隣に住んでいるのは石川遼
1.隣に住んでいるのは石川遼
今年から国立大学へ進学するために福井を出て茨城の公営団地に住み始めた。東京や大阪みたいに華やかな都会へと行くなら福井から来たかいがあるものだが、いかんせん福井から茨城という、正直どっちも地味な県だから味がない。まあこうなってしまったのは勉強が出来なかった自分のせいだ。まだ現役で国公立大学へ進学できただけありがたいと感謝するしかない。だが一番感謝すべきなのは一人暮らしが出来る。ということだ。
東京で働く人のためのベッドタウンである茨城では、高度経済成長期に建てられた時代遅れの団地が何棟かある。学生としては古かろうが安さの面で補っているため、とてもありがたいのだ。
大学が始まる十日前。近所のスーパーで買ってきた洗剤を持って、引っ越しの挨拶をした。どれくらいすればいいのか分からなかったが、とりあえず自分が住む部屋の上下左右の部屋に挨拶した。上。下。左。の部屋には一人暮らしの高齢者や自分と同じ大学生らしき男、不況をもろに食らってそうなサラリーマンが住んでいた。そして最後、右隣、角部屋の挨拶に行ったときに初めて気づいた。
団地の表札に線の細いマジックで遠慮がちな文字で。
石川遼。
と書かれていた。
これにはさすがに驚いた。まさか自分の部屋の隣に石川遼クンが住んでいるとは思いもしなかった。そもそも彼は高校生だったか? もう卒業して大学生か? それともプロになるために学校に行ってないのか? というか何故茨城の古びた公営団地に住んでいるのか? といった謎が頭に浮かびながら、品のない音のする呼び鈴を押した。
悲しいかな、石川遼クンは不在だった。また今度いる時に渡せるように洗剤は玄関に置いた。
2.隣から聞こえてくるのはガンズ・アンド・ローゼズ
その夜。石川遼クンが帰ってくる気配がした。気配というよりはもろに足音と軋んだドアの開閉音が聞こえたのだ。
今から洗剤を持って挨拶に行くべきか。だが午後十時であること、帰ってきたばかりであることを考慮し、さらにいえば面倒臭かったという個人的な理由も添えて、挨拶に行くのを止めてしまった。また明日行けばいいさ。土曜日だし。
洗剤とともに買ってきたカップヌードルを作っていたときのこと。どこからともなく音楽が聞こえてきる。それもかなりハードなロック。どこからって何だ、隣の部屋からじゃないか。
石川遼クンはガンズ・アンド・ローゼズの「ウェルカム・トゥ・ザ・ジャングル」を薄い壁から漏れるくらいの音量で聞いていた。
遼クン意外にいい趣味してるな。ハードロック、八〇年代の洋楽。普段テレビで見せる姿とは違って、なかなか面白い奴だと思う。ただウェルカム・トゥ・ザ・ジャングルを三時間ずっとリピート再生させるのはちょっと堪える。だからドラマなんかで見ていた憧れの動作をしたくなるという急激な衝動に駆られ、右足で壁を蹴った。そうだ、福井の一軒家では壁を蹴っても誰も相手してくれなかった。蹴ったらすぐに収まった。だが逆に大音量でウェルカム・トゥ・ザ・ジャングルを流された。
もう諦めよう。
ベッドに入り込んだ時、はっと気づく。挨拶をしていないということは、隣の部屋に人が住んでいるということを知らなかったのでは? 隣には誰もいないはずなのに壁を蹴られたら、遼クンであってもビビると思うし、自分でもビビる。
まあ仕方ない。
あれだ。線路沿いに住んでいたり、海沿いに住んでいたりする人は、最初はその音に対して敏感になって夜中寝られないということがあるが、段々電車の走る音や波の音が子守唄に聞こえ、しまいにはその音がないと寝られなくなるらしい。
そういう風にとらえるしかない。
そのまま目を閉じたが、結局三時頃まで曲は流れ続けた。
3.隣から襲ってきたのは大泉洋
土曜日に新入生説明会があるというのは怒りが込み上げてくる。予定表を見て気づいたからよかったものの、ヴォーカルのアクセル・ローズの歌声が子守唄に聞こえるのは相当な奴じゃないと出来ないだろうということに気づいた昨晩のせいで、眠気がとれなかった。そんな中で結局一日がかりで説明会を終えて、途中で賞味期限が切れそうな半額弁当をスーパーで買った。
街灯が寂しく照らす道をとぼとぼと歩いて、自分の部屋がある三階の廊下を歩いていると、角部屋の前に誰かが立っていた。よく見ると自分より五歳くらい年上の女性だ。
石川遼クン、彼女いたんだ。
弁当を三階から放り投げたくなる屈辱感を押さえながら廊下を歩くと、女性が自分に気づいた。こっちを見て「ヒッ!」と驚き、一瞬硬直した後に、安堵の表情を浮かべて鍵を開けて部屋に入った。
何故自分の顔を見て驚くのか。
そんなに自分は怖い顔をしていたか、不審者に思えたのか。
石川遼クンの彼女が合い鍵を使って部屋に入ったことにも落胆し、自分の部屋の鍵を開け、玄関にしゃがみ込んでしまった。
せっかく茨城まで来たのに、情けないな。
ちょっと心の調子を整えよう。
だがさらにそこに追い打ちをかけるように、重たい鉄の扉を物凄い勢いでノックする音が聞こえてきたのだ。ビビりすぎていた自分でも今度は本気でビビった。どうやら石川遼クンの部屋をノックしているらしい。若い男の怒号が聞こえる。
「開けろ! お前がここにいるのはちゃんと知ってるんだよ!」
ガンズ・アンド・ローゼズだの男の怒号だの。もうやめてくれないかなあ。だけれどねちっこくドアをたたき続ける男に怒りを覚えた。
石川遼クンも悪くないし、勿論彼女も悪くない。だが男は悪い。
でも至極まっとうに、冷静に対処しよう。そして帰ってもらおう。十八の大学生でももう立派な大人だ。自分のことは自分でしないと。
ドアノブをゆっくり回し、重い鉄の扉をゆっくり開いた。廊下にいたのは怖いお兄ちゃんではなかった。見たことある顔だな。ああ、あれだ、大泉洋だ。大泉洋に似てるなあこの人。
「てめえ、何見てんだ!」
大泉洋に思い切り顔を殴られ、鉄の扉が後頭部に当たり、文字通り目の前が真っ暗になった。
4.隣に住んでいるのは石川遼part2
目を開けたとき、警察官が顔を覗き込んでいた。後頭部に鈍痛が残っている。
「大丈夫かあ。どこか痛くないかあ」
妙に語尾を伸ばすおじさん警察官に頭が痛い、と呟いた。
「そうかあ。ちょっと待っててなあ。今、救急車よぶでなあ」
視界の端っこに心配そうにこちらを見ている石川遼クンの彼女もいた。アパートの狭い廊下に担架が運び込まれ、自分が救急車にいとも簡単に乗せられる。全く訳が分からなかった。おじさん警察官に一言、
「何があったんですか?」
と聞くと答えてくれた。
「あの子、ストーカーの被害に遭っててなあ、そいつが君を殴ってしまったんだよお」
ストーカーって。
「どうやらあの子の元々の彼氏だったらしいよお。だけどストーカーになって何度も家に来るようになったらしいからなあ、そこにたまたま君が顔を出してしまったんだなあ。君もやっかいなことに首突っ込んでしまったなあ」
待ってくださいよ。だとしても彼氏の家に来るのはおかしいでしょ? 普通、彼女の家に行くでしょ?
「うーん? ああ、なるほどお、君もやっぱりそう読んだんだなあ」
読んだ?
「本人から聞くかあ?」
おずおずと彼女が救急車にやってきた。
「私、石川遼って書いて、はるかって読みます。石川遼です」
いしかわはるか……。じゃあ彼女は石川遼クンそのものだったのか。自分も不審者のように思っていたのは警戒していたためか。
「はい……」
だとすると何で、石川さんはあんなハードロックを?
「怖かったんです、小さな音がしただけでもあいつが来てそうな気がして。本当に、怖かった……」
石川遼クン、いや、石川遼さんは物凄いおびえた生活をしていたのだ。
自分は何も知らないで壁を蹴ってしまった。その時音量が上がったのも怖かったからか。
「まあ犯人もしばらくは出てこられないと思うからあ、ちょっとは安心だよお」
そういえば。石川さんにまだ挨拶してなかったですね。帰ってきたら挨拶に伺います。
「はい。待ってます」
そのまま、病院に行ったが幸い頭に大きなけがはしていなかった。警察で事情聴取をされ、解放されたのは翌日の朝だった。
まったくとんだ場所に来てしまったものだ。
担架に運ばれたため鍵すらかけてなかった部屋に戻ったときに、玄関に置かれている洗剤を見た。タイミングは最悪だけど、挨拶しても怒られないだろう。
外に出て隣の部屋にある品のない呼び鈴を、強く、押した。