第255話 明日のために
「遥さん……お加減は大丈夫ですか?」
遥さんは俺の声を手を上げて遮る。
「……パパ。縁談の話、だけど……私、受けようと思います」
一瞬、胸がひやっと冷たくなる。
震える声が、その決意が脆く崩れそうであることを示していた。本意ではないのは十分に理解できる。
「遥っ! そんな必要はない! その話はもう忘れるんだ!」
社長の怒鳴り声が空気を震わせ、心臓が跳ね上がった。
それでも遥さんは、まるで何も聞こえなかったかのように動じない。
ただ、今にも崩れ落ちそうなほど儚い表情で、どこか遠くを見つめていた。
「話は……すみません、全部聞いてました。――私、蒼真くんにこれ以上迷惑かけられない……」
大粒の涙をぽろぽろとこぼす遥さん。
その姿はあまりに儚げで、見てるだけで胸が締め付けられるように苦しくなった。
慌てて近寄り、そっとハンカチを差し出した。
「遥さん、泣かないでください。迷惑なんて思ってないですから……」
「だって……蒼真くんが九条家に入ったら……絶対後悔するわ……」
泣きながら俺の胸に顔を埋める遥さん。
服越しに伝わる震えが、胸の奥をざわつかせる。
その震える肩を抱く資格が、果たして俺にあるのだろうか。
「九条家は魔窟よ。表だけは綺麗でも、中身は腐ってるの。私が一人暮らししてるのだって、そのせいなの……パパだってわかってるでしょ……?」
「……遥が言うのは九条家の一部の話だよ。全部が悪いということでもない」
そう言いつつも、その表情はとても硬く見えた。否定しきれないってところか……。
「パパならそう言うでしょうね。でも、他所者扱いされる蒼真くんがどんな目に遭うのか……本当の……子供なのに……」
今にも崩れそうな遥さんの体をそっと抱きしめた。
暖かく柔らかい感触が胸に伝わる。
思えば姉さんは、いつも俺のために気遣ってくれた。
一緒にすごした時間はまだ短いけど、姉弟としての絆を強く感じられた。もう他人ではない、かけがえのない存在だ。
愛らしくて、ときに怖くて――大事な、大事な俺の姉さん。
――きっと今度は、俺の番だ。
「姉さん。大丈夫ですよ。こう見えて、俺は結構強いんです」
姉さんの手を取ってぎゅっと握りしめる。
つめたく震える手に、俺の熱がじんわり伝わっていく。
「ばか……何強がってるのよ……姉より強い弟なんていないんだから……」
そう言いながら、俺の手を両手で包み込み、無理やり笑顔を作ろうとする姉さん。
その顔を見た瞬間、決心が固まった。俺はこの人を守る。
「社長。養子の話、受けさせてもらえますか」
「ちょっ……蒼真くん!? どうして……そんな……!」
涙声の遥さんをあえて振り返らない。
「……男に二言はないよ?」
社長は眼光鋭く俺を見据える。
だが、俺はもう目を逸らさない。
「はい。もう決めました。それに、姉さんのためだけじゃない。俺は力が欲しいんです。大事な人を守れる男になるためにも」
すべての道理をひっくり返せるような――そんな男に俺はなる。
「はは! いいな、その真っ直ぐさ! やっぱお前は最高だ!」
豪快に笑う黒川さんの声がリビングに響いた。
もう後戻りはできない。
前へ進むだけだ。
姉さんの笑顔のために。そして――俺自身の明日のために。




