第181話 過去と今
初詣の後に寄った名店の鰻屋さん。
さんざん待たされた末に、ようやくうな重とご対面だ。
ふわっと立ち上る湯気、鼻腔をくすぐる炭火の香ばしさ。甘みを含んだ脂の匂いが絡み合い、艶やかな鰻の照りがまるで俺たちを誘っているようだ。思わず喉が鳴る。
いざ、実食!
「すごっ、身がふわっふわ。このタレの味は家じゃ真似できないよねえ……」
「ほんとね……骨っぽさもないし処理も完璧。脂が全然臭くないのね……すごく美味しい……」
結論。鰻屋さんの鰻は間違いなく美味い。
しばらく俺と真桜は黙々と食べた。
「おそばも美味しいね。老舗なだけあって、死角がないなあ」
「美味しいけど……美味しすぎるわね。蒼真、無理してない? かなり高いんじゃないのこれ」
さすがに分かっちゃうか。鰻もかなり大きめだしな。
肝吸いまでついてるし。
さらに甘味とコーヒーが後から来るし。
「良いんだよ。研修の報酬で懐が潤ってるし」
「ふふ、カッコつけちゃって。――そうそう、研修の話も聞かせてよ。結局いい話に裏はなかったの?」
おそばを食べながら遥さんと俺の姉弟という事実を語った。
真桜は盛大に吹いた。
「ごほっ! がはっ! おおぅ……ちょっ! なにそれ! そんな大事な話、そば啜りながら言う!? 」
「ごめんごめん。いや、真桜なら受け止められるかなって……」
「いや、その事実は重すぎ! 軽々しく口にして良い話題じゃないでしょ!」
「うん、だからさ、ちょっとトーンを抑えて……」
離れなので周りに人はいないが、声の張り具合が驚きを物語っていた。
「あ……ごめんなさい。って、私が悪いのかしら……」
真桜はポーチからウェットティッシュを取り出しテーブルを拭き、恨めしそうに俺を見つめてため息一つ。
「まあ、大っぴらには出来ないのも分かるわね……下手したら貴方の身に危険が迫るわ……九条は敵も多いから」
真桜は本質をすぐに理解したようだ。この事実がどれだけ影響力があるかということを。
「だよねえ。社長もこの話は内密にだってさ。真桜も他所で言わないでね」
「だったら最初から言わなけりゃ良いと思うけど、それが出来ないのが貴方なのね……」
眉尻を下げ、諦めたように彼女が言った。
「ごめん……」
決して軽い気持ちで口にしたわけじゃない。
真桜には知っていてほしかった。
実の姉と真桜が不仲のままなのは胸が痛む。
なら、俺が架け橋になればいい――そう思ったから。
食事を終えてデザートの甘味がやってきた。クリームあんみつとコーヒーだ。
アイスと黒糖の組み合わせは相性バッチリだ。コーヒーともよく合う。真桜は最後まで美味しそうにパクパク食べていた。
「ホント美味しかった! ごちそうさま。ありがとうね」
こんなに満足げな良い顔してくれるなんて――鰻屋さんに連れてきてホントよかった。
そんな真桜の表情を曇らせることは本意ではないけれど、気になることと言っておきたいことが俺にはあった。
「どういたしまして。――話はちょっと変わるけど、真桜は九条さん――遥さんのことは今でも嫌い?」
突然の問いに、真桜は途端にしおしおに枯れたような表情を浮かべる。
俺の実姉と聞いたのだから思いは複雑にもなるだろう。
「今は一緒にいる時間も増えたから、前よりはマシになったかも……わだかまりがあったけど、それは誤解だったって事も最近分かったし」
「それって、遥さんの元彼が関係していること?」
真桜は唇をきゅっと噛んで頷いた。
「……酷いことされたんだってね」
真桜がはっとした表情で俺を見つめる。やっぱりそうなんだ……。
「九条さんがそれを言ったの?」
「うん。遥さんの知らないところで色々悪さしていたんだって言ってたよ」
「そう……知らなかったって――言い張るんだ」
せっかくの楽しいデート、美味しいご飯を食べた後にこんな話題を出したことに今さらながら後悔してしまう。
彼女の顔は今にも泣き出しそうだった。
「私は二人がグルになってるってずっと思ってたの。元彼からは暴言を吐かれたり使いっ走りにされたりと、九条さんの手前、逆らうことも出来なかった。先輩の彼氏だもの、無下には出来ないでしょ……」
部活で日本一になってる後輩を好き勝手する元彼は、さぞかし優越感を得ただろう……。
そしてプライドの高い真桜にはさぞかし苦痛だったろうな……。
「元彼……“新堂”の悪さがどんどんエスカレートしていった。背後に九条遥がいるから誰も逆らえない。当然彼女の評判も地に落ちたわね」
遥さんの噂は確かに悪かったようだ。夏祭りの時も、俺の同級生の子たちはみんな怯えていたな。
「もちろん彼女にも忠告したわ。でも、返ってくる言葉はけんもほろろ……当時の私は悩みすぎて、学校に行くのも辛かった……」
当時の出来事は彼女にとってトラウマなんだろう。少し震えてるようにも見えた。
「真桜、もう良いよ。思い出させてごめん……」
同じ中学での出来事だよな。……俺その時、何してたんだろう。自分の無関心ぶりにいたたまれない気持ちになってくる。
「良いの。聞いて欲しい……。――九条さんに『あんな男とは別れたほうが良い』って言ってるのを新堂に聞かれてしまったの。その後しばらく暴力や……酷いことを受け続けたわ……」
「そんな、真桜ならすぐに反撃出来そうなのに……」
彼女は自嘲気味に笑った。その表情は、俺が代わりに泣きたくなるほどの辛さを湛えていた。
「体がね、竦んで動けなかったの。度重なる罵倒や暴力で、気づいたときにはとても怖い存在になってたの……おかしいでしょ? 何のために武道を頑張ってたんだか……」
真桜をそこまで追い詰めていた事は、多分遥さんも知らないことだ……。
真桜をよく知ってる人なら、今、目の前で思い出して震えている彼女は同じ人とは思えないだろう……。
「でも、結局我慢できなかった。一発だけ、ほんの一発だけ……殴ったの。そしたら大した怪我でもないのに入院騒ぎに……私が剣道を辞めて地元を離れるきっかけにもなったわね」
「そっか……辛い思いしたね。――大変だったね」
精一杯頑張って、それだけ口にすることが出来た。
淡々と語る真桜は涙を見せまいと気丈にしている。その仕草だけで俺の胸が張り裂けそうになる。
どうして剣道を辞めたのか、疑問はあった。勉強に集中するというもっともな理由を言っていたけど、裏ではそんな事があったのか……。
地元を離れたのも、祖父が理事長をしているうちの学校なら選ぶのも自然だしな。
新堂――俺の心の拠り所だった大事な芝を荒らした男だったけど、遥さんを苦しめて真桜を傷つけて、……許せない。
でも、それも二年も前の話だし、今は何してるのか知らないけど、きっと関わることもないんだろうな……。
俺が思っていた以上に真桜には深い理由があり、誤解があったにしても他人が軽々しく仲介できる内容でもなさそうだ。
人付き合いを避けてきた俺らしい、浅はかな考えだったようだ。苦みだけが残ってしまった……。
――深呼吸をして頬をピシャリと叩く。俺まで落ち込んでどうする。
「ショッピングモールに行こうよ。変な話を振ったお詫びをさせて」
「うん! ――私も何年も前のことを思い出して凹むなんてね。でも知ってもらえてよかったかも」
そう言って明るく振る舞う真桜がとても可愛くていじらしくて……。
クールで強くて知的な彼女だけど、今日は色んな新しい面を見せてくれる。
そんな彼女にますます惹かれる自分がいた。