第169話 お嬢様の来訪
研修に入って早4日目。
九条グループの研修センターはとても綺麗で快適だ。
エントランスは絨毯張りで、ちょっとしたホテルのロビーのような雰囲気だ。
大小の会議室やコンサートホールのような設備まである。
年末ということで人影はあまりない。
ほぼ貸し切りに近いこの状況は、嬉しくもありちょっと怖かったりもする。
あてがわれたプライベートルームはホテルの一室のように清潔感がある。部屋に風呂とトイレがあるのはとてもありがたい。
ちなみにまだ入ったことはないが、大浴場もあるそうだ。
立地も観光に適してるし、これは研修センターという名の保養所なんだろうな。
福利厚生が行き届いているところを見ると、きっと従業員を大切にするいい会社なんだろう。さすがは一流企業か。
講習内容は午前中はSPのような警護のレクチャーだ。講師は黒川さん。実際要人警護的な仕事も兼ねるのだから納得はできた。
昼食は仕出し弁当。これはまあ可もなく不可もなくってところだ。
午後からは、俺が思い描いていた家政夫的な仕事の講習だ。中には目からウロコが落ちるような内容もあり、家事好きな俺には最高な講習内容だ。
座学のガーデニング講習なども有る。新たな知識を活かしたくもあるが、庭のある家がないのが痛いところだ。
他にもテーブルマナーや上流階級の場での所作など講習は多方面に渡り、到底すべてを一度に覚えるのは困難に思えたが、借金だけは勘弁なので必死に勉強した。
夜は黒川さんが毎晩食事に連れ出してくれた。
最初はその迫力に緊張したが、話して見ると気さくな部分もあり、思った以上に話しやすかった。
技術指導もあったおかげで師弟のような関係になれたと思う。
実技は日に日に運動量が増してきた。
10kmの走り込みから始まり、実技では組手や逮捕術、SPがよく持ってる盾になるバッグの使い方など。
結城神影流しか知らない俺には新鮮な内容で、とても有意義で楽しかった。
午前中の講習を終え、シャワールームで汗を洗い流す。
隣にいるのは全裸の黒川さん。鍛え抜かれた彼の体は俺からしたら憧れの対象だ。
俺の視線に気がついた黒川さん。
「え、蒼真……俺にはそっち方面に適正ないぞ?」
「ぶっ! 俺だってないっすよ! たまに変なこと言いますよね黒川さん」
「あはは! いや~俺を見る目があまりに熱いからな。ひょっとしてって思ったけど」
そう言って俺の体をジロジロと見る黒川さん。
「いやいや……黒川さんこそ俺を見る目が怪しいっすよ……マジ勘弁してください」
「お返しだよ。 結構良い感じに鍛えてるよな。プロテインもちゃんと飲んでるのか?」
「はい……なんか無駄に家にあるんで……」
文化祭の景品と隼のクリプレで収納を圧迫してるからな。
「? まあ飲むに越したことはないぞ。まだまだ背も伸びるだろうしな。目標190cm、体重100kgだ。それだけで大半の人間には圧勝するだろう 」
「無茶言わないでください! そもそも筋肉付きづらいんです。つうか黒川さんだってそんなにないじゃないっすか」
「足りない分は技術で補えば良い。それ言ったらお前もそうだな。古武術だっけ。ちょっとガチでやりあって見たい気もするけどな」
「……黒川さんの足元にも及ばないのがこの講習でよく分かりましたよ……俺は全然まだ鍛えが足りないなって」
「ふふ、じゃあいい経験になったな」
気がつけば軽口を言い合えるぐらい親しくなっていた。
この講習だけの付き合いだろうけど、それが寂しく思えるぐらいに彼のことを尊敬していた。
「今日の昼だけどな、ちょっと期待してもいいと思うぞ」
「特別メニューすか? いつもの仕出し弁当も全然うまいですけどね」
シャワーを浴び終え黒川さんと分かれた。
プライベートルームに戻ると、――その人はいた。
「蒼真くん、お疲れ様。ごめんね、勝手に入っちゃって」
「あ、いえ。こっちがお邪魔してるようなもんですから」
九条先輩だ。ベッドの上にちょこんと腰掛けていた。
丸テーブルの上には弁当箱を包んだような包が2つ。
「先輩、もしかしてわざわざ弁当を届けにはるばるここまで?」
「変……かな。私もどうかと思ったんだけど、ほら、うちの都合で来てって言ったんだし、何もしないのも悪いじゃない? だから……いらない?」
「いらないはずないですよ! 毎日仕出し弁当で飽きてたところだったし、遠慮なくいただきます!」
一瞬悲しそうだった九条先輩の表情がぱあっと明るくなる。
早速包を開き、蓋を開けてみる。
二段になっている弁当箱で上は彩り鮮やかなおかずだ。
卵焼き、唐揚げ、ウインナー、レタスとミニトマト、きんぴらごぼうと所狭しとしっかり入っている。
下は俵に巻いたご飯が綺麗に並んでいる。隅っこにはきゅうりのぬか漬けと梅干しも。
こんな弁当、意中の女子からもらったら天にも昇るほど嬉しいって感じの内容だ。
だから俺の場合は天に昇らない程度に、ひっくり返りそうなほど超絶嬉しかった。
「めっちゃ美味そうですね! ではいただきます!」
早速唐揚げを食べてみる。モモの唐揚げはやっぱり正義。めっちゃ美味い。優しい味付けでいくらでも食べられそうだ。
次に卵焼き。口にいれると幸せを感じる甘い味付けだ。
この味大好きなんだよな。
激しい運動の後には最高だ。
「感想を聞きたいところだけど、その顔でもう十分かも。気に入ってくれてよかったわ」
心配そうに見ていた九条先輩だけど、俺の食べっぷりを見てホッと胸を撫で下ろす。
「いや、そこは言わせてください。めっちゃ美味いです! 先輩、なんでもできるって浅見さんから聞いてたけど、ホント料理も上手なんですね!」
俺の言葉に顔を真っ赤に染める九条先輩。
照れながらも、俺と一緒にお弁当を食べ始める。
「うん、なかなかかも」
「でしょ! さあどんどん食べてください!」
「なにそれ、作ったの私なんだけど!」
俺の軽口に先輩はくすっと笑う。俺もつられて笑ってしまった。
――せっかくお弁当を作ってくれて、役立つ講習を受けさせてもらって、ここまでしてもらってバイト断るのって人の道に反するのでは……。
軽く考えていたことに次第に重みを感じてくる辺り、自分の浅はかさに嫌気が差してくるな……。
「九条先輩はこの後どうするんですか?」
「今日はここに泊まって、明日帰るの。それと、明日はお父様がここに来るの。貴方と面談するそうよ」
「うわー……聞いてないですよ……」
「ふふ、大丈夫よ。多分」
悪戯な目をして俺をからかうように言ってくる先輩。
「蒼真くんさ、良かったら九条先輩よりも、名前で呼んでもらっても良いかな……お父様も来るんだし、ね?」
「ああ、そうですね……じゃあ、遥さん」
遥さんはくすぐったそうに頬を赤らめた。
「はい、蒼真くん!」
……可愛らしいなって思う。
恋愛感情ではないが、なんだろう。
最初は怖さを感じた彼女だけど、放っておけない何かを感じる。
言葉で言い表せないもどかしさだなこれは……。