【第9話】暴かれる仮面
圭吾の顔には、もはや余裕の影もなかった。
青白い顔。震える唇。乱れたネクタイを直す余裕すらなく、彼はわたくしの前に立っていた。
応接室の扉を閉める音も聞こえないほど、部屋の空気は張り詰めている。
「麗奈……もう、時間がない。お願いだ。結婚してくれ」
言葉は、命令というより懇願に近かった。
いつかの自信家の声色ではない。
だが、彼の目には、まだ「自分ならなんとかなる」という慢心が滲んでいた。
「全部、台無しになる前に……僕を受け入れてくれれば、まだ引き返せる」
わたくしは、しばらく彼を見つめ、それからゆっくりと立ち上がった。
「圭吾さん、あなたがどんな状況に陥っているのかは、よくわからないわ。でも……」
胸の奥にある感情を、静かに言葉に乗せる。
「わたくしは、白鷺鉄工を守る。それは、わたくしの家族と従業員の未来を守るって意味。けれど、それがあなたの所有物になるって意味じゃない」
圭吾の眉が跳ね上がった。
「何を言って!」
「わたくしにとって『守る』って言葉は、誰かを支配することじゃないの。……あなたとは違うのよ!」
ぐっと、言葉を詰まらせた圭吾に、もう何も言うべきことはなかった。
そのとき、扉が開いた。
「……もう、やめてください」
静かな声。
けれどその声音には、強い決意が込められていた。
如月直人。どこまでも沈着で、理知的で、冷静な……わたくしの執事が、ゆっくりとわたくしの隣に立った。
「俺は……麗奈さんが泣く姿を、もう見たくない!」
淡々とした声。けれどその言葉は、わたくしの胸を鋭く貫いた。
かすかに震える心が、次第に温かくなるのを感じた。
「ふざけるなッ!」
圭吾が声を荒げ、拳を振り上げた。
直人に向かって、怒りと絶望の全てを叩きつけるように……
だが、拳は空を切った。
直人はほんの一歩、自然に身をかわしただけだった。
まるで、相手の動きを完全に読んでいたかのように。
「……庶民でも、お嬢様を守る方法くらい、ちゃんと持ってるんで」
圭吾は呆然としたまま、拳を握り締めていた。
勝ち誇るでもなく、威圧するでもなく、直人は静かに言葉を重ねた。
「あなたの築いたものは、誰かを踏みにじることで積み上げた虚構にすぎない。けれど俺たちは、守るべきもののために、誇りを持ってここに立っている」
沈黙が落ちた。
圭吾は、その場に膝をついた。
指の隙間から、ぽたり、と床に落ちたのは、涙か、汗か、それとも……
「……バカな……『フェブラリー・ノート』様の『弟子』である僕が、負けるなんて……こんな、はずじゃ……」
声はしだいに掠れ、やがて力を失った。
もう彼の背に、かつての威圧感はない。
ただ野心を削がれ、虚しさだけを抱えた男が、そこにいた。
「……お引き取りください、橘圭吾さん」
わたくしの言葉に、彼は一度だけこちらを見た。
その目にあったのは、怒りでも憎しみでもなく……ひどく、空っぽな諦念だった。
そして彼は、立ち上がることもなく、そのまま退室していった。
静かに、静かに、扉が閉じる。
わたくしは、ようやく息を吐いた。
直人の方を向くと、彼は微笑んで小さく頭を下げた。
「お疲れ様でした、お嬢様」
その言葉に、初めて……わたくしは、涙をこぼしそうになった。