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上野のおでん屋

作者: 向原 明

 うちのほうは、ほら、雪深いもんだから、ええ、ええ、そうそう、東北の片田舎でね。秋田に横手ってあるでしょう。あそこからさらに山奥に行ったところの三ツ又って言うの。聞いたことないでしょう。いぶりがっこの里なんだけどね。いぶりがっこ、わかります? ええ、ええ、そうそう。たいしたもんじゃないよ。つけもんだけどね。大根、まあタクアンみたいなやつをだね、煙でいぶして、ちょっと香ばしくしたやつなんだけど、そのいぶりがっこの村なんだけどね、誰も知らないよね。そこの先祖代々、由緒正しきドン百姓のせがれでさぁ、笑っちゃうよねぇ。小さな畑があったんだけど冬場は雪でなんもできんからね。おやじとおふくろ、兄貴とあたしの四人家族だったけど、食うに困ってねぇ。このまんまじゃあ、どんなに頑張って畑たがやしても、一生、水飲み百姓のまんまだなぁって。ずっーと、ずうっーと、貧乏から抜け出せねえなぁって。そんでもって、ほら、あたしは次男でしょう、百姓は兄貴がつぐし、おやじもおふくろも元気だけど年だしで、どっかに働きにでも行って、お金を家に入れてくれって言うのさ。まあ、口減らしだよね。そんな感じで最初は出稼ぎで上野に来たんだけどね。何回か来ているうちにこっちのほうが、だんだん良くなってきちゃってね。そりゃぁ、いいよ。なんてったって寒くないし。根津あたりに安い部屋、借りてね。とにかく少しでも給金のいい仕事を、日雇いでも何でも探しては次から次へとね。時代が時代だったからねぇ、喫茶店のボーイもやったし、キャバレーの呼び込みもやったなぁ。日雇いは電車の線路を敷く工事の仕事とか、あとは鉄屑屋でも働いたなぁ。仕事はたくさんあったから、なんとか食うには困らなかったけど、とにかく少しでも払いがいい仕事について、お金稼いで、田舎にもいくらかは送ってね。なんていうか、必死だったね。辛いとか苦しいとかは、どうだったかなぁ、あんまり考えなかった気がするねぇ。だって、みんなそうなんだもん。みーんなだよ。ここの上野あたりでうろちょろしてるやつなんざ、みーんな、あたしとたいして変わんないやつらばっかだったよ。長男でもなけりゃぁ、畑をつげないし、畑ついでもずっと貧乏なのは目に見えているし、だから田舎を飛び出てきたやつらばっか。行くとこがないから上野にでてきてね。もう、ここでやるしかないのよ。だから、辛いとか苦しいとか、そんなこと思うより前に、とにかく必死だったんだよね。みんな、生きていくのに必死だったんだよ。そんでもって、今はこうして、おでん屋さぁ。いいでしょう。えっ、本当におでん屋かって? どういうことよ、疑うのかい? へへっ、他にもなんかしてないかって言うの? なんだよ、おでん屋だけじゃぁ食えないだろうって思うのかい。そりゃぁねぇ、じつはいろいろとやってることはあるよ、でも、気持ちはずっとおでん屋だよ。おでん屋のまんま、って言うか、上野にでてきたときのまんま。えっ、そう言えば、なまりがないって? ああ、こっちじゃ東北出身なんて言ってないもん。なるべく気づかれないように、なまりも出ないようにしてるさ。馬鹿にされっからね。それに、もうかれこれ六十年くらいにはなるかな、出てきてから。さすがに自然と抜けてくよね、なまりも。


これだけ長くおでん屋、やっているとね。そりゃぁ、いろいろな人が来ますよ、本当に。一人でふらっと立ち寄って、おでんを二つ、三つ、静かに食べて帰っていく人もいれば、数人できて酒飲んで楽しそうに騒いで帰っていくグループも来るしね。最近では若いお嬢さん同士の二人連れなんてのも珍しくなくなったかなぁ。でもね、この間のお客さんだけは、最初からちょっと様子がおかしくてさぁ。ええ、ええ、そうそう。もう、あらかたお客さんもはけたから、そろそろ店じまいしようかっていう夜の十時半くらいだったかなぁ。年の頃はハタチそこそこ、二十代前半じゃねぇかな。まあ若者だね、きちっとした身なりの。ありゃあきっと、どっかの会社の新入社員かなんかじゃねえのかな。ちょうど四月だったし。桜はとうに終わったけど、夜になるとちょっと肌寒い日もあったりして、まだぎりぎりおでんでも食べようかって気になるかな、そんな日だったんですよ。若者がすうっと一人で、こう暖簾をくぐってやってきてねぇ……。


 へいっ、いらっしゃい。さあ、どうぞ、どうぞ、お好きな席に。お好きな席っつったって屋台なんで、そこしかありませんが。あっ、これ、あたしが初めてのお客さんに必ず言うやつなんですがね、笑ってもらおうと思って。でも、ウケないねぇ。ちっとも。ほんとウケた、ためしがない。でもまあいいや。そんでね、お客さん、今日はもう店じまいしようかってときだから、残りもんしかございませんが、それでもよろしいですか。えっ? 酒? 酒ならあります、あります、売るほどありますって。冷やでいいですか? じゃあ、はい、どうぞっ。


と言って、一升瓶からコップになみなみと注いだ酒を、お客さんの前にトンと置いたんですよ。すると、そのお客さん、黙ってコップを掴むと、こう、ぐぐつーと、一気に飲んじゃって、

「もう一杯、ください」

って。

 やたらと静かに言うもんだから、なんか不気味でね。たいてい、こうやって酒を煽るやつっていうのはね、おいっ、おやじぃ、もう一杯だ、なんて偉そうに言いやがってね、こっちがちょっとでもまごつこうもんなら、さっさとよこせ、みたいなやつが多いんだけど、そのお客さんは静かでね、なんていうか佇まい? そう佇まいが静かなのよ、若いくせに。そんでもって酒を飲むときは一気にこう、くうっーってね。変わってたよねぇ。雰囲気が。そうやって二杯目も空けちゃったもんだから、こりゃなんかワケありだなってピンときましてね。いやな予感がするなぁってんで、関わりたくないなと思って、さっさと店じまいしようと、お客さん、じつはそろそろ……って、言いかけたんですよ。そうしたらね。

「じつは、折り入って、お願いしたいことがあるんです……」

 と、来たもんだ。先手をとられちまったんだよね。しかも、

「警察に突き出していただけませんか」

 えっ? ケーサツ?

「むせんいんしょくです。お金が、ない」

お金がないっていうのは、聞き取れてわかったんですが、お客さんが言った「むせんいんしょく」ってのが、あたしの頭の中で「無銭飲食」っていう漢字にき置き換わるまでには時間がかかりましたよ。それでね、そのお客さん、あたしの右側の通りの奥の方にちらっと目をやったんですよ。そんときにね、ああ、なるほど、そういうことかぁ、と。このお客さんが、なんであたしの店、といっても屋台ですがね、を選んだのかがわかったんですよ。というのも、あたしはね、屋台を上野の繁華街からちょっと離れたところで、通りと通りが交差するところに出してるんですが、なんでわざわざそんなところかって言うと、すぐそばに交番があるんですよ。いや、一人で夜遅くまでやってるでしょう、酔っぱらったお客さんから難クセつけられたり、酔っぱらった客同士がケンカになったりしたときにゃあ、すぐにお巡りさんとこに駆け込めるようにってんで、この場所を選んだんですが、このお客さんは、うちの店が交番に近いもんだから、やって来たんだなって。だから、こりゃぁ本気だなってね。本気で無銭飲食で交番に突き出してもらおうって寸法なんだなと。ということはね、金がないんじゃぁないな。やっぱり、なんか別のワケがあって、警察の御厄介になりたいんだなと。あたしはしばらく、そのお客さんを見ていましたよ。警察に突き出して欲しいと言ったきり、口をつぐんでうつむいていたけど、なんか思い詰めているような感じというか空気が、こう両肩あたりからゆらゆらと立ち上ってくるような感じがしましたねぇ。

「……お客さん、どうしても捕まりたいのですかい」

 あたしが、そう聞くと、こくんと素直にうなづく、でも、うなづいたきり、なんも言わない。あたしにしたって、警察だとか、捕まりたいっとかって言われても、どうしていいのかわからないでしょう。だから、とりあえずね、場を繕う? 場をつなぐ? まあそこはどうでもいいけど、とにかくこのまま黙っていると、どんどん悪い方に話が行っちゃうような気がしてね、そうだ、おでんだって思ってね。お金がないってのは、本当のことじゃないようだし、どうせ残りもんだからいいだろうっていうのもあったし、てんで、

「もう、残りもんしかありませんが、おでん、いかがですか? ええっと、大根、玉子、それに……、ガンモ、コンニャク、ちくわに平天……、くらいならありますよ」

なんて言っちまったんですよ。言いながらね、なんだよ、あんがいしっかり残ってんじゃねえか、今日はあんまり売れなかったっけか? こりゃぁ、このお客さんに、どうせ無銭飲食だから、全部、いただきます、なんて言われたら、長ちりになっちまうじゃねぇか、しかも、金もとれねぇぞ、なんて余計なこと考えてね。余計なこと、これがいけないんですよ。あたしの、ほんと悪い癖。なんか、こう話が深刻になってくるとね、つい、どうでもいいこと思い出したり、関係ないこと考えたりしちゃうんですよ。ありません? そんなことって。やばいなってときほど、笑いが欲しくなるっていうか、くだらないこと考えちゃうってとき。このときもそうなっちゃいそうだなって思ったら、お客さんはちらっとこっちを見上げただけで、その後はだんまり。ああ、良かった。しおらしく、いえ、けっこうです、お腹空いてないです、とか言ってくれるかな、と思ったのもつかの間、

「じゃあ、せっかくなんで、いただきます」

 ほら見ろ、やっぱこうなっちまったじゃねえかよ。ぜーんぶ、タダで食われちまうぞ、大損だよ、どうすんだよ。それにしても、このヤロウ、お金ないですなんて言ってたくせに、せっかくなんでとは、いい根性してんじゃねぇかよ。ええい、仕方ねぇ、こっちも言っちまった手前、出さないわけにはいかねえからな。まずは、そうさなぁ、いちばん安いコンニャクからだ、ひとつずつ、ゆっくり出していきゃぁ、そのうち帰んだろう。そう思ってね、コンニャクをね、こう菜箸でつまんでね、皿に取ろうとしたんですよ。そしたらね、

「コンニャク、あんまり好きじゃないんで、玉子にしてもらっていいですか?」

 と来やがった。なにぃ! 玉子だぁ! なにナマ、言ってんだよ、コノヤロウ、うちの玉子は手間暇かけてんだよ、タダで食わすわけにはいかねぇんだってね、言いたいところでしたよ。でもね、こっちから、おでん、いかがですかって言っちまったもんだからね、仕方なくね、ほんとうに仕方なくね、玉子。途中で皿を引っ込めたりしながらね、というのは冗談だけど、しぶしぶ出しましたよ。玉子。ところがね、いやだねぇ客商売ってのは、いざお客さんの前に出すときになったらね、ついいつものように柚子胡椒までつけちまってね、うちの玉子は柚子胡椒で食べてもらうと格別なんですよ、なんて調子いいことまで言っちゃってるんですよ。すると、そのお客さんまで、

「そうですか、それは楽しみだ」

なんて、おいおいさっきのケーサツだ、むせんいんしょくだって話はどうなっちまったんだよ、と思っちまうようなことを言いながらね、玉子をこう箸で綺麗に半分に割って、そこに柚子胡椒をちょんとつけて、すっと口に運んだんですよ。そんでね、

「えっ、ええっ? うまい……、おでんの玉子ってこんなにおいしかったっけ?」

 なんて言いやがる。相変わらず、うつむいたままでしたけどね、なんか、嬉しいじゃないですか、むせんいんしょくかもしんないけどね、うちの玉子を食べたお客さんからこんなこと言われたんじゃぁ、ねえ。しかも、この若者、言われた通りに柚子胡椒をちょんとつけて食うところなんざ、素直なんだなぁってね。素直ないい子なんだろうなぁってね。そんなこと思ったら、わたしもね、なんかつい、悩みがあんなら、話、聞いてやってもいいかなって。そんな気持ちにもなっちまってね、だから、またまた、よかったらガンモや大根もありますよなんて、余計なことまで言っちまってね。

「じゃあ、ガンモ、ください」

「へいっ、お待ちぃ」

 なんて、普通のお客さんと屋台のおやじみたいにね、しばらくは、やってたんですよ。そんで、あれっ? なんでだったかなぁ、ふと気がついたら、そのお客さん、なんもない汁だけになった皿をじっと見つめててね。まだ、食い足りねえのかなとか思ったら、

「会社……、辞めたいんです」

 と。かいしゃ、カイシャ、会社……、かぁ。そこを辞めたいと。それと、さっきのケーサツとむせんいんしょくと、あたしの頭の中じゃ、どれもこれもが、どうにもうまくつながらなかったんでね、

「かいしゃ、ですか? 会社、ですよねぇ。そこを辞めるのに、なんで警察がいるんですかい?」

 って、聞いてみたんですよ。そうしたらね、

「会社、辞めますって、うまく言えないんです。会社の人の顔を見ると、言葉が出て来なくなってしまって。ここ、屋台だと言えたけど、会社に行ったらもうだめ。うまく、言い出せないんです」

 お客さんの声は小さくてね、相変わらずうつむいたままでしたが、わりとはっきりとは聞こえましたよ。聞こえはしたんですがね、あたしも何を言っていいのか、わからなくってね。黙っちまいましたよ。すると、

「警察沙汰にでもなれば、さすがに向こうからクビにしてくれるでしょう。だから、むせんいんしょく……」

 ときたもんだ。ちょっとだけ顔を上げて、笑ったような、泣いたような顔を見せてね、それっきり、またまた黙り込んで、汁だけの皿を見つめてましたよ。あたしはねぇ、なんだか急に昔の自分を思い出しちまったんですよ。田舎から出てきて、がむしゃらに働いて、気がつきゃ六十年でしょう。仕事を辞めたいとか、悩んだり考えたりする暇はなかったなぁって。そんな時代と今とを比べるわけにはいかないんでしょうけどね、なんか、今の若い人たちは大変なんだなぁって、あたしたちのときのほうがあれこれ考える暇もなかったぶん、なんか、良かったんじゃないかなって思えてね。まあ、そんなことぐらいしか思い浮かばないから、話を聞いたって気の利いたことは何ひとつ言えやしないでしょうが、まあ、もう少しくらい話を聞いてあげたほうがいいのかなってね。そう思って、できるだけ差しさわりのなさそうな話題にと、そうだ、名前だ、まだ名前を聞いていなかったってね。

「お客さん、お名前は、なんとおっしゃるんですか?」

「山崎です」

「山崎さん、見たところ、お若いですよねぇ、ハタチそこそこじゃあないですかい? 新入社員さんかなと思いましたが」

「はい。大学を出て、この四月から社会人になりました」

「そりゃぁ、まだまだ人生、先は長いですねぇ」

 あたしは、一升瓶を手にとって、お客さんのコップにまた酒をなみなみと注いでやったんですよ。

「どうぞ、安い酒ですが、お飲みになってくださいよ。お金のことは心配しなくていいですよ。ここで無銭飲食しても、たかが知れてるし、あたしはあんたを突き出したりしませんし」

「それじゃあ、困るんです。お酒はいただきますから、しっかりと突き出してください……」

「まあ、そこは後から、とりあえず飲みながらでも考えましょうよ。腹が減ってるなら、まずは食う、酒が飲みたきゃ、まずは飲むってこったぁ。ねえ、そうでしょう。腹が減ってたり、酒が飲みたいなってときに、我慢してあれこれ考えたって、ろくな答えは出ないもんだ」

 そう言うと、お客さんは黙って、コップを口に運びました。今度は勢いにまかせて一気に煽るんじゃなくて、ちびっとね。唇を湿らすくらいにちびっと、そんな飲み方でした。そんでコップを置くと、

「……ボクは、どうすればいいんでしょうね」

 とポツリ。

あたしはね、おでん鍋の下の方にあった、最後のコンニャクをね、そっと掬って皿に盛って、山崎さんの前に置いたんですよ。こういうとき、どうすればいいかってことは、自分で考えるしかないでしょうよ。なんと言っても、自分のことですからね。そんなことは、このお客さん、山崎さんだってわかっている。それでも、あたしにどうしたらいいんでしょうって聞いて来るってことは、やっぱり悩んでいるんだなぁって。会社の人に辞めますって言うくらい、どうってことないだろう、そのくらい自分でなんとかしろって言うのは簡単だし、本来はそうなんでしょう。でもね、世の中には、そうもいかない人もいるってことなんでしょうね。そんなことを考えていたらね、

「……じゃあ、練習してみたらどうですかい?」

どういうわけか、あたしの口をついてでたのは、そんな思ってもいなかったことだったんですよ。練習するって言ったって、いったい何を? という感じですよね。山崎さんもそう思ったらしく、顔を上げると、

「練習? ですか」

と目を丸くしていましたね。

「そうです。練習ですよ。会社、辞めますって、言う練習でさぁ。ここで。屋台なら言えるってさっき言ったじゃぁないですか。だから、ここで練習して、明日、会社に行ったら、練習した通りにやってみるってのはどうです?」

山崎さんは箸を持ったまま、ぽかんとあたしを見ました。

「お客さんは、山崎さんだけだし、ねえ、ちょうどいい。そうだ、そこにあるコンニャクを上司、課長さんくらいがいいですかね、だと思って、なんならさっき食った玉子でもガンモでも、大根でもいいさね。玉子部長にガンモ常務、大根はそうだな社長ってとこかな、会社の上役をみんなおでんに見立てて、ひとつ、ガツんと思っていることをぶちまけてみたらどうですか?」

そう言って、あたしは、山崎さんの前にあるコンニャクを指さしましてね、さあ練習だ、練習だって。上司って言ったって、いろいろな人がいるでしょう。そりゃ、会社ですからね。なかには、それこそコンニャクみたいに腰くだけで、周りからなんか言われるとすぐにあっちこっちと方針をころころ変えたり、決めたことをやめちゃったりするやつもいるでしょうね。そんなやつのことでも思いながら、コンニャク課長を相手に練習しましょうって言ってみたんですよ。そうしたらね、山崎さん、最初は少し戸惑っていたみたいですが、コンニャクをじっと見つめながらね、

「課長、お世話になりました。辞めさせていただきます」

 って。それが、どうにも真面目くさくってね、あたしは思わずぷって、吹き出しちゃったんですよ。本人はいたって真面目なんだし、そもそも練習をけしかけたのはあたしなんだから笑っちゃったのはまずかったな、怒りだすかなって思ったら、山崎さんもなんかこう、ちょっと照れ笑いみたいのを浮かべてね、

「なんか、やっぱ、意外に難しいですね。コンニャク課長に言うのは」

 なんて言いましてね。いいじゃん、いいじゃん、そんな感じの笑顔が欲しかったんだよ、そう来なくっちゃと思って、あたしもね、いつものように調子に乗っちゃってね、

「だめだめ、そんなお通夜みたいな顔で言ったら、相手から辞めないでくれって、泣き落としにあって終しまいだよぉ。もっとこう、はっきりと、ここ腹の底から大声をだすつもりでさぁ」

 と腹を突き出しながら言いました。すると今度は山崎さん、少しは酒の勢いもあったのですかね、いきなり立ち上がってね、真上からコンニャクを、こうにらみつけてね、

「課長っ! 私は辞めますっ! 誰が何と言おうと辞めてやるっ、明日から来ません、来たくありません!」

大声を出したんですよ。いやー、驚きましたね。やればできるじゃないですか。

「いいねぇ、いいよ、その調子だ。ほら、玉子部長にも言っとけ!」

「部長っ! お世話になりましたっ。会社、辞めます!」

「ついでだ、ガンモ常務も言っとけ!」

「常務ーーっ! お世話になりましたっー!」

 そのころには、山崎さんも半分、笑いながら叫んでましたよ。そんでもって腹の底から声出したからか、顔が赤くなっててね、肩で息しながらドカッと腰を下ろしたんですよ。あたしは、また一升瓶を持って、山崎さんのコップにちょっと酒をつぎ足してね、あたしにもコップを出して一杯、注ぎました。

「少しは、気が楽になったんじゃないですかい?」

「……。はい」

 その言葉を聞いてね、あたしは自分のコップをこう前に差し出して、山崎さんもそれに気づいて、自分コップを前にだしてね、チンと。

「明日、ちゃんと言えそうですかね。今の調子で。明日は、コンニャクや玉子じゃなくて、本物の課長さんや部長さんですよ」

山崎さんは、またコップで唇を少し湿らせると、ゆっくりとうなずいたんです。でもね、そこで、またまた真顔になってね、こう言ったんですよ。

「やっぱり、なんで辞めるのか、理由がないとダメなんですかね」

 これには、なんとも言えませんよね。辞める理由、辞めたい理由ですよね、こりゃあ人それぞれでしょうし、なんとも……、なんて考えていたら、

「聞かれるような気がします。いや、以前にも聞かれたことがあるんです。キミは何かやりたいことはあるのか?って。だから、辞めますって言ったら、『理由はなんだ』、『やりたいことは何なんだ』って言われるでしょうね」

「それで、山崎さんは、どうなんですかい? なんかやりたいことはあるんですか」

「それが……、ないんです。辞める理由も、やりたいことも、探したい、見つけたいけど、見つからないんです」

 山崎さんは、そういうと、もう一回、コップで唇を湿らせると、そのままうつむいてしまったんですよ。あーあ、困ったなぁ、せっかく練習がうまくいって、これで店じまいして帰れるかってときだったのに。辞める理由、やりたいことが見つからないって言われたって、そんなもん知るかって、思いますよね。思いませんか。だって、そんなの……、ん? そんなもんは、自分が……、ん? あたしは、そんとき、自分が上野に出てきたばかりの頃のことを思い出したんですよ。そう言えば、あたしにも、そういうことに悩んだ時期があったなぁ、とかって言うんじゃなくてね、むしろ、その反対、真逆、あたしはまったくそんなことに悩まなかったなぁってね、思い出したんですよ。それでもってね、なんであたしは悩まなかったのかなって。そんなことを思い出していたらね、気がついたら、

「ねえなら、ねえで、いいんじゃないですか」

 って言っていましたよ。山崎さんは、さっきまでとはちょっと違った真面目な顔をしてね、じっとあたしの目を見ました。

「なくても……、いいんですかね」

「やりたいこととかってのはね、あたしが思うに、目の前のことをとにかくやり続けているうちに見つかるもんじゃあないんですかね。仕事をしてみる、辞めてみる、また探して働いてみる、そうやって毎日、必死に世の中に流されないようにしがみついているうちに、ふとしたことから見えてくる、これだって思えるときが来る、そういうもんじゃないかと思いますよ」

「……なんか。やっと自信を持って『仕事、辞めます』って言えそうな気がします」

「そうですかい。じゃあ、明日は、コンニャク課長かガンモ部長の顔を思い浮かべて、どーんと言ってやんなよ」

「はい、どーんと」

 山崎さんは、そう言うと勘定を払おうとしたのか、ポケットを探ってましたけど、それはこっちから、いいよ、今日は、おでん屋のおごりだよってね。山崎さんは、「すみません。ごちそうさまでした」と、これまた丁寧に礼を言うと、深々と頭を下げて、夜の上野の街中に消えていきましたよ。あたしはその背中を見送って、鍋の火を落とし、暖簾をたたんで、店じまいを始めました。すると、それが合図だったかのように、一台の大きな黒塗りの車がすっーと近づいてきてね。まあ、この通りには場違いなほどでかい車だなぁって、思ったら、中からがっちりした男がでてきてさぁ、

「会長、お帰りが遅いので奥様が御心配されています」

「ああ、もう帰るよ。先に帰ってそう言っといてくれ」

 そういえば、本当におでん屋ですか?って疑っていましたでしょう。ええ、もちろん正真正銘のおでん屋ですよ。そんでもって上野に本社のある飲食チェーンの会長でもありますがね。必死で世の中にしがみついて、がむしゃらに働いていたら、神様がみていてくれたのかねぇ、ひょんなことから屋台のおでんが評判になって、店を構えたらそれも当たってね、気がついたらおでんだけじゃなく、牛丼やらカレーやらも食べられる店を何店舗か経営していましたよ。でもね、今でも昔のことが忘れられなくてね。必死でやっていたときのこと、それは忘れたくても忘れられない。いや忘れちゃぁいけないんだよね。だから、こうして屋台をひいているんでさぁ。

そうそう、それから山崎さんね、三日くらいたった晩だったかな、来ましたよ。いつものようにおでんの屋台を出して、鍋の火を落ち着かせていたら、背広姿の男が一人、すうっと暖簾をくぐってきてね。

「こんばんは」

 見りゃあ、山崎さんです。

「おう、山崎さんじゃないか。あんた、この前ちゃんと言えたのかい?」

 あたしがそう聞くと、山崎さんは一度、深呼吸してから笑いました。

「はい。玉子部長……、いや、本物の部長に、言いました」

「おお、それで?」

「最初は引き止められました。でも、この前ここで練習したとおりに、はっきりと言いました。辞めますって」

 その言い方がちょっと得意げでね、あたしは思わず笑ってしまいました。

「そしたらですね……、部長、しばらく黙ってから、『わかった』って」

「ほう……、わかったか」

「ええ。なんか、肩の荷がすーっと下りました。部長も、そうか、キミの人生だからなって」

 山崎さんはそう言って、コップを受け取りました。酒を一口飲んで、ほっとしたように肩を落とします。

「で、次はどうするんだい?」

「しばらく休んでから、また働こうと思ってます。今度は、自分がちゃんとやりたいと思える仕事を」

 あたしはうなずいて、鍋から玉子を一つ掬って山崎さんの皿に置きました。

「そいつはいいな。働くってのはな、やらされるもんじゃなくて、自分でやるもんだからな」

 山崎さんは箸を止めて、ふと笑いました。

「この玉子……、部長ですよね」

「そうそう、玉子部長だ。今日は送別会だ、しっかり味わえ」

 二人して声を出して笑いましたよ。気がつけばもう四月も終わりの頃でしたよ。そろそろ、おでんの屋台もシーズンオフになりますねぇ。次は秋頃かな、秋風が吹くようになったら、また、ここに屋台、出しますよ。それじゃあ、また。



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