第202話 完璧な一日
渋谷から電車に乗って帰宅途中、羽依のスマホから着信音がなる。
手慣れた手つきでタタタッと確認、返信をしてから俺に向く。
「お母さんこれからりっちゃんと飲みに行くんだって。晩御飯はうちらで適当に済ませてだってさ」
羽依は苦笑いを浮かべてわざとらしくため息をついた。
「楽しそうだよね。あの二人仲良すぎだな」
「そうだよねえ。りっちゃん一人で寂しいからって、すぐお母さん誘うからさ」
やれやれって表情で俺を見つめてきた。
何とも返事に困るので話題を変えてみる。
「晩御飯かあ。どうしよう? 何か食べてから帰る?」
「ん~、今日は結構お金使っちゃったからね~。うちで何か作るか……そうだ! 蒼真の家でお母さんの手料理をいただくってのはどうかな? 蒼真パパが絶賛してたぐらいだし、一度食べてみたいな~」
無邪気な彼女の言葉に俺は呼吸が止まった。
何て恐ろしいことを口に出すんだよ羽依さん……。
「羽依。いつかその日は来ると思う。でも“今”ではないと思うんだ。お互い覚悟を決めてから行こうね」
俺の言葉に羽依は頬を染めて「わかった」とぽつりとつぶやいて下を向く。
理解してくれたようで何よりだ。
今日はとても楽しい一日だった。
いい買い物ができたり、人の縁が深まったりと、羽依と過ごしたかけがえのない時間は何物にも代え難い。
……そんな最高の一日を、メシマズ(極み)で締めたくはないよな。
「帰りにスーパー寄っていこうよ。――お嬢様、今日のデートの締めに相応しい一品を私めが提供いたしましょう」
ちょっと気取って恭しく言ってみる。
羽依はおもむろに顎に手を当てて決め顔を見せる。
「ほほう、私を満足させる一品とな。――ノッた!」
そこはお嬢様キャラにはならないんだな……。予想と反する返事がとても羽依っぽい。
「ははっ、じゃあ献立は食材を見てから決めようね。特売を絡めてお得に美味しいものを作ろう!」
「全面的に任せた! 楽しみにしてるね、旦那様!」
俺らはいつの間にか結婚していたようだ。ぎゅっとしがみつく腕に力がこもる羽依。そんな彼女がとても可愛らしかった。
夕暮れ時に近所のスーパーに着いた。そんなに大きくないけど、鮮魚に力が入っているのがこの店の良いところ。今日も鮮魚コーナーは人だかりができていた。
特に目を引いたのはマグロのノボリだ。どうやらタイムセール中らしい。
「マグロの解体ショーをやってたみたいだね。あ、この柵めっちゃ安い!」
普段の半値ぐらいの価格だ。今日中に売り切りたいんだろうな。
羽依が隣で俺のパーカーの裾をくいくいっと引っ張る。
「蒼真、私お寿司食べたいな~」
おねだりするような羽依の顔。そんな可愛い願いはぜひとも叶えてあげたいよな。
マグロとイカと蒸しエビが安くなっている。今日はこれで握り寿司を作ろう。
「これとこれと……他に何か食べたいネタはあるかな?」
「ウニといくらは高いね。今日は“安くて美味しい”を選びたいところだよね……。あ、これどうかな? ツナ缶が特売だよ。ツナマヨなんていいかも!」
「おっ、いいね! じゃあそれを買って帰ろう」
お会計を済ませて店外に出る。辺りは大分暗くなってきた。
「うぅ~、夜はやっぱり寒いね。蒼真、そのパーカー薄そうだけど寒くないの?」
「それがさ、めっちゃ温かいんだ。防寒性能すごいね。さすがカナダの登山メーカーだ」
「へえ~、有名なんだ? じゃあ売値も結構したのかな」
……羽依、この服の値段知らなかったのか。
羽依にこっそりと売り値を耳打ちする。
「ええええ~! なにそれ!? おっちゃん無理しすぎじゃんか!」
「いや、だから桁を間違ってるって言ったんだけど……」
俺の言葉にうなりながら頭を抱える羽依。
「うぅ~……まあ私も舞い上がってたかも。蒼真を紹介できて嬉しかったからさ~」
「きっと店長さんも同じ気持ちだったのかもね。このパーカーは大切に着ないとなあ」
「値段を聞いたらますます格好良く見えてきた。プラシーボだね!」
「あはは、いや実際に格好いいんだよ。――この服に見合うようにもっと頑張らないとな……」
そんな俺のつぶやきに羽依は嬉しそうに笑顔で頷いた。
家に着いた頃には辺りもとっぷりと暮れていた。
ただいまと玄関に入ると同時に、羽依が抱きついてキスしてきた。ずっと我慢していたのかな。だとしたらお互い様だ。
「お母さんもしかして私たちに気を使ったのかな?」
「どうだろうね。でも、そうだとしたら申し訳ないな……。せっかくだし美咲さんの分もお寿司を握っておこうか」
「うん! ありがとう蒼真!」
そう言ってもう一度キスをした。
早速晩御飯の準備をしよう。ご飯はすし飯モードで炊かないとな。魚は柵だから切り分けるだけでいいのは楽でいい。
今日は調理の手間はほとんどないな。
ちょうど風呂の沸き上がりコールが響いた。
「羽依、先にお風呂に入っておいで」
「わかった、お先にいただくね~」
ツナマヨを作り、お吸い物も作る。今日はつみれ汁だ。出汁の良い香りが辺りに満ちると腹の虫がぐう~と鳴った。
あとは握るだけの状態にしてから一旦冷蔵庫に仕舞う。ほどなく羽依が風呂から出てきた。
ほんのり桜色の肌と薄地の部屋着姿がなんとも艶めかしい。
「じゃあ俺も風呂入ってくるね~」
「は~い。いってら~」
髪と体をしっかりと洗い湯船に浸かる。
長湯をしてはネタの鮮度が落ちるので速やかに出た。
ぱぱっと着替えて準備完了。
「おまたせ羽依。蒼ちゃん寿司開店だよっ!」
すでに羽依は炭酸水をちびりちびりと飲んですっかり出来上がっていた。
「おう大将! 今日の良いところをてきとーに握ってくんな!」
「へ、へい、合点承知の助!」
……なんだこのノリは。
彼女が求めていた応えかどうかは分からないが、羽依はお腹を抱えて笑っていた。
「あーおかしい……。蒼真はクリパのときにすごい人から握りを教わってたよね。どう? 再現できそう?」
「どうかな、とにかく頑張ってみるよ。シャリの作り方と握り方は教えてもらったけど、あの時のようにできてるかな。――へいっ!おまち!」
羽依が手づかみで寿司を取り、酢飯にちょいと醤油をつけてパクリと口に放り込む。なんか粋でイナセな雰囲気だ。ちょっと格好いいぞ。
「うん、シャリが口の中でほろっと崩れる感じ。大将、いい仕事してるね!」
「そりゃあようござんした。じゃあどんどん握るよっ!」
謎の江戸語はあってるかどうかは分からないが、妙なノリを楽しむ俺たち。
次から次に握る俺に負けじと羽依はパクパク食べていく。
間に俺も食べてみるけど、なかなかの出来栄えに思わず頬が緩んでしまう。これからもたまには握ってみようかな。
さんざん食べ尽くした羽依が満足げにお腹を抑えてる。結構食べたなあ。こんな細い体のどこに入るんだろう。
酢飯は多めに作ったけど、美咲さんの分を握ってちょうど完売だ。
「おなかいっぱーい! つみれ汁も美味しかった~。デートの締めに最高の晩御飯だったね!」
「ふふ、二人で寿司をお腹いっぱい食べて千円ちょいだ。完璧じゃない?」
「私の彼氏は完璧でした。まいりました。降参です」
大げさに深々と頭を下げる羽依。
面をあげた時には――表情は悪戯な顔に変わっていた。
「今日は完璧な一日だったね。でもデートの締めはご飯じゃない……よね?」
蠱惑的で甘々な視線を送ってくる羽依。
途端の変貌に思わず息を呑む。
食欲が満たされた後は次の欲か。なかなか本能に忠実だけど俺も彼女の意見には賛成だ。
「そうだね。お腹が落ち着いたら部屋に行こうか」
きっと今日はこうなると思っていた。
羽依の魅力を前にしたら、俺も我慢なんて出来るはずがない。
「蒼真、今日はね、私が泣いても止めないでほしいの……」
顔を真っ赤にして羽依がそうつぶやいた。
その言葉と表情は反則すぎるだろう……。
「分かった。止めないからね……」
お腹がこなれるまでの間、二人でお互いをたっぷりと触れ合った。
部屋に入る頃にはもうすでに涙を流していた羽依。
こんなの……可愛すぎて辛い。もう止まらない――。
――――――
羽依の言葉を忠実に守った俺。
「大丈夫? 喉枯れてない?」
「……蒼真はベッドヤクザからガチヤクザに進化したよね」
ふてくされたようにそっぽを向きながらの辛辣な評価。
言われた通りにしただけなのに……。
「その……やっぱり辛かった?」
「……すごかった。でも、次は普通なのがいいな……」
アパートでは声が出せない分、辛くて泣いていた羽依。
美咲さんも居ないこの家で遠慮なく大声を出せたが、泣く癖は止まらずに、むしろ号泣していた。
罪悪感と嗜虐心がないまぜになって俺の精神もかなりやばかった……。
「やっぱり羽依は泣いちゃうんだね。可愛いけど……本当に嫌だったらちゃんと言ってね」
「……嫌じゃないから困るの。あ~もう、妙な癖がついたのは蒼真のせいだ! 反省して! 謝って!」
照れ隠しに色々理不尽なことを言う彼女があまりにも愛おしすぎた。
仕方なくごめんと謝る俺に、羽依はリスのように頬を膨らませたままキスをせがんできた。こんなの幸せすぎるだろう……。
今日という一日を完璧なまま終えることが出来たようだ。
ミッションコンプリートかな。




