第197話 転がる蒼真
飯野さんと別れ、結城道場へと急ぐ。
時刻は十三時を過ぎていた。いつもより二時間ほど遅くなってしまった。
全力で自転車を漕いできた。息を切らせながら道場に到着し、呼び鈴を鳴らす。
「蒼真、いらっしゃい。すごい汗だくね。さ、上がって」
「ごめんね待たせちゃって。おじゃまします」
いつもと変わらぬ真桜の顔を見て安堵を覚える。
そんな締まらない俺の顔を見て、彼女は柔らかく微笑んだ。
今日の服装は、可愛らしい白いフリル付きのブラウスと黒いミニスカートの組み合わせ。
以前のようなラフな家着姿も気心知れている感じがして良かったけど、今はまるでデートのような衣装で待っていてくれる。それがまた嬉しかった。
結構待たせたのに、何も言わない彼女を見て申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
居間に入ると真桜が俺の背後に回る。
刹那、ゾクリとした――。
「真桜? どうした――」
言い終える前に世界が回った――。
「こうだったかしらね。貴方が使ってたマウントポジション」
気づけば床に俺を寝かせ、腹の上に乗る真桜。身動きがとれない……。
「真桜? いきなり何するんだよ……ちょっと顔が怖いよ……」
殺られる自分が容易に想像できる。そんな表情の真桜。
「何その匂い。私との待ち合わせに遅れて他の女と会ってるのはさすがに許せないわ。十発殴ってから言い訳を聞いてあげる」
「ちょっと待って、ぐはっ!」
言い終える前に胸を強打する真桜。問答無用すぎる……。
「大げさね。ちゃんと鍛えてるなら大丈夫でしょ? これ、結構気持ちいいわね……。次は顔面いくわよ。――羽依、ごめんね」
「待ってください! お願いですから話を聞いて!」
俺の言葉に興ざめといった感じの表情を浮かべるが、拳は振り上げたままだった。
「……なによ、殴られてから言い訳しなさいよ」
「無茶言うなって! いいからどいてくれ!」
「いや! このまま聞くから言い訳して。納得できなかったら歯が三本折れるまで殴る」
折る歯の本数を具体的に言うのは怖すぎる。何より目が怖い。本気で言ってる。
「……飯野さんと会ってたんだ」
「え? ……あ、そう言えば飯野さんがよく使ってる香水と同じ香りね。でも、どうして?」
飯野さんの名前が出ても、殺気が収まらない真桜。
さあ、ここからが正念場だ。うまく言い訳できなければきっと死んでしまう。真桜を殺人犯にしないためにも頑張らねば。
「飯野さんは俺がモテモテの秘密を知りたいらしい、へぶっ!」
この人酷い! ほんとに顔殴ってきた!
「バカにしてるの? ねえ、殴られたいのよね。だからそんなこと言えるのよね。これって利害の一致よね」
「顔はやめて! 利害の一致なんてない! 俺は殴られたくない! ほら、ちゃんと言ったからね!」
「ちっ……」
「今舌打ちした? いや、ホントなんだって。小説のネタ探しの一環で俺に取材してきたんだよ。カラオケボックスで。――ひぃっ!」
カラオケボックスと言った瞬間に拳を振り上げる真桜。
「それで、カラオケボックスで何してたのよ」
「……最初は何曲か歌って、その後に質問に答えてた。もちろん俺たちの事や九条家の血縁の話は言ってないよ。ただ、遥さんが俺のこと好きなんじゃないかって言ってた」
俺の言葉に驚いた表情を浮かべる真桜。
「ええ、遥さんのことまで……それはちょっとすごいわね……」
多分普通の人なら俺と遥さんの接点すら見出だせないと思う。そのぐらい学校での繋がりは希薄だったから。
「まあ飯野さんが只者ではないってことだと思うよ。――そろそろどいてもらっても良いかな。さっきから真桜のスカートの中が丸見えなんだけど」
「え、――キャア!」
なんとも可愛い悲鳴をあげて飛び退いた真桜。早いところ言っておけば殴られずに済んだかな。
「ま、まあ大体の話は分かったわ。飯野さんに会うならそう言えばいいじゃない」
「あー……まあ、そうなんだけどさ……」
口止めされたことを伝えたら余計にこじれそうなので、もう何も言わないでおく。
「彼女は悪戯なところがあるわよね。でも、別に何もなかったんでしょ?」
「そりゃもちろん、何も無いよ」
全く何も無いわけでもなかったが、飯野さんのプライバシーに関わることだ。知ったところで気分が悪くなるだけの話だしな……。
「さあ、ご飯にしましょう。お腹が空きすぎたわ」
……殴られ損な気もするけど、真桜の機嫌が戻るならまあ良いか。というか、腹ペコが怒りを増幅してたんだな。納得。
今日のお昼はサンドイッチだった。ハムサンド、ツナサンド、たまごサンド、カツサンドと、種類の多さに真桜の想いを感じる。やっぱり悪いことしちゃったよな……。
「前もって遅れるかもって話は聞いてたから、時間が経っても美味しいものが良いかなってね」
さっきまで鬼神のようだった真桜が菩薩のように優しく見える。
そして稽古では破壊神になるんだよな。温度差がえぐいぞ……。
気を取り直してたまごサンドをいただく。ほんのり半熟で辛子とマヨネーズがしっかり効いている味付けがとても俺好みだった。
「うん、たまごサンド美味いね! 味濃いめで好きだな~」
「ふふ、前にマヨネーズ多めが好きって言ってたわよね。好み通りなら嬉しいわ」
すっかり真桜も機嫌が直り、食事中はとても和やかに過ごせた。
食後のコーヒーを飲みながら冬休みの話に花を咲かせる。
「――遥さんと仲直りできたみたいで良かったね。あの日、二人を呼んでよかったよ」
「ええ、貴方には感謝してもしきれないわ。元々尊敬していた人だったけど、裏切られたと思い込んでいたの。頑固な人だから言い訳もなかったし。私の気持ちも完全に裏返っていたわね……心底憎かった」
少し寂しそうな表情を浮かべる真桜。それは拗れた関係の年月を寂しがっているように思えた。
でも、すぐにその表情は消えて元の明るい笑顔を浮かべる。
「そっかあ……拗れた関係って修復するのは大変だよね」
「そうね。でも、お互いが歩み寄ればどうにかなるのよね。蒼真のご両親もそうみたいよね。再婚おめでとう。貴方もこれで一安心ね」
「まあそのおかげでアパート出ていく羽目になったんだけどね……」
俺の苦笑に真桜はくすくすと笑いを漏らす。
真桜は俺のことやうちの家族のことをずっと心配してくれてたんだな。その優しさが心の奥に沁みる。
真桜が優しい顔で俺を見つめてくる。さっきまであんなにとても怖い顔をしてたっていうのに。
慈愛に満ちたその表情。
もっと近くで見つめたい。
もっと触れたい。
そっと真桜に近づいて口付けを交わす。
ゆっくりと、慈しむように深くキスを続ける。
そしてお互いを触れる手は次第に悪戯さを増していく――。
「頬、痛くない?」
「ぽこって叩いただけなんだから全然平気だよ。本気だったら全治二ヶ月のはずだし」
「……ばか。でも、ごめんなさい。ついカッとなっちゃったの。嫌いにならないで……」
「俺が真桜を嫌いになんてなれるはずがないよ。どれだけ尊敬してると思ってるの。強くて賢くて結構エッチな真桜のこと、ホント大好きなんだからさ」
「エッチって……隼もエロいとか言ってたわね。私そんなに変わったのかしら?」
「そうだね~。女性らしさが増した気はするよ。元々綺麗だったけど、さらに艷やかになった感じがする」
「だとしたら貴方のせいね。エッチにした責任とってよね――」
そう言って真桜は自分の好きなことを始める。ほらエッチだ。
でも、この快楽は抗いがたい……。
そしてまた……。