第164話 秘密
母さんの手荷物はとても少なかった。
「ほんとにそれだけ? もう戻ってこないよ」
「うん、大丈夫。何もいらない……この男と関わったものは全部いらない……」
一旦は俺のアパートに向かうことにした。しばらくの間は俺の部屋で生活をして、この先のことを考えていこうと思う。
唐突に一人暮らしが終了してしまうのは残念だが、今はそんな事は言ってられない。
帰りの道中で母さんの半生を聞かせてもらった。
その内容は聞くに堪えない、とにかく谷口に人生を狂わされてきた悲しい話だった。
母さんが学生のころから付きまとっていた谷口。結婚後も度々絡んできたそうだ。
母さんを襲ったしばらく後に刑務所に服役する。――殺人だそうだ。
初犯ということで刑務所から出たのが俺が中学に入った頃。
そこからまた付きまといが始まり今に至る。
藤崎家がおかしくなったのと時期が一致する。すべての元凶はあいつだったことを理解した。
事あるごとに俺と父さんを殺すと脅していた谷口。
母さんの苦しみは想像を絶するものだっただろう……。
美咲さんも運転どころではなくなり、サービスエリアに車を停めて声を詰まらせて泣く。
その横で、俺も涙が止まらなかった。
よっぽどつらい目にあってきた事がよくわかったと同時に、自分の無力さ、情けなさも痛感した。
それ以上に俺たちに知られないように頑張ってきた母さんの強さを知った。
いや、正直言えば耐えて欲しくなかった。もっと相談するところもあったのでは……そこまで考えて、昨今のストーカー事件での被害者側の無力さを思い出す。狙われる側の何と不利なことか。
母さんがここまで耐える以外に最適解が思い浮かばない事が何より辛かった。
浅見さんには本当に助けられた。彼女が教えてくれなかったらこの先どうなっていたことか。
「一つまだ分かってないことがあるけど、どうして蒼真がうちで働いてるって知ったんですか?」
美咲さんの疑問に俺も気づく。そういや俺のバイトの話は父さんや母さんには特に言ってなかった。そもそも会ってなかったし。
「浅見さんって弁護士の方が一度来たの。拓真と離婚した後処理の話でね。その時に蒼真の話がでてね。今、可愛い彼女と一緒にアルバイトをしてるって。幸せにしてるんだなって……嬉しかったな」
なるほど、浅見さんが言ってた反社の男に囲われていると言う話はその時知ったのか。
美咲さんは腑に落ちない顔をしている。なにやら悩んでいるような、そんな表情だ。
「蒼真、うちに住み込む話って誰かに話した? どうも繋がりがまだ弱いんだよ。――やっぱり私は浅見を信用できない。なんか思惑があって、あの男にうちの情報が漏れるように仕向けたんじゃないかって。まあ勘だけどね」
美咲さんの言葉に俺は言葉を失う。勘とは言うが、適当な事を言う人ではないことは十分知っている。経験則から来るものだろう。
浅見さんは何かを隠してる。あるいは思惑がある。
俺も少しは考えたことがあるが、疑惑を確信にするにはまだ情報不足だ。
悪い人ではないはずだから何かしらの理由があってのことだろう。そう思いたい。
後部座席で母さんがすやすやと寝ている。
よっぽど疲れてたんだろうな。
辺りはすっかり暗くなっていた。
サービスエリアを出ようとする前に美咲さんが顔をしかめる。
「っつう……くっそ、あの男、人の胸好き勝手しやがって。痣になってないかな……」
力任せに揉んでたからな……痛そうにする美咲さんが可哀想すぎた。
「ああ、思い出しただけでもめっちゃ腹立つ……美咲さんの胸なんてあいつには勿体なさ過ぎた……」
「でも、ぺらぺらと余計なことしゃべったろ? ああいう馬鹿は調子に乗らせたらあんなもんだよ。――つうか蒼真、勿体ないって、あんたも触ってみたいのか?」
俺の返事を待つ前にぐっとニットを持ち上げ俺の手を取り胸にあてがう。
その不意打ちな感触に心臓が跳ねる。
「私だって嫌だったよ。ちょっと泣いちゃいそうだった。だからさ、上書きね。蒼真にならいくらでも触らせてあげるよ」
――平気なはずなんてなかったんだ。美咲さんの吐露に胸が張り裂けそうになる。
傷ついた胸を両手でそっと触れた。痛みを和らげるように優しくほぐすように。
……羽依には絶対言えないな。
「痣になってないよね? よかった~」
「大丈夫です……めっちゃ綺麗です……」
まだまだ老化を全く感じさせない張りのある触り心地に、今日あった嫌なこともすべて上書きされた。
――これって美咲さんの計算なのかも。
そんな風に考えると妙に納得できるのが彼女のすごいところだと思う。
この一件はもう触れないほうが良いと思ったので、最後の疑問を聞いてみる。
「美咲さん、プランDってなんですか? マサって誰? 谷口はどうなったんですか?」
矢継ぎ早の質問に、美咲さんは今日何度か見た儚げな笑顔を浮かべる。
「一つ目は……秘密。二つ目はランチの常連で古い友人だよ。三つ目――谷口は、もう藤崎家に関わることはない」
「え、それってどういう……」
「――蒼真、世の中知らなくていい事はいくらでもあるんだ」
……知ってしまったらどうなるんだろう。
それを知る勇気を、俺はまだ持ち合わせてはいなかった。