第60話 旅の余韻から日常への回帰
旅の余韻を引きずりつつも数日が経過した。今日はキッチン雪代のランチタイムは断水の為お休みだ。昼前から羽依が来るので、それまで筋トレに励もう。
旅行から帰ってきてから、トレーニングの負荷をより一層増していた。端的に言えば感化されたのだ。
プールで見た隼の筋肉は、男から見ても見惚れてしまう。あれから比べると鏡で見る自分の身体は、やはり線が細いように感じてしまう。
ただでさえ魅力的な彼女と付き合っているんだ。少しでも釣り合いを取れるようになりたかった。
まずはジョギングを10kmに増やした。夏の暑い時間を避けるためには早朝から走らなくてはならない。
それと、隼のトレーニングメニューは下半身重点だった。バイトで役立つようにと考案してくれたものだったからだ。そこからさらに追加メニューをリクエストしたら、隼もノリノリでトレーニングメニューの改訂版を長文で返してくれた。姉弟そろって筋肉好きなんだな。
「はあ……、はあ……、しぬ……」
すべてのメニューを終えると、息は絶え絶え、膝はガクガク、体はぼろぼろになるかと思った。負荷やばすぎる。入念にクールダウンを行い、気づいたら時計は10時を回っていた。そろそろ羽依が来る頃だ。今日はうちで勉強することになっていた。
大汗かいたので急いでシャワーを浴びよう。
——何気に昼のシャワーも光熱費が馬鹿にならないよな。
バイト代だけでは生活するのはやはり困難だった。
親の仕送りが途絶えるという事を最近は真剣に考えている。
最悪の事態か……。
——いかんいかん。ネガティブ思考になると気持ちが沈んでいく。今からとびきり可愛い彼女が来るんだ。
旅行中の羽依を思い出す。豊かな自然に目を輝かせたり、喜んだり、感動したり。少し思い出しただけで心がほわっと暖かくなってくる。彼女ってすごい。
シャワーを済ませ、頭を拭きながらバスタオルを腰に巻いた姿で洗面所を出ると、すでに彼女が居た。
「なあに、蒼真。その格好。襲われたいの?」
にちゃあっと、とても悪そうな表情で俺のバスタオルを剥がしに来た。
「きゃあ、羽依さんのエッチ!」
慌てて洗面所に避難する俺。
——いやあ、油断した。考え事に意識が完全に持っていかれてた。
とりあえずパンツとシャツは洗面所に持ってきてあったので着替えてから出た。
「んふ、風呂上がりの蒼真はとてもセクシーだよ。ちょっとパンツみせてごらん」
そういって俺のTシャツを捲るセクハラおじさん。もとい彼女さん。旅行の余韻が残ってるようで、ここ数日ずっとテンションが高いままだ。
まったく……。ちょっとだけ懲らしめてやろう。
「羽依、セクハラをするものはセクハラをされる覚悟があるものだよ」
「蒼真がセクハラするの? ……興奮しちゃう。どんなことするの?」
興奮しちゃうのは逆効果だなあ。でも俺は知っている。こういう時の羽依は強がっているだけだ。
「えい」
羽依の豊かな双丘を人差し指でついてみた。ふわっと沈み込む感触にむしろ俺のほうが動揺した。
「ひゃん! だめ! 蒼真、それはレギュレーション違反!」
顔を真っ赤にして怒られた。——ちょっとやりすぎたか。
羽依の線引きはなかなか難しいなあ……。
「まったく……。そういうのは雰囲気を大事にしないとだめだよ」
「ごめんね……」
ぷりぷりしている彼女を宥めて勉強を始める。ちょっとした理不尽さは彼女の魅力だ。——魅力なんだってば。
勉強をしているときの羽依の集中力は本当にすごい。
俺もこの時間は気を抜けない。もはや“彼女”というより、“最強の家庭教師”だ。
彼女のやり方は、テキストに一貫性のある色分けでマーカーを引いていて、 重要語句だけでなく「出題されやすいポイント」までメモされていた。
ノートも、余白を広めに取って、復習時に書き足せるようになっている。
あとで振り返ったときに、もう一人の自分が教えてくれるようになってるらしい。
問題集も、答えを覚えたら終わりじゃなく、ミスした理由に印をつけて、同じ間違いをしないようにまとめていた。
一つひとつのやり方に、ちゃんと目的がある。
その考え方を聞くだけで、もう学びになるレベルだった。
聞けば、何でも丁寧に教えてくれるし。ありがたいな、ほんと。
時間を忘れて勉強に没頭していた。気がつけば時刻は昼を過ぎる頃だった。
「羽依、お昼はチャーハンどうかな。さっと作れるし」
「いいね! 丁度食べたいと思ってたんだ。じゃあ私はサラダ用意するね」
「レタスで巻いて食べるのも良いかもね。冷蔵庫に入ってたと思ったからそれを洗ってね」
冷凍ご飯を解凍し、チャーハンを作り始める。羽依はレタスをちぎり、水で洗ってキッチンペーパーで水気をとる。
「こうして葉脈を潰すように水気を取ると巻きやすくなるんだよ」
「へえ~。それは良いね。そのままだとちょっと巻きづらいしね」
アパートのわりに火力のあるコンロでチャーハンを炒める。でも、お店の火力を味わうと物足りなさを感じるなあ。
運動の後だからタンパク質も取りたいところだ。豚の角切り肉を惜しみなく投入!
肉の焼ける香ばしい香りに食欲が増してくる。
となりで羽依がじっとチャーハンを見ている。腹ペコっぷりが伝わってくるようだ。
羽依の方を向くと、眼と眼が合った。彼女が不意打ちのように、チュッとキスしてきた。可愛いなあホント……。つい顔が緩んでしまう。
羽依は中華だしを使って簡単なスープを作っていた。ほぼ同時に出来上がった。さすが羽依。できる子だな。
「いただきまーす!」
器用にチャーハンをレタスに包み、とびっきりの笑顔で一口目を頬張る。とても美味しそうな表情に、こっちの顔も思わずほころぶ。
「お肉いっぱい入ってるね! レタスに巻いて食べるとおいしー!」
「中華スープの卵のふわっとした食感がたまらないね。めっちゃ美味いよ」
幸せな時間だなあ……。
「——羽依って勉強めっちゃできるけど、元は誰かに教わったりしたの?」
「うん、お母さんだよ。ああ見えてすっごい頭いいんだよ。高校中退しちゃったけどね。実は勉強継続してるんだ。いつか大学に行って学び直しするのかもね~」
「ああ見えてって……。美咲さん頭いいのはすごく分かるよ。羽依のお父さんの影響もきっとあるのかもね。でも、何かすごく良いね。向上心があるのってさ」
「うん、大人になってからの方が勉強楽しいんだって。受動的に勉強するよりも意欲がある時にやる勉強のが楽しいんだろうね」
美咲さんが神凪学院の特待生って話は聞いていたから学力は相当あったのは間違いないと思う。でも、今でも勉強してるって聞くと、改めてすごいなって思う。
「でも、今お母さんの一番の興味は旅行みたい。うちらの話を聞いてからずっとそわそわしてるよ」
「美咲さん旅行好きみたいだもんね。羽依が初めてうちに泊まっときも確か旅行中だったよね」
「そうそう! 温泉好きなんだよね~。町内会の旅行なんて年寄りしか行かないのに、付いて行っちゃうんだからさ」
——ティロリーン
羽依のスマホに着信音が鳴った。
ちょっとの間ぽちぽちやり取りをしていた。そして、興奮気味に俺の方を向く。
「——蒼真、家族旅行だって。温泉旅行だよ! 8月4周の週末に予約取れたんだって! やったね蒼真!」
「やったねって、……その家族って俺も入ってるの?」
「もちろんだよ! ——いけるよね?」
羽依が上目遣いに俺を覗いてくる。特に用事がない俺は、断る理由も無かった。
「行って良いなら。——よろしくね」
「やったー! 夏休みの楽しいことがまた増えた! 嬉しいな~」
「——俺も、ホント嬉しいよ……」
——家族だって。俺を家族と見てくれてるんだ。なんて嬉しいんだろう。——ありがとう。羽依、美咲さん……。
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