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第163話 衝突

 母さんは涙を流しながら床を見つめ、ぶつぶつとつぶやいている。

 かつて経験したことのない修羅場に頭がうまく回らない……。


 「蒼羽、あとで覚えてろよ……! いやあ美咲ちゃん助かったぜ! なんか武道でもやってたんか? 結構迫力あるもんな。よく鍛えてそうだよなあ! 胸筋すげえし」


 そう言って突然美咲さんの胸元に手を入れ揉みしだく。助けてもらった事を認められない腐ったプライドゆえの行動なのか。

 美咲さんは表情を変えずに、されるがままだった。


「……顔色ひとつ変えねえって大したアマだ。それはそれで可愛げがねえな」


 余りに現実味のない光景だった。

 

 だが俺の大事な人を辱めている事に心が激しく警鐘を鳴らす。


「何やってんだ! 今すぐその手を離せ! 」


「ああん? 甲高い声で喚くな。今美咲ちゃんと大事な話してんだからよ!」


 怒りが一気に頂点に達する。今すぐこの卑劣な男をずたずたにしてやりたい。目の前のハサミを取ろうとした時――。


「蒼真、怒りに身を任せちゃだめだ。私が我慢してる意味がないだろう?」


 まるで今日のまかないの出来栄えを語るように実に涼しい笑顔で言ってくる美咲さん。

 こんな目にあって、まだ我慢する余地があるのか?


「貴方、お名前は?」


「な~んだ美咲ちゃん、落ち着いたふりしてやせ我慢してるんだな! 俺の名前は谷口竜也だ。たっちゃんって呼んでいいぜ!」


「じゃあたっちゃん。うちの店に来た理由を聞いても良いかしら? なんで写真を撮ったんですか?」


 谷口はニヤーっといやらしい表情を浮かべた。


「蒼真が家族のように世話になってる店らしいからな。口コミ見たらえらい評価が高いじゃねえか! 看板娘もアイドル並みの可愛さだって。実際見たらえらい可愛い子ちゃんでびっくりしたぞ!二人ともカメラ写りがめっちゃよかったぜ!」


「それで? うちに来た理由は?」


 美咲さんの様子が明らかに変わった。

 しかし谷口はまだ気づいていない。

 無抵抗なのを良いことに、さらに両手で強く揉みしだく。

 美咲さんが少しだけ表情を歪めた。


「あの店、都内のいい場所だよなあ。俺、色々調べたんだよ。元々老夫婦の店を再建したのがあんたの夫。そして今の所有者はあんただ。うまいことやったよなあ! これも何かの縁だ。俺にもおこぼれあってもいいだろ?」


 言ってる事がおかしすぎて全く理解出来ない。


「おこぼれって……意味がわかりません。何がお望み?」


「そうだな……あのボロい店、キャバクラに変えてみねえか? 俺がプロデュースしてやるよ。一緒に儲けようぜ!」


「キャバクラねえ……。たっちゃんは何者なの?」


「おう! ちょっとした組と繋がりがあんだよ。けどよ、これは俺のスタンドプレイだ。こんなうまい話、下っ端にはまわってこねえからな!」


 美咲さんが抵抗しないのを良いことに、ペラペラと余計なことを口走っていることに気が付かない谷口。


 ――吐き気を催すほどの身勝手さ。もう、一刻も早くこいつの口を塞ぎたい。


「この男にかかわっちゃだめだ! 蒼真、もう帰って! ――酷い目に会うのは私だけで十分だったのに……この家に入れるんじゃなかった……」


「だまれ蒼羽! せっかくうちにホイホイ上がり込んだんだ。こんなチャンス逃がすはずねえだろ! 」


 男は興奮が抑えきれず、美咲さんの首筋を舐める。


「もう我慢出来ねえ! 蒼真、美咲ちゃんいい女だろ? 二人でやっちゃおうぜ! 女なんて抱いちまえば言う事きくんだよ! どうせお前まだ童貞だろ?」


 ――今すぐ殺す。


 明確な殺意を生まれて初めて持った。その時。


 谷口の手を払い除け、俺を包み込むように抱きしめる美咲さん。


「――蒼真、怒りに飲まれちゃ駄目だ。冷静になりな」


 冷たい家の中で血の気が引いて体が芯から冷えていた。

 美咲さんの温もりは俺の凍てつく殺意を溶かすようだった。

 でも――。


「無理だよ美咲さん……こんな男、殺す以外どうにもならないじゃないか……本当に俺の親なら尚更だ……」


「いいかい蒼真。まずあの男はあんたの父親じゃない。明らかに系統が違う。それとああ見えて小心者だ。いちいち声をデカくして威嚇していないと不安になるんだよ。あんたなら刃物なんて使わなくても絶対勝てる。試してみな!」


 笑顔で俺の背中をとんと叩く美咲さん。

 不思議と眼の前の男が小心者の小男に感じた。


「なにごちゃごちゃ言ってんだ! 蒼真、実の親を殺すって言ったのか! やんのかこら!」


 そう言って男は立ち上がり俺に向かって構えた。


「さっきからナマイキなんだよ! きっちり教育してやらねえとな! 骨の2、3本は覚悟しとけよ!」


 軽く深呼吸をして気持ちを整える。相手は190センチを超える巨漢だ。

 捕まったら最後。狙うは急所。


 ナイフを持った相手と対峙した時もそうだった。

 危機的状況になると逆に頭がスッと冴えてくる。

 ――適正があるのかな。

 そんなこと考える余裕も今は感じられた。


 野獣のような咆哮とともに男の手が伸びてくる――掴みに来てる。

 男の動きは素人じゃない。だが、道場で叩き込まれた体捌きが自然と出た。

 男からみたらきっと俺の姿は消えたよう感じただろう。

 体格差ゆえの結果だ。


 掌底を顎の下から上に思いっきり突き上げる。


「があっ!」


 がら空きの喉に追撃の喉輪を食らわした。

 男はもんどり打って倒れた。


「良いね! 蒼真、よく鍛えてるよ!」


 男は顎を押さえてじたばたしている。かなりの手応えだった。

 しばらくイモムシのようにもがいていたが、さすがにタフなようだ。

 膝をついて立ち上がろうとする谷口。

 俺はまた構えを取った。


「あ、蒼羽! てめえが悪い! ガキのしつけも出来ないてめえが悪いんだ!」


 がばっと立ち上がり母さんに向かっていく谷口。

 一瞬のことで出遅れたと思ったその時――。


「私の相手もしてくれよ。このクズ」


 後ろから首根っこを掴む美咲さん。


「なめてんじゃねえぞこのアマッ!」


 振り向きざまにフルスイングのパンチを美咲さんの顔面に放つ谷口。


 だが、そのパンチは届かずに変わりに破裂音が響き、男は叫び声をあげた。

 次の瞬間には谷口は床に沈み、完全に気を失っていた。目からは血を流していた。

 美咲さんの技は平手のようだったが、なにがどうなったのか全く分からなかった……。


 ――静寂が部屋を包み込む。


 美咲さんはスマホを取りだしどこかに電話をかける。


「マサ、プラン“D”を頼む……」


 電話を切った美咲さんは、視線を宙に彷徨わせ、唇を噛んだ。

 勝利の余韻もなく、寧ろその姿は悔しさなのか諦めなのか分からなかった。


「蒼真、蒼羽さん。もう大丈夫。すぐに支度しな。ここを離れるよ」


「無駄よ! 今までだってあの男はどこまでも追ってきた。逃げ場なんてないんだよ……」


「大丈夫。もう大丈夫だから」


 そう言って母さんの肩を抱く美咲さん。でも、いつもの美咲さんと表情が違って、どこか儚さを感じたのは気のせいだろうか。



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