第194話 握られた秘密
「飯野さん、ごめんなさい。ちょっとふざけ過ぎました。だからもうちょっと離れてください……」
飯野さんの顔は、鼻と鼻が触れそうなほど近い。
両手で壁を押さえているので身動きがとれないし、迂闊に動くと触れてしまいそうになる。
やばい、詰んでる?
「やだよ。でも、この距離で迫られるとドキドキするよね?」
「はい、そりゃもう心臓バクバクです……」
「触ってみたいとか思う? キスしたいとかさ。どんな欲求が出るかな?」
「無理です! そんな欲求は口にできません! 俺には彼女がいるんです! 謝りますから、もう勘弁してください!」
泣きそうな俺を見て、飯野さんは満足げに微笑んだ。そして、指先で俺のベルトの下をそっと撫でた。
「ひゃあああ!」
ビクッとした拍子に鼻と鼻が触れ合った。
「あ、鼻キスしちゃったね!」
「え!? なにそれ、そんなのキスに入らないでしょ!?」
飯野さんはニヤニヤしながら首を振る。
「あ~あ、私のファーストキス奪われちゃった!」
「いやいや、ちょっと、人聞き悪すぎる! マジで勘弁してください!」
もう頭の中が真っ白だ……何も考えられない。
飯野さんは人差し指を立てて俺の口に当てる。
「蒼真くん、声が大きいって。大丈夫。二人だけの秘密にするからさ。ねっ」
「理不尽だ……飯野さんのこと、ちょっと嫌いになりました……」
半泣き状態の俺に、彼女はさらにニヤニヤして俺の頬にそっと手をあてる。
「ちょっとなんだ。ふふ、いいね。 みんなが君に夢中になるわけだなあ。羽依ちゃん、真桜ちゃん、志保に、最近では九条さんとも親しいみたいだね」
飯野さんの目が妖しく光る。ここで遥さんの名前まで出たことに息が止まるほど驚いた。
「……それって飯野さんの感想? それとも、何か噂になってたりします?」
もったいぶるように人差し指を口に当てて考える仕草をする飯野さん。
「噂はないよ。私がどれだけ君のことを注目してるかってことだね。そうすると、色々見えてくるのよね~」
話の雲行きが怪しくなってきた。以前から飯野さんは俺に注目していた? ひょっとして単なるネタ掘りではないのか……。
「えっと、この話の落とし所は……」
飯野さんは少し考える素振りをする。
「ん~正直言えばノープランかな。君からはもっと色々話を聞きたいと思ってるの。学校一の美人と付き合っていて、さらに才女、カリスマモデル、令嬢を虜にするのが、一見普通の高校生。そこにはどんな秘密が隠されているのか、興味を持たないほうがおかしいって!」
饒舌に語る飯野さん。俺は少々この人を見くびっていたのかもしれない。文豪女子高生の洞察力は並大抵ものではなかったようだ。
「そんな、俺なんて大したことない男ですよ……」
「ふうん。ならそれでもいいよ。――じゃあ改めて、君に取材を申し込もうかな」
こうなってしまうと何を言っても無駄かな。
「……それって俺に何かメリットあるんですか?」
「君が私のことファンって言ったのが嘘じゃないならね。好きな作家の糧になるなら本望じゃない?」
それを言われると何とも弱ってしまう……。確かに彼女の言う通りだ。ファンを公言した以上、協力したいのはやぶさかではない。けど……。
「まだ迷ってる? じゃあさ、発売前に新刊をあげるってのはどう? サイン付きで」
想像以上に魅力的な提案がきた。すぐにでも飛びつきたいけど、安請け合いもしたくない。
これ以上要求をエスカレートされたくもないからなあ……。
「……仕方ないです……出来る範囲で協力しましょう」
「あはは! ありがとう蒼真くん! 大丈夫。君から聞いた話をそのまま小説にするようなことは絶対しない。私はノンフィクション作家じゃないからね。刺激のあるインプットが欲しいだけなの」
「そうしてもらえると助かります。……でも、俺は飯野さんに秘密を打ち明けるわけですよね。俺ばかりリスクを追ってません?」
にこにこしていた飯野さんが、途端に真剣な顔に変わった。
「そうね。確かにフェアじゃないよね……。じゃあ私の弱みを握ってもらおうかな。蒼真くん、回れ右!」
言われるがまま壁の方を向く。
数回スマホのシャッター音が響いた。
そしてLINEが届く。飯野さんからだ。
「確認してみてね!」
妙な胸騒ぎとともにスマホを確認する。
それを見た瞬間、あまりの衝撃にスマホを落としてしまった。
「ちょっと飯野さん、あんたおかしいって!」
「うわ、喜ぶと思ったのに、そういうこと言う? 傷つくなあ……」
飯野さんから送られた彼女の自撮りは刺激が強すぎた。
間違いなくレッドカードだ。
こんなの誰かに見つかったら俺がただではすまない。そんな画像だった。
「それじゃ弱みにならない? 見られ損だったね……ぐすっ……」
明らかな嘘泣きだ。
でも、もうどうしようもないことを悟った。
「ああもう! 分かりましたよ! じゃあ俺は何すればいいですか!?」
勝ち誇ったような笑みを隠そうともしない飯野さん
「ん~ゆっくり話せる時間が欲しいかな。それも秘密で会いたいな。志保にも秘密にしておきたいし」
「……分かりました。あとで連絡しますから……」
そのとき、予鈴が鳴った。
昼休みが終了し、ホクホク顔の飯野さんと分かれた。
なんだかどっと疲れた……。
秘密って……なぜそんなリスクを俺が追わなくてはいけないんだろうか。
やはり、きっぱり断るべきだったんだろうか……。
人付き合いの難しさを痛感するなあ。