第32話 親友
土曜日の午前中。雪代家での朝食を終えた後、俺は一旦アパートに戻った。今日から真桜が鍛えてくれるって話だ。まずは真桜にLINEを送ろう。
蒼真「おはよう。今日はよろしくね」
真桜「おはよう、何時からくる?」
蒼真「今からなら何時でも行けるよ」
真桜「じゃあうちで昼ご飯用意するわ」
蒼真「そりゃありがたい。じゃあ今から行くよ」
最後に可愛らしい猫のOKスタンプが届いた。
うちから歩いて40分ほどと自転車が欲しくなる距離だ。
毎週行くなら自転車買おうかな。あれば便利だし。
でも通学には使わない。羽依と一緒に歩いて行くのが楽しいから。
動きやすいジャージに着替えてキャップを被り、散歩気分で向かう。初夏の蒸し暑さが結構堪える。今日は真夏日だ。アスファルトが焼けるような匂いが立ち込める。快適な散歩ではないけど、暑い日差しは嫌いではなかった。
ほどなくして真桜の家に着いた。相変わらず物々しい雰囲気の門構えだ。
ピンポーン
「いらっしゃい蒼真。上がってね」
ドアホン越しに真桜の声が返ってくる。
玄関を開けると、彼女が待っていた。
髪を後ろでひとつにまとめ、ノースリーブにハーフパンツというラフな家着。
涼しげで夏らしく、いつもの清楚さは失わず、それでいて健康美な装いだった。
居間へ案内する彼女の後ろ姿に、ふと目を奪われる。普段は見えないうなじが、妙に色っぽく感じられた。
「どうぞ、お昼はそうめん茹でるから一緒に食べましょう」
「今日は真桜一人なの?」
「お祖父様は会合に行ってるわね。もしかしたら帰って来るかもしれないわ。会いたかった?」
目元に笑みを浮かべた真桜が、からかうように言葉を投げてくる。
「理事長様だからね、粗相をしては大変だ。緊張しちゃうよ」
「でしょうね。お祖父様、男友達が来てるって知ったら、日本刀持って追いかけてくるかもしれないわよ」
「お邪魔しました!」
逃げようとしたところで、真桜に首根っこを掴まれた。
「逃げないの。冗談よ。もう蒼真のことは話してあるから」
「ええ……なんて言ったのさ?」
「門下生が一人増えると」
「え……門下生になれたんだ。わーい……」
全く俺の知らないところで俺の命運が決まっている。解せん。
真桜がそうめんを茹で上げて居間へ運んできた。
サイドメニューは冷やしナスと冷やしトマトに鶏むね冷しゃぶ。食べる前から美味しい。
薬味は長ネギにミョウガ、刻み海苔に生姜と梅肉まである。どれも食欲をそそる絶妙なチョイスだ。
ミョウガは特に好きだったりする。
ただ、そうめんの量がえげつない。どれだけ茹でたんだ……。
「真桜、どれだけ茹でたのさ?」
「二袋だから600gね。このぐらい食べるでしょ?」
「いやあ……食いきれるかな」
「お残しは許しません」
真桜の圧がすごい。笑ってるけど、目が全然笑ってない。
……これは、絶対に残しちゃいけないやつだ。
「いただきます!」
気合入れてで食べ始めたが、心配することはなかった。そうめんの茹で加減は完璧だった。梅肉の香りが食欲をぐっと引き立てる。付け合せのナスとトマトも素晴らしく美味しかった。
鶏むねの冷しゃぶも、つゆにくぐらせると絶品だった。そうめんとの相性も完璧だ。
何より真桜は優雅に食べる。食べ続ける。早いわけでもないけど、ペースが落ちない。俺が満腹を感じてもずっと食べ続ける。やばい、食いしん坊キャラだったのか……。属性多いな。
「ごちそうさま。いやあ美味かった! それにしても真桜って結構食べるんだね。意外だったよ」
「その分動くから。このぐらい食べないと倒れてしまうわ」
なるほどと思った。勉強も武道もやるならこのぐらいカロリー摂取しないと駄目なんだろうな。ただの食いしん坊じゃないんだな。……そうなのか?
食後にすぐ動くのは良くないので、しばしの小休止。今朝知った羽依と真桜の幼馴染の話は、羽依が直接言いたいらしいので秘密にしておくことにした。きっと真桜も知らないんだろうし、どういう風に打ち明けるのか興味津々だ。きっとまた百合の花が咲き乱れるんだろうな。
「ここの道場って他に門下生とかいるの?」
「いいえ、今は居ないわ。お祖父様が理事長職に専念するために道場は閉鎖したの。」
少しだけ残念そうに言う真桜の横顔から、この道場に何かしらの思い入れがあることが伝わってきた。
「そうだったのか。こんなに広いのにもったいないね」
「週に一度、子どもたちの剣道教室を有志の方が開いているわ。その方たちが清掃、管理をしてくれてるからとても助かってる。あと、月に一度ボランティアで護身術の教室を開いているの。ほとんどお祖父様の趣味ね」
「ああ、古武術を教えてるってそういうことか。あんな危険な技を広めてたらちょっと怖いね」
「そうね、教えてるのはあくまで身の守り方だけ。結城神影流の技は攻めの形、守りの形があるの。攻めの形は口伝よ。蒼真もうちに婿に来るなら教えてあげるわ」
「遠慮しておきます」
間髪入れず、反射で答えていた。
「あら、冗談で言ったのに振られたみたいじゃないの。そろそろ稽古行きましょう。……ギッタギタにしてあげるわ」
真桜がにっこりと微笑みながら物騒なことを口走る。背後に見えるのは燃え盛る怒りのオーラ。
「やめてー!」
お腹が落ち着いたところで道場へ向かった。なんか緊張するな。
ちなみに前回は、筋トレ的なしごきだった。実践的な筋肉がどうとか言ってたけど、まあ半分は趣味なんだろうな。
「まずは正座ね。そこから、礼をする」
真桜は背筋をぴんと伸ばして正座し、深く一礼してみせた。
「礼は“相手を尊重する気持ち”だから。なんとなくじゃなくて、ちゃんと心をこめて」
蒼真も真似して正座する。……足が、速攻で痺れてきた。
「蒼真はこういった武道は初めてでしょ。誰もが通る道よ」
「形が大事なんだね」
「そうよ、次に立ち方、重心、捌き、呼吸。全部、ちゃんと使えなきゃ意味がない。結城神影流は護るための武術。――無理な力は、いらないのよ」
「……了解です」
こうして始まった修行初日。内容はかなり地味だった。
「肩を落として、背筋は伸ばして。重心は丹田――おへその下。
その状態で、前に三歩。……すり足で、音を立てないように。」
「え、これだけ?」
「“これだけ”がちゃんとできる人、ほとんどいないの」
何度も何度も繰り返す“すり足”。たったそれだけの動作なのに、数分で太ももがパンパンになってくる。
「相手の攻撃をかわすには、自分が倒れない体でなきゃいけないの。受けも捌きも、それができてから」
……。
想像以上に本格的な修行だった。真桜は優しく丁寧に教えてくれる立派な指導者だった。その真剣さに俺も気合を入れて応えようとした。
「お疲れ様。よく頑張ったわね、蒼真」
真桜が、ふわりとバスタオルを肩にかけてくれる。
それだけで、背中に張り詰めていた緊張がゆるんだ気がした。
2時間ほどの稽古が終わった。慣れない動作であちこちの筋肉が悲鳴を上げている。
「ふくらはぎと太もも、張ってるでしょう? 少し揉んであげる」
「え、い、いやそんな、申し訳ないというか!」
「遠慮しないの」
真桜は小さく笑うと、タオル越しにゆっくりと俺の足をほぐし始めた。
指先はしなやかだけど芯があって――押されるたびに、筋肉の奥に染み込むような心地よさが広がっていく。
「……うまっ」
「当然でしょ。武道は“鍛える”より“壊さない”ほうが大事なの」
そう言いながら、今度は冷却スプレーを手に取って、俺の肩にひと吹き。
ひんやりした感触とともに、真桜の指が肩甲骨のあたりをなぞった。
「ここ、固くなってる。痛かったら言って」
……なぜか、余計に体が熱くなった気がするのは、たぶん気のせいじゃない。
「しばらくは地味な練習が続くわね。でも絶対強くなれるわよ」
「真桜が言うなら間違いないね。――でも、どうして俺に教えてくれる気になったの?」
真桜は確かに指導者レベルだと思う。週に一度、俺の為だけに時間を割いて指導してくれるのは、真桜にメリットがあると思えなかった。
真桜がちょっと思案する。大切な何かを思い出すような、それでいてやるせないような、安堵のような。とても複雑な表情を見せていたが、それは一瞬。直ぐに柔らかい微笑みに変わっていた。
「あなたと遊びたかったから。って理由はだめかしらね」
返ってきた答えはとてもシンプルだった。
「俺と遊びたいのか、俺で遊びたいかで印象は変わる話だね」
真桜がくすくすと笑ってる。
「私、男友達なんて今まで居なかったわ。蒼真と話すのはとても楽しいの。別に羽依から取ろうとか、そういう気持ちじゃないから安心してね」
「その勘違いをできるほど、自分に自信はないな。でも真桜がそう言ってくれるのはすごく嬉しい。俺も真桜と話すの楽しいからね」
「これからも仲良くしましょう蒼真。私があなたを強くするのは羽依のためでもあるの。あの娘の可愛さは異常だから。守る力は必要だと思うの」
真剣なその表情は誇張でも何でもなく、本気で羽依の身を心配してるのが伝わってきた。そして右手をそっと差し出した。
「真桜の気持ちに報いるように俺も頑張るよ。よろしくね」
俺と真桜は手を取り握手を交わした。握ったその手は竹刀を持つ手らしく硬くなっている部分と、女性らしい靭やかさがあった。
真桜の視線は真っ直ぐに俺を見つめている。それは確かに性別を超えた友情や信頼を感じられる視線だった。
俺はこの素晴らしい親友――真桜の信頼に胸を張って応えられる自分でありたいと思った。
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