第265話 冬の鍋
「ただいま戻りましたー」
結局、九条邸に戻ってきた。
本来であれば週末なので雪代家に帰るところだけど、テスト勉強に打ち込みたかったのだ。
羽依と一緒にいたい。キスして触れ合いたい。その気持ちが強すぎて勉強に集中できないのが理由の一つ。
もう一つは、やはり真桜と距離をおいたことだ。このモヤモヤを抱えたままでは羽依にも悪い気がした。
羽依も九条邸に戻ることには反対はしなかった。
別れ際の羽依の言葉を思い出す。
「蒼真、次は真桜と一緒に“なかよし”しようね。それまではお預けね!」
そう言って俺の頬にキスをすると、軽快に自転車で帰っていった。
羽依の言葉は、まるで「真桜が戻らなければ、二人の未来はない」と告げているように響いた。
羽依と別れることになったら俺はどうなるだろう。
きっとショックで立ち直れない。
二人の存在こそが、俺の生きる力の源だ。
あの笑顔を思い出すだけで、どんな苦しみも乗り越えられる。
だからこそ――今できることに集中するしかない。
すなわち、勉強だ。
リビングに入ると、階段の方から黒猫のクロちゃんを抱っこした姉さんが降りてきた。
俺の姿を見て、少し驚いたように目を丸くしたが、すぐに柔らかい笑顔を浮かべた。
「どうしたの? 蒼真くん。今日は雪代さんの家に帰るんじゃなかったの?」
「そう思ったけど、勉強するならこの家のほうが集中できるかなって。ごめん姉さん。迷惑だった?」
おそるおそる聞くと、姉さんはくすっと笑った。
「蒼真くんがそう言ってくれて嬉しい。ここはあなたの家も同然なのよ。遠慮しないでね」
「ありがとう……姉さん」
姉さんの優しい言葉が、やけに胸に染みた。思わず胸が熱くなった。
「じゃあ晩御飯は私が作るから。食べたいものがあればリクエストしてね」
「いやいや、姉さんだってテストでしょ。一緒に作ろうよ」
「そうねえ……じゃあ今夜は何にしようかしら」
顎に指を当てて思案顔を浮かべる姉さん。俺も考えを巡らすと、冷蔵庫に白菜がまだ残っていたのを思い出した。
「お鍋なんてどう? 洗い物も少ないし、手軽だからさ」
「いいわね! じゃあ私がお肉を準備するから蒼真くんは野菜を刻んでね」
「了解!」
そうして鍋の準備をするが、ものの十分ほどで支度は完了した。二人の連携は磨きがかかってきているようだ。
「あら、手際がいいわね。時間もまだ早いから、もうしばらく勉強しましょうか」
姉さんの提案に、少々甘えてみる。
「あのさ、姉さんと一緒に勉強してもいい?」
姉さんは嫌な顔一つせずに頷いた。
「いいわよもちろん。満点目指してるのよね」
「そう……色々と一位を取らなけりゃいけない理由が増えたからさ」
「大変ねえ。じゃあ、ビシビシ行くわよ!」
「ああ、よろしく!」
それから一時間ほど勉強をしてから鍋に火を入れた。
「鍋は正解だったわね。時間効率がとてもいいわ」
「だよね~。それに、二人で食べると余計に美味しい気がする」
「ふふ、そうね。お鍋って、誰かと一緒に食べてこそ美味しいのよね」
「冬のお鍋だったら、おでんもいいよね。この前雪代家で食べたんだけど、美味しかったな~」
「あらいいわね! おでん食べたい!」
「でしょ? 作り置きもできるし、テスト期間にはぴったりだと思う」
そんな他愛のない会話がやたらとはずみ、気づけば鍋はいい塩梅に煮えていた。
「いただきます!」
ぐつぐつと煮立つ音、昆布と鶏の出汁が混ざり合う香りが食欲をそそる。具材は豊富で鶏肉、しいたけ、大根、白菜、タラ、しらたき、人参、えのきと、冷蔵庫の余った食材を大量投入した。
どれも美味そうに出汁をよく吸っていて、一口食べると優しい味が胸の奥に染み渡る。
「うん、美味しいわね!」
姉さんの目が大きく見開く。美味しそうに食べてる姿が見ていて楽しい。
「野菜もよく味が染みてるね。――俺、タラが好きなんだよね。鍋にはかかせないなあ」
「私は牡蠣も入れたかったわ。だから次のお楽しみね」
「寒い時期はまだ続くからね。鍋なら何回でもいいね」
「ふふ、これからも蒼真くんとお鍋を囲めると思うと、それだけで嬉しいわ」
屈託のない笑みを浮かべる姉さん。
嬉しいような、くすぐったいような気持ちになって、つい俺も頬が緩む。
「そっか。そうだね。この先も姉弟って関係はずっと続くんだもの」
「私、今が生きてて一番幸せかもしれない……」
大げさに聞こえるけれど、その目は真実を語っているようだった。
いったいどれだけ辛く、どれだけ孤独な思いをしてきたんだろうか。
胸に詰まる思いが、じんわりと広がっていく。
「姉さん言ってたもんね……九条家は魔窟って。やっぱり辛かったの?」
「ええ、でも……私が弱かったせいなのも確か。ただ、九条家はあの妖怪が居座っている限り……変わらないわ……」
「妖怪って……お爺さんのこと?」
「そう、すべての元凶。蒼真くんもそのうち会うことになるはず。お願いだからそのときは、お爺さまには逆らわないでね……」
「ああ、わかった。――でも、正直言えば文句も言いたいよね」
「そりゃあね。言えたらすっきりするだろうなぁ……」
文句を言いたいのに言えないのがピンとこない。
いったいどれだけ恐ろしい存在なのだろう。
「……俺にはいっぱい愚痴ってね。全部受け止めるから」
「んぐっ、ブフォッ、ゴホッ!」
俺の言葉に途端に咽る姉さん。
一口お茶を飲み、呼吸を整える。そして訝しむ目でじっと見つめる。
「さ、さすがは我が愛しの弟くんね。――この姉ったらし」
「なにその造語。たらしてないよ。姉さんの役に立ちたいんだってば」
「バカね。それがたらしって言うのに……でも、ありがとう」
柔らかく微笑む遥さんが、どこか寂しそうに見えた。
いつの間にか、お鍋の具がなくなっていた。
「……雑炊いっちゃう?」
「いけないわ、蒼真くん。それは禁忌よ!」
「ごめん姉さん。俺、もう我慢できない!」
「だめよ! ああ! なんて罪深い……」
残り汁にご飯を投入し、コンロに火を入れる。沸騰したあたりで卵を投入し、火を消した。ふわっとした雑炊の完成だ。
お鍋の旨味を凝縮した豊かな香りに、卵とご飯の甘みのある香りが混じりあって鼻腔をくすぐる。途端に満たされたはずの腹に隙間が生まれた。
「はい、どうぞ召し上がれ」
「もうお腹パンパンなのに……でも食べれちゃう……」
「はは、じゃあ明日は一緒にトレーニングでもする?」
「うう……蒼真くんの意地悪!」
気がつけば鍋の中は汁すら残さず綺麗さっぱり空っぽになった。その分、姉弟の腹は幸せに満ちていた。
栄養も取れて、気力も充電完了。あとは勉強するだけだ。
俺のため、羽依と真桜のため、そして姉さんのためにも。
とにかく今は、やれるだけやり抜こう。




