第237話 人の想いは遷ろう
近所のスーパーに買い出しに来た。
セレブ御用達の普段なら絶対に来ない店だ。
遥さんからは九条家のファミリーカードを預かっている。
マットな質感の金属製の板。表面には「SOUMA FUJISAKI」の名前が刻印されていた。
クレカなんて持ったことがないけど、これが普通じゃないのは一目でわかる。
渡された時の遥さんの言葉を思い出す。
「制限はないからなんでも買えるわよ」
「はあ……」
遥さんの言うなんでもってのは、きっと《《なんでも》》なんだろうな。怖いカードだ……。
生活費の予算も決められているわけではない。それでもなるべく安くていいものを選びたいのが染み付いた庶民感覚なのだろう。
「豚バラ100g500円とかって……ありえねえ……」
思わず独り言が出てしまい、慌てて口を塞ぐ。
それにしても、軽く相場の倍以上の値段に驚愕する。ブランド品以外置いてないのは店側のポリシーなのだろう。早く“そちら側”の感覚に慣れなくては。
中でも特に海鮮の充実さは素晴らしかった。値段はさておき、あまり見ないような高級食材も置いてある。
「うおっ……毛ガニが生きて売ってるの、初めて見た……」
お値段一匹一万円はお値打ち品なのだろうか、わからない……。
「蒼真、さっきからブツブツと怖いよ?」
突然名前を呼ばれて口から心臓が飛び出るかと思った。振り返ると燕さんがそこにいた。
アパレル社長らしく、とてもオシャレなお召し物でスーパーに来ている。俺を見てニヤニヤと悪戯な笑顔を浮かべた。
「ああ、燕さんこんにちは。今日はお買い物ですか?」
「あはは、そりゃこんなスーパーに仕事では来ないよね」
そう言ってケラケラと笑う燕さん。まあそりゃそうか。
「今日は早仕舞い。たまには隼に何か作ってあげようとね~! おおっ! この毛ガニ、ちょー安いね! 買っていこうかな」
「え……安いんですかこれ?」
「そりゃこんなキロ超えの毛ガニが一万なんてね。こんなのすぐ売れちゃうよ!」
「はあ……。今、バイト先の夕飯の買い出しに来たんですけど、どれも高すぎて何を買えばいいのやら……」
「ふうん、わざわざここに来るってことは、何だか事情ありなんだね。じゃあお姉さんがおすすめを見繕ってあげる!」
何かを察したようにそう言ってくれる燕さん。相変わらずの頭の回転の早さはさすが現役東大生といったところか。欲しいものを簡単に説明すると早速探し始めた。
「海鮮がよくて、三人前と……。今日のお得なもので選ぶとしたら、ズバリ! これがおすすめかな!」
そう言って自信たっぷりに指をさしたのが寒ブリだった。
「おお! 確かによさそうなブリですね!」
たっぷりと脂が乗った旬の寒ブリだ。お値段もわりと手頃だった。
「この店によく来るならさ、こういう“納得の価格”なものが大抵あるよ! ようは目利きだね! 私もやっぱりこっちにしようっと」
そう言って寒ブリを手にしてご満悦な燕さん。なくなる前に俺も急いでかごに入れた。ブリの刺身とアラで、ブリづくしといこう。
「燕さん、ありがとうございました! ――今日は隼にも助けられたし、高峰姉弟にはお世話になりっぱなしだな~」
隼の名前を出した途端、燕さんの表情が少し曇った気がした。
彼女らしくない仕草で口をためらいがちに開く――。
「そう、最近……隼さ、何か変わったことあったりする? その、気になる子ができたとか……」
そう言われたとき、一瞬思い浮かんだのが真桜の顔だった。でも、確信もなくそんな迂闊なことも言えない。燕さんには悪いけど――。
「ん~……特には……すみません」
「あ~! ううん、気にしないで! あはは……」
明るく振る舞おうとするけど、どこか無理しているようにも見えた。
「もし、さ、何かわかったら……LINEくれないかな……」
「はい。そうしますね」
できもしない約束をするのは辛いが仕方なかった……。
きっと燕さんもそれはわかっていると思う。
言ったことを後悔するように、更に暗い顔を浮かべる。この人のこんな様子を見たのは初めてだったので驚きつつ、胸の奥がズキッと痛んだ。
軽く首を振った後、暗い影も吹き飛ばした燕さん。
「ごめん! わすれて! じゃあ美味しいブリを楽しんでね! またね!」
何事もなかったようにいつもの明るい笑顔を見せてレジに向かった。
――隼との間に何かあったんだろうか。
多忙な中、わざわざ手料理を振る舞うのもそのためなのかと思うと、胸の奥に小さな切なさが残った。
どんなにお金があろうと、どれだけ頭がよかろうとも、人の心なんてどうすることもできない。だから悩み苦しむんだと。
当たり前だけど、大切な教えにも思えた。




