第71話 雪代家の温泉旅行
夏休みもあと1週間ほど。今日は雪代家の温泉旅行だ。家族として迎えられているのだから俺も付いていくのは決定事項で、今更どうこう言うつもりもなかった。拒否する事は失礼に値すると思う。家族で温泉旅行なんて行ったこと無かったな。楽しみだなあ。
雪代家の車に乗るのは初めてだ。美咲さんの運転はどんな感じだろうか。めっちゃ飛ばしたり煽ったりとかは無いよな……。
車庫から車を出す美咲さん。何気に車を見るのも初めてだった。
「うお、黒くてでかい……」
仕入れに使っているワゴン車だ。黒いボディーにフルスモーク。マイルドヤンキーな雰囲気だ。美咲さんらしいのかな?
「言っとくけど私の趣味じゃないからね。知り合いが安く売ってくれたんだよ」
そう苦笑する美咲さん。元ヤンと言っても今は全くヤンキー感は無いからな。いつも優しくて綺麗で憧れるってイメージだ。
「お母さんの友達ってまだそういうの引きずってる人結構いるんだよね~。でも、この車だと快適だよ! 広々してるし道あけてくれるし」
まあこの車に近づかれたら警戒するだろうな……。
荷物を積んでいざ出発。前列3人乗れる仕様だけど補助シートなので乗り心地はよくなさそう。でも、羽依が乗ってみたいとのことだった。車酔いするのに大丈夫かな。
「うわ、乗り心地悪い……。お母さんには悪いけど、蒼真、後ろ座ろ?」
「あはは! 後ろに座ってたほうが良いよ。羽依は左見る時、一緒に左見るからね。いつも頭が邪魔なんだよねえ」
「だって気になっちゃうんだもん。サービスエリアについたら移動しようね」
「はいはい。それより羽依、髪の毛どうかな?ちゃんとセットできてる?」
ヒデキさんに言われたように髪のセットを一人で練習してみたが、やはりプロのようには上手く行かず、難しかった。
「ん~、最初の日はすっごくカッコよかったけどね。今は、まあ普通? 悪くないよ。大丈夫大丈夫」
まったく褒めて無さそうな羽依の言葉。
やっぱり美容師マジックは半端じゃ無かったようだ。イケメンになれたと思ったのに。残念……。
美咲さんの運転はとても丁寧だ。高速に入ってからも飛ばすこともなく安全運転を心がけていた。
「美咲さんの運転する車に初めて乗ったけど、何て言うか、上手だね」
「ね、丁寧でしょ。私が車酔いするからかな」
「急いだって良いことなんて無いんだよ。焦らずのんびりでいいさ」
けらけらと笑って答える美咲さん。旅行の時にも羽依は車酔いするって話を言ってたけど、結局酔わなかったな。運転手の技量で変わってくるものなのかもな。その点から言えば燕さんと美咲さんは間違いなく運転が上手なタイプだった。
「蒼真は私がもっと飛ばしそうとか煽りそうとか思ってたんだろ?」
冗談ぽく美咲さんが言ってくる。
「どうかなって思ったけど、めっちゃ快適ですよ」
「やっぱりちょっとは思ったんだな! まあ、そんな時期も確かにあったよ。でも色々分かってくるんだよ。安全第一ってね」
いろいろな経験を踏まえてなんだろうな。そのおかげで今は快適なドライブを楽しめている。羽依も酔うことなく、ずっと楽しそうに喋っていた。
車に揺られること約4時間ぐらい。のどかな田園風景が広がってきた。高い山々が周囲に広がるのを見ると、ああ、旅行に来たんだなって実感する。
下道を走っていくと如何にも温泉街って雰囲気の町並みが見えてきた。
「ナビは便利だねえ。そこを曲がったところが今日のお宿だ」
カーナビの「目的地に到着しました」のアナウンスが流れた。駐車場に車を停めて表に出る。
新鮮な空気に硫黄のほのかな香り。夏だけど、標高が高いせいか、今日は幾分涼しく感じる。温泉に浸るにはまずまずのコンディションだ。
荷物を下ろし宿に向かう。時間は丁度15時。チェックインの時間だ。
「すごいねお母さん、スケジュールは完璧だね」
「ふふん、正直言えばもうちょっと早起きしたかったけどねえ。土曜の早起きはやっぱ辛いよ」
「夜遅くまでお疲れ様です。温泉でまったり癒やされましょう」
美咲さんがニコッと微笑み、俺の肩をぎゅっと抱き寄せた。柔らかな感触に思わずドキッとする。
「蒼真は優しいねえ。ついでに背中でも流してもらおうかね。そうだ、家族風呂の予約をしておこうね」
「さすがお母さん。そつがないね」
美咲さんの提案に羽依がうんうんと頷く。家族風呂は確定かあ。また俺は試されるのか……。
鄙びた雰囲気の温泉宿だ。
フロントで予約の確認をし、宿帳に名前を記入する美咲さん。
よく見ると、俺の名前が「雪代蒼真」になっていた。
美咲さんがニヤッと笑っていたのが印象的だった。
建物の外観は落ち着いた木造づくりで、軒先には風鈴が涼やかな音を響かせていた。
中に入ると想像以上に綺麗で、磨き上げられた廊下に面した中庭は、手入れの行き届いた苔庭と静かに流れる小川が配され、一枚の絵のように美しかった。
仲居さんの物腰は柔らかく、丁寧な所作に思わずこちらも背筋が伸びる思いがした。これは当たりの宿かもしれない。
「こちらのお部屋になります。」
広々とした和室で、窓際には広縁があり、椅子とテーブルが置かれた一般的な旅館タイプの部屋だった。障子越しに差し込むやわらかな日差しが、部屋の温かみをさらに引き立てている。
窓から見えるロケーションはとても素晴らしく、高い山々が見渡せた。秋にはきっと紅葉が見事だろうな。
和室のテーブルには温泉まんじゅうが置いてあった。お湯の入ったポットもあったので、早速羽依がお茶を入れ始めた。
「いい部屋だね~! これは当たりかもね。この宿狙ってたの?」
「いや、空きが出来たらどこでも良いって思ったんだけどね。運が良かったみたいだねえ」
美咲さんが嬉しそうに温泉まんじゅうをパクリと頬張る。運転で疲れた体にはきっと染みるような甘さだろうな。
俺もパクリと頬張る。薄皮の中にたっぷりのあん。黒糖の風味がした。これは美味い。温泉まんじゅうも当たりだった。
羽依もとてもいい顔でパクパク食べてる。
「めっちゃ美味しい! これは帰りに買っていこう。真桜におみやげだね。絶対喜ぶと思う」
「真桜なら間違いなく喜ぶだろうね。いっぱい入ってるやつにしよう。ついでに燕さんのお店にも持っていこうかな。この前お世話になったお礼したいし」
自転車という翼を手に入れた俺はどこまでも行ける気がした。
一息ついたあとに、みんなで浴衣に着替えて温泉街を散策する話になった。
なんで旅先の町並みって、こんなに胸が高鳴るんだろう。
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