第30話 晩酌
バイトを始めて、ちょうど1週間。
少しは動けるようになってきたけど、まだまだ課題は多い。
今日もあれこれ反省しながら、金曜の夜を迎えている。
「蒼真は真面目なんだよね。そこがすごく良いところなんだけどね」
「まだまだミス多いんだよね、俺ももっと戦力になりたいな」
バイトを終えて今はリビングで寛いでいる。――他所の家特有の、でも妙に落ち着く香り。甘い柑橘と柔らかな清潔感が部屋の隅々に染みついていた。
羽依は俺の隣にずっとくっついている。疲れたのか、甘えるような仕草で俺の膝の上に頭をおいている。ふわっとした髪を手ぐしで解くと、まるで優雅な飼い猫のように気持ちよさそうに目を細めた。
20時半でバイトは一旦終了する。22時にお店が閉店したらみんなで片付けを始める。前回は先に風呂に入ったが、やはり汗をかくので、片付けが終わったら入ろうという話になった。
「私としては、今なら二人で入れるから今が良いんだけどね」
「俺がのぼせるからさ、って言うか羽依だって恥ずかしいんじゃないの? 無理しないの」
「――うん、今思えば、ちょっと背伸びしてるのバレバレだったね。恥ずかしい……」
顔を薔薇のように赤らめて俺の腿に顔を埋める。羽依から漏れる吐息が妙に熱く感じる。
羽依は正式に付き合ってからのほうが、落ち着いた気がする。以前はもっと積極的なアプローチがあったと思うけど、今思えば、相当無理してたんだろうと思う。可愛いと思いつつ申し訳なさも感じてしまう。
二人でテレビ見たりスマホをいじったりと時間をつぶす。特に会話がなくても居心地が悪く感じないのは相性の良さかな。
最後のお客さんが帰ったようだ。俺たちは店に戻り後片付けを始めた。楽しく賑やかに雑談をしながらなので、作業感をあまり感じなかった。
「一週間お疲れ様。毎日慣れていくのが分かるね。覚えが良いから助かるよ」
美咲さんが俺を褒めてくれる。一緒に仕事をして分かるのは雪代親子のプロの仕事ぶりだ。美咲さんはお昼を一人で回しているというだけあって手際がとてもいい。夜はそこに羽依が加わるので、店の回転率も上昇する。息の合ったあの二人の動きに、自分が割り込むには――もっと、学ばなきゃいけない。
「もっと良く動けたらなって毎日思うんです。二人のようになれたらなって」
「一週間では無理だよ~。そんなに焦んなくても大丈夫!」
羽依が陽だまりのような笑顔で励ましてくれる。
二人の優しさに癒やされつつも、働くということの難しさを感じていた。
「蒼真、まだ起きてるなら晩酌付き合いな」
「俺、お酒飲めませんよ?」
「飲みたかったら飲んでもかまわないけど、いや、止めておこう。今はコンプライアンスがとか世間がうるさいからね。ジュースで良いんだ。ゆっくり話がしたいんだよ」
美咲さんがウィンクして俺の胸を撃ち抜いてくる。美人は何をやっても様になるなあ。
「私は先に寝るね~。お母さんと付き合ってたら何時になるか分からないし。蒼真、グッドラック」
そう言って羽依は返事も聞かず、風呂に入りに行った。あれ?ちょっと怒ってた?
「あの子も独占欲強そうだねえ。蒼真は大変かもね」
美咲さんはクックっとこぼれるように笑っていた。
リビングに行き、美咲さんは酒盛りの準備を始める。
簡単な酒の肴を作り、休み前の晩酌を楽しむつもりだ。
しばらくして羽依が風呂から出た。湯上がりの赤らんだ顔が妙に艶めかしかった。ふわっと香るシャンプーの香りに意識を奪われる。
「お母さんカロリー高そうなつまみだね~」
羽依がケラケラ笑って、美咲さんが作ったジャーマンポテトをつまみ食い。
「蒼真、おやすみ。遅くなりすぎないでね」
「おやすみ羽依。また明日ね」
そう言って軽く触れるキスをしてから自分の部屋へと向かった。ジャーマンポテトな香りが残るキスだった。
美咲さんはまだ色々作るようで、「先に風呂入っておいで」と言ってきたので風呂を済ませることにした。
俺と入れ替わりで美咲さんが風呂に行く。
リビングにはすっかり酒盛りの準備が出来上がっていた。食欲をそそる香りが立ち込める。美咲さんはたっぷり楽しむつもりのようだ。
ジャーマンポテト、鶏ハツときのこのバルサミコ炒め、アボカドとクリームチーズの塩昆布和え、自家製ピクルス
うーん高カロリーな酒の肴だ。でもめちゃくちゃうまそうだ。
まかないの時間が早いので、腹が減ってるのは間違いない。それを見越して美咲さんは多めに作ってくれたんだろう。
美咲さんが風呂からでた。湯上がり美人な美咲さんに思わずドキッとする。30代後半には絶対見えない。もっと若いのかな?
「じっと見られると照れるじゃないか!」
「いや、その……美咲さん、若いなって思って……」
あはは、と美咲さんが笑って俺の肩を叩いてくる。ちょっと痛い。
「飲み物はグレープフルーツ炭酸割り。どうだい?」
「美味しそうですね! じゃあそれでお願いします」
氷の入ったグラスに炭酸水とシロップを混ぜ、グレープフルーツをスクイーズする。ふわっと香る柑橘の香りが鼻腔と喉を刺激する。マドラーで混ぜる姿がスマートだ。
「蒼真、もっと気楽にしていいんだよ。気を遣われると逆にやりづらいんだから」
「はい。じゃあ……ありがとう、美咲」
低めのトーンで囁くように大人の雰囲気で言ってみた。
美咲さんはびくっとして顔を赤らめた。ちょっと冗談で言ったけど、そのリアクションは想定外だった。
「蒼真、いや、なんかドキッとした。あーびっくりした」
「すみません、冗談だったんですけど。生意気でしたね」
「……ああ、いや、違うんだよ。お父ちゃんに似てるって話、したろ? 声までそっくりでさ……なんか、不意打ちだったんだよね」
美咲さんはまだ動揺している様子だった。今日のお酒はハイボールのようだ。ウィスキーを炭酸水で割り、レモンを絞ってグラスに入れる。その手際はやはり格好いい。
「まあ、やっぱり美咲さんで頼むよ。美咲ちゃんもありかな。でも、たまに美咲って呼んでくれると……嬉しいかもね」
美咲さんは飲む前なのに、すでに酔ったように顔を赤らめていた。その表情はとても若く、20代前半ぐらいに感じた。
「美咲さん本当に若くて綺麗ですよね。とても30代後半には見えないです」
「そりゃそうだ。30代前半だからね。全く褒め言葉になってないよ蒼真」
美咲さんはにっこりと微笑んだけど、その目には確かな圧がこもっていた。やっば、地雷踏み抜いた。
「え、じゃあ羽依は相当若いときの子?」
「16で生んだからね。私はまだ31だよ」
あははっと照れるように笑う美咲さん。若いって思ってたのは間違いなかったんだ。31歳と聞くと、お姉さんなイメージだ。きれいなお姉さんの晩酌に付き合うとか、ちょっと大人な感じがした。
それからしばらくおつまみを楽しみながら、バイトのこと、学校のこと、羽依のことなど色々話をした。お酒も進み、美咲さんは終始楽しそうだった。
美咲さんのことを、前よりずっと近くに感じられるようになり、ますます好きになっていた。
笑い合いながら、おつまみをつまんでいた時間が、ふっと静まる。
グラスの氷がカランと音を立て、美咲さんは少しだけ視線を落とした。
「蒼真、あまり親のこと話したがらないよね。よかったら何があったか聞いてもいいかい?」
少々真面目なトーンで話を切り出す美咲さん。――いつか聞かれるとは思ってた。でも、美咲さんになら話したいな、と思った。
「俺んち中学の頃から親が家にほとんど帰ってこないんですよ。ネグレクトって言うんですかね」
「ああ、そうだったのか。なんか悪い事聞いたかな」
「いえ、誰かに言いたい話でもあったから、あまり楽しい話じゃないけど……」
美咲さんなら受け止めてくれる。そんな気がした。
「小学校のときは、たぶん普通の家庭だったと思います。母が働き始めて、帰りが遅くなって。それにあわせて、家の中の空気も変わっていきました。気づけば、両親が顔を合わせるたびに言い合っていて……。」
「……そりゃ、蒼真は辛かっただろうね」
「俺、家に帰るのが嫌になってたんです。でも……両親もきっと同じだったんでしょうね。気がついたら、二人とも帰ってこなくなってました」
美咲さんはそっと俺の手を握った。胸に沁みるような優しいぬくもりが伝わってくる。
「お金だけは置いてくれてたので生活には困りませんでした。そのお金で料理をすれば二人とも帰ってきてくれるんじゃないか。そう思って一生懸命料理を覚えたんですよ。そうしたら、最初の頃は帰ってきてくれました。もっと料理が上手になればきっと前と同じようにみんなで暮らせるんじゃないかって。でも結局最初の頃だけでした」
美咲さんが震える俺の手を強く握る。美咲さんからの言葉はもうなかった。
「毎日みんなの分の料理を作るけど、結局食べるのは俺一人。食べきれないからもったいないけど処分する。それが2年間続きました。ほんと、馬鹿みたいな話でしょ。意地になって、食べ物粗末にして……それでバチでも当たったんだと思う。なんだかもう疲れちゃって。もうこの家に居るのが耐えられなくなって――それで、都内の学校に進学したんです」
美咲さんはそっと俺を抱き寄せ胸に沈めた。優しい暖かさ。美咲さんの風呂上がりの甘い香り。その包容力に俺の心も溶かされ癒やされていく。
「何かあったんじゃないか、そう思ってはいたんだ。辛い思いしたね。親に振り回される子どもは本当に不幸だ。私もそうだったからね」
「両親にはもう別の大事な人、帰るべき家庭があるんです。先月両親も離婚が決まって、実家も売りに出すようです。俺にはもう帰る場所もありません」
「――蒼真。もう良いんだよ。辛かったね。苦しかったね。もう我慢しなくて良いんだよ」
――こんなふうに誰かに甘えたのはいつ以来だろう。もう我慢しなくてもいい。そう思った瞬間、張り詰めていたものがぷつんと切れた。
……。
……。
「――すみません美咲さん、シャツ濡らしちゃって……」
「気にすんなって。あはっ、ちょっと透けちゃったね」
「ノーブラはちょっと……男子高校生には目の毒ですよ……」
美咲さんは、口の端を悪戯っぽく吊り上げてニマッと笑った。
ああ、羽依とそっくりだ。




