第206話 不公平
志保さんのマンションから急いで帰宅した。
学校はすぐ近くだと言うのに逆方向に走るのはとても切なかった。
――ジャージ姿では学校に行けないからな……。
息を切らせながら居候中の雪代家の玄関ドアに鍵を差し込み中に入る。ちょうど玄関先にいた美咲さんが俺の様子を見て驚いた表情を浮かべた。
「あらま蒼真、すごい汗だねえ。さっとシャワー浴びてきな。学校には車で送ってくからさ」
「はあっ、はあっ、ああ、すみません、めっちゃ助かります。では、お言葉に甘えて……」
気づけば息も絶え絶え、全身汗だくだった。早朝トレーニングとしてはいささかオーバーワークになってしまった。
学校までバスを使っても遅刻は免れないかと思ったけど、車ならまだいくらか余裕はある。
汗だくの服を脱いで洗濯機に放り込んだ。
急いでシャワーを浴び、体を拭き、あたふたしながら身なりを整えて制服に袖を通す。
その間に美咲さんが車庫から車を出していた。
「すみません美咲さん! お願いします!」
「はいよ~。今日は二日酔いじゃなくて良かったねえ」
そう言ってウィンクしてくる美咲さん。その優しい笑顔にようやく落ち着きを取り戻した。今日も朝から素敵で綺麗なお母さんだった。
さすが車だ。学校まであっという間に到着した。正門に横付けしてもらい助手席から降りる。気づけば登校中の生徒たちの視線が一斉に集まった。
――まあ悪目立ちする車だよな。
「いってらっしゃい、蒼真」
運転席の真っ黒なサングラスをかけた美咲さんが投げキッスをして去っていった。
腫れ物を見るような視線が容赦なく俺に突き刺さる。
でもあと5分で遅刻という状況だ。美咲さんには感謝しかない。
教室に入るとがやがやと賑やかで、みんなまだ席につかずに雑談中だった。
羽依と真桜が俺を見つけて手招きする。
「おはよう蒼真、間に合ってよかったね。志保さんの具合はどうなの?」
心配そうに眉を八の字に下げる羽依。
「ああおはよう。今朝はごめんね。志保さんはしばらく歩くのは大変そうかもね。骨折ではないとは思うんだけどさ」
そこへ真桜が訝しむように俺を見据えた。
「御影さんと飯野さんと蒼真でジョギングしてたんですってね。どういう経緯なのかは知らないけど、その怪我に貴方の責任はあったのかしら」
真桜は少々機嫌を損ねているようで言葉が少し強かった。
「ないとは言えないと思う。誘ったのは俺で、俺の見てない場所での怪我だったからね。監督不行き届きって言えるかも」
俺の言葉はどう受け止めたのだろうか。真桜は口を真一文字にして顔をしかめる。
「まああまりネチネチ言いたくないわね……。蒼真の責任なら面倒を見てあげないとね。何か手伝えることがあったら言ってね」
なんだかんだで優しいのが真桜なんだよな。その優しさにちょっと甘えよう。
「それなんだけどさ、今日時間あるならバイトこれる? 俺の代わりに入ってくれたらありがたいんだけど」
「時間なら今日は大丈夫よ。羽依、それでもいいかしら?」
「もちろんかまわないけど、蒼真はどうするの?」
「志保さんの介護をしようかと。怪我させちゃったからね」
羽依と真桜はお互いを見つめ合う。そして申し合わせたように同時にため息を付く。
「……じゃあ蒼真、志保さんのために完璧に介護をこなしてね。治るまで帰ってこなくていいよ」
「そうね。男なら傷物にした責任を取りなさい」
ちょっと辛辣な二人のお言葉。返す言葉を探すうちにチャイムが鳴った。
後ろ髪を引かれるような思いは残ったままだった。
昼休み、ポチポチとスマホをいじってると、目の前の隼からLINEが届いた。内容は登校時の写真だ。俺と美咲さんがばっちり写ってる。
「今LINEで回ってきた画像だ。蒼真は相変わらず盗撮の的になるよなあ。なんだろな、お前への粘着は」
口元をきゅっと結び、ニヤニヤともやれやれとも取れる微妙な表情を浮かべる隼。
「あー……しらねーよぉ……今度は何だって言われてんの?」
「ママ活後の朝帰りだってよ。でもこれ羽依ちゃんのお母さんだよな」
「そうそう、って隼は羽依のお母さん見たことあるんだっけ?」
俺の言葉に呆れた顔を浮かべる隼。
「文化祭の時見たろ。あんな大立ち回りした格好いい美人、一度見たら忘れないって」
「ああそうだったな……。今は俺の保護者同然な人で、大切な恩人だからな。その盗撮は過去一不愉快だ」
俺の美咲さんへの思いはもはや神格化している。そんな彼女に対してママ活だなんて失礼にもほどがある。盗撮犯をどうにかして懲らしめてやりたいところだ。
ぶすっとした俺に隼が困ったように眉をよせる。
「おいおい、俺にキレんなよ。お互い様なんだからよ。――この先ずっとこういう盗撮とかが横行するのかねえ……嫌な時代だな」
「ああ、まったく同感だ」
実は隼もかなり盗撮の被害にあってるのは聞いたことがある。サッカー部のイケメンエースは大変だ。そんなお互いを憐れむように苦笑いを浮かべあった。
「それで、彼女たちはお前に何か怒ってるのか? ちょっと雰囲気悪そうだけど」
「ん~怒ってるっていうのかな。実は……」
隼に今朝のジョギング中の怪我のことを伝えた。
「あ~……まあ複雑なところだな。女の子ってのは基本独占欲の塊みたいなところあるからな。でも真桜まで機嫌が悪いのは分からねえな。羽依ちゃんなら分かるけど」
――あれ? そう思うんだ……。
その瞬間、心臓を掴まれたような感覚に襲われる。
背中に冷たい汗が流れるのを感じた。
「そうだな。うん。そうだな……」
「二人は仲がいいからな。きっと気持ちが伝播するんだろうな」
隼は俺の動揺には気づかずに自分の中で都合よく解釈してくれたようだ。
チャイムが鳴り、隼は自分の席に戻った。
――真桜がヤキモチを焼くのは分かるし当然なんだけど、周囲からは不思議に思われるのは当たり前だよな……。
俺と真桜は傍目から見たらただの友だちで、羽依は恋人だ。
自分たちで三人の新しい関係なんて言葉で好きにしているけど、この状態は真桜にだけ酷く負担がかかってないだろうか。
彼女だけが嫉妬も理解されず、祝福されることもない。
仕方ないことなのかなと思ってた。でも実際に隼の忌憚なき言葉を聞くと、それは深く胸に突き刺さった。
そして抜けない矢じりのようにいつまでも心の奥で疼き続けていた。




