第183話 因縁
長い事住んでいても、それほど物騒な街とは思わなかった。でも道を一本外れれば、こういう場所はどこにでもあるのだろう。――うっかり深淵を覗いてしまったのだろうか。
馴れ馴れしく俺の肩に手を回し、薄暗い倉庫の中へ連れて行く。
ちらちら見せるナイフがしっかりと俺を威嚇する。
走って逃げるには荷物が邪魔だし、真桜のブーツではとても無理だ。ここは大人しく従うしかない。
手持ちの金と数発殴られる程度で済むなら、安いものだと覚悟しておこう……。
「ほんと久しぶりだよな、芝刈りそーちゃん。俺のこと覚えてるか?」
声の主は大柄で、黒シャツの胸元から刺青が覗いていた。風体だけで不穏だ。趣味の悪い鼻につく香水に、たばこ臭い息がとにかく不快に思う。
「いや、全く知らない。どちらさま?」
「へえ~、知らねえってか、よっ!」
首を抱えたまま俺の腹に一撃を加える。瞬間的に力を入れたのでさほどのダメージはなかったが、いきなり殴ってくるとは……。
「蒼真っ! ――ちょっと離して!」
真桜は男二人にしっかり両腕を捕まえられていた。
背筋に冷たい汗が滲む。
周囲の状況を把握する。四人……か。真桜を掴んでいる二人と目の前の男。見張り役で入口に立っている一人だ。
「いきなりなにするんだ……俺に用があるなら彼女は関係ないだろ。解放してやってくれ」
「そーちゃんよぉ、まだ俺がわからねえのか? 人に刃物向けて無事に済むわけないよなあ」
はっと思い出す。俺が刃物といったら相手はあの時の……。っていうか、ついさっき話題に出ていたあいつじゃないか。
「新堂……だったか」
「ちゃんと覚えてるじゃねえかよっ! てめえに関わったおかげでケチが付きまくったんだ。後輩の女子に殴られるわ、口説いてた女には振られるわ、散々だ! この疫病神め!」
その言葉に周りが新堂を嘲るように笑い出す。
イライラした新堂は俺の顔をめがけて拳を放つ。
「っ……!」
頬を殴られ、尻もちをつく。衝撃で息が詰まり、苦い血の味が口の中に広がる。唇が裂けたらしい。やや後方に力を逃がせたが、かなり痛む。このぐらいで満足してくれたら安いものだが……。
「はああ……、すっきりした。長年の恨みを一発で勘弁してやるよ。優しいだろ? じゃあ帰っていいよ。俺たちはその子と遊ぶからよ」
そう言ってニヤニヤしながら真桜に近寄る新堂。男たちに取り押さえられている真桜は顔を背ける。
そんな真桜の顔をよく見て首を傾げる。
「ん~? さっきから、どっかで見たことあると思ったら……お前、結城真桜かっ!」
「っ!」
「なんだなんだ、おい、おめーら! あの結城真桜が髪の毛ピンク色にしてるぞ! 東京に出たって聞いてたけど、すっかり垢抜けたな!」
両腕を捕まえられている真桜に近づき、その髪をくしゃっと握る。
真桜は新堂を睨むが、その表情は怯えているようにもみえた。
「相変わらず生意気そうな女だよな。こいつの目を見てるとなんか見下されているようで苛つくんだよな」
そう言って真桜の頬を軽く叩いた。
「おいっ! やめろっ! 真桜は関係ないだろ!」
「ばーか。てめえの方が関係ねえよ。ほらさっさと帰れよ。今からみんなで楽しむんだからよ」
真桜を掴んでいる二人も帰れ帰れと囃し立てる。ナイフをちらつかせながら……。
どうする? 新堂一人ならどうにかなる。しかし、真桜を抑えている二人が問題だ。
それよりもじっと黙っている真桜が気がかりだ。さっきから一言も発してない。
「あれー! 真桜ちゃん震えてる? 中学の時を思い出しちゃったかなー? 遥の後輩だからって随分可愛がってやったもんな」
「……この卑怯者」
「え? なあに? そんな震えた声じゃ、なに言ってるかわかんないよー?」
「っ……」
「つうかよう……真桜ちゃんに殴られた顎がしょっちゅう痛むんだよな……同じ目にあわせてやろうか?」
ジッとねちっこい視線で真桜を射抜く。
「……好きにすればいいわ。でも、一つだけ教えて。九条さんの名前を使って私に嫌がらせばかりしていたあの頃……あの人は本当に何も知らなかったの?」
新堂はニヤニヤしながら真桜を見つめる。
「そうだなあ、もう時効だろうな。真桜ちゃん遥の名前を出すだけで大人しくなったもんなあ。あの女がホントの事全部知ったら俺もただじゃあ済まなかっただろうな」
「そっか……じゃあ、やっぱり……」
そうつぶやいた真桜。今度はしっかりと新堂を見据える。
怯えた様子など消え失せ、まさに武士のような燃える瞳で射抜く。新堂はたじろき、一歩退いた。
仲間の一人がぷっと吹き出した。
「わはは! 何ビビってんだよ新堂! そりゃ結城に一撃でのされたんだものな! 顎割れて全治二ヶ月だったっけ!」
頭の悪そうな仲間が新堂に向かって軽口を叩く。
顔を真っ赤にした新堂がその男の胸ぐらを掴んだ。
「てめえ、その事を二度と口にすんなよ……」
「ああん? てめえは俺等の親分かよっ。藤崎にはびびって小便漏らしたくせによお!」
「なんっだと! ぶっ殺してやる!」
……あまりに頭の悪い仲間割れに呆気にとられたが、今が好機。
俺より早く、真桜はすでに動いていた。
新堂と揉めた側に抑えられていた片腕を振りほどく。と同時に、もう一方の腕を掴む手首をつかんで無理やりひねり上げる。
「ぎゃあああああ」
耳をつんざく悲鳴に仲間割れしている二人が真桜に注目する。
その隙に俺は新堂と争っていた男の襟首をぐっと握り手前に思いっきり引く。
バランスを崩した男の顔面に膝を入れる。
研修で習ったのは護身術と総合格闘技。
俺はダウンした相手のマウントを取り、顔面を数発殴りつけた。
「てめっ! おいこら、やめろ!」
新堂が俺の肩を掴み抑えようとする。それを見逃す真桜じゃなかった。
「どう考えてもおかしいわよね。私がこんな男に怯えてるなんて」
そう言って新堂の頬をはたいて挑発する。
新堂は一瞬ぽかんとした表情を見せたが、すぐ顔を真っ赤にして真桜に向き直った。
「ぷぷっ、ほらかかって来なさいよ。また顎割ってあげるわ」
見るからに小馬鹿にした真桜の表情。さっきまでの怯えた顔など嘘のようだった。いや、実際嘘だったんじゃないか……?
「……舐めやがってっ! ぶっ殺してやるっ!」
足元に落ちていたナイフを握り、新堂が真桜に襲いかかる。
その凶刃は真桜の胸を目掛けて突き刺そうとする、その瞬間!
「させるかっ!」
俺は足を引っ掛けて転ばせた。
勢いよく顔面から倒れた新堂に真桜はブーツのかかとでナイフを持つ手を強く踏み抜く。
鈍い音とともにナイフが手から離れた。
新堂は絶叫を上げてのたうち回った。
すかさず俺はマウントを取り、新堂を見下ろす。
必死にもがくが何も出来ない。絶望の表情が俺の嗜虐心に火を付けた。
――殴る、真桜をはたいた分。
殴る、遥さんに散々迷惑かけた分。
殴る、中学の時苦しめられた真桜の分。
殴る、俺が大切にしてた芝の分。
殴る、えーと、何かむかつくから。
殴る、殴る、殴る……。
――残りの二人は真桜が制圧して地面に這いつくばっていた。それを見た見張り役は慌てて逃げていく。
どうにかピンチを切り抜けたようだ。安堵でどっと力が抜けていく……。
さて、後始末か……。
すっかり戦意を喪失し、顔を腫らせ土下座する新堂。
それを見下ろす俺と真桜。
「よっわ、ざーこ!」
この上ない罵倒を浴びせる真桜。過去のトラウマを微塵も感じさせないような、さっぱりとした笑顔を浮かべていた。
「雑魚が、二度と俺らに絡んでくるんじゃねえぞ。――返事は?」
「はい……マジすみませんでした……」
「だって。もう良いよね、真桜」
「そうね、行きましょ。――それよりも貴方には言いたいことがたくさんあるの。何あの下品な技、研修で覚えたの?」
道すがら、まるで総合格闘技に嫉妬したかのように、俺を散々こき下ろした。
――むう、そこまで言わなくてもいいじゃないか。
「真桜だって話が違うじゃないか。 新堂を一発だけ殴って全治二ヶ月? 大した怪我じゃないって言ってなかったっけ」
「ふん、全治二ヶ月ぐらいなら唾つけとけば治るわよ」
――真桜め、色々と話盛ってるな……。
殴られた腹と顔はそれほど痛くはない。しかし、拳は腫れてジンジンと痛みだしていた。
「酷く腫れてるわね……手当するわよ。それと今日は泊まっていきなさいね。服も泥と返り血で汚れてるし、そのまま電車に乗ったら即補導されるわ」
「うん……じゃあ、よろしくね」
満面の笑みを浮かべて小さくガッツポーズを取った真桜を俺は見逃さなかった。