然と声が出た。
左手を動かしても、まるで自分の手のように動く。どういう仕掛けなんだろう?
それに、金属に見えるけど、やたらと軽い。
ふと、自分の腕と繋ぎ目を見て見ると、私の腕と完全にくっついていた。
痛々しい繋ぎ目ではなく、私の腕と接続している場所も、まるで手袋のように自然とかぶさっているようだった。
「ねえメグ。これって、なに?」
「……えっ!? えーっと、エリザが怪我でここに運ばれてきた時には、すでに左手が大怪我しててね。いや、全身も大怪我してたんだけど。それでね、エリザを治してくれた医者が、その金属の手を持っててエリザの左手にくっつけてたんだ」
メグから聞いても、わけが分からない。
その医者というのは、なんなのだろうか。逆に怖い。
「そのお医者さんって、誰なんだろう……」
「ん~、私は見た事ないけど、エリザの事、知ってそうだったよ。知り合いのお医者さまじゃないの?」
「お医者さまに、知り合いはいないなぁ……」
お医者様どころか、私は屋敷の人と、この村の人、ジョッシュ以外に知り合いはいない。
他の人との交流を禁止されていたからだ。叔父と叔母に。
「そうだ! お医者さまから手紙を預かってるんだった!」
「……手紙?」
「うん! エリザが起きたら、渡してくれって言われてて!」
メグが戸棚を開けて、その中から便箋を取り出した。
それを私の前に差し出してきた。
受け取ると、ズシっという重さを感じた。
恐る恐る、その便箋を開けて、中を覗いた。
そこには、折りたたまれた一枚の紙と、鍵が入っていた。
紙を取り出して、開いた。そこにはこう書かれていた。
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治療の礼はいらない。その代わり、色々な人を助けてやってほしい。
急がなくていい。出来る限りでいい。
この鍵は、王都の住所のスウェン通り三丁目の十八の鍵だ。そこを住居として使うといい。
そこに書置きをしてあるので読んでほしい。
義手に関しては、誰にも譲らず、あなたが使いなさい。
色々な事が起こり、大変な状況だろう。
くよくよせずに、前へ進んでほしい。
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手紙は急いで書いたのか、殴り書きに近いような筆跡だった。
横から一緒に手紙を読んでいたメグが尋ねてきた。
「これって何なの? どういう事?」
「……私にも分からない。一体、なんなんだろう」
手紙と、残された鍵が鈍く光っていた。
もう一度、手紙の文章を見た。
『くよくよせずに、前へ進んでほしい。』
くよくよしない。
良い言葉だと思った。




