第155話 真桜の気持ち
十二月二週目の土曜日。
いつものように羽依と美咲さんがお店の仕入れに向かう。
「真桜は今ね、見てて可哀想になるぐらい疲れてるの。癒やしてあげてね」
出掛けにそんな事を言って、触れるようにキスをする羽依。
何気ないスキンシップにほんのりと幸せを噛み締め俺はアパートに帰宅した。
真桜は大変さを表に出さないけど、羽依には分かるんだな。
俺も正直心配はしていたけど、彼女は常人以上の能力があるからな。俺がとやかく言うこともないのかとは思ってた。
今日は久しぶりに真桜が稽古をつけてくれる。
ここ数週間は真桜が不在のため理事長直々の稽古だったからな。
あれは辛かった……3時間程度の稽古が何倍にも感じられる特殊な領域だった。
あの爺さん、なんか俺に恨みでもあるのかな……。
いや、無償で指導してくれているのにそんな事考えてはいけない。いけないけど、同じ厳しいのなら可愛い子に厳しくされたほうが嬉しいに決まってるよな。
アパートに戻り、支度を済ませ結城道場へ向かう。
今日の手土産は初挑戦のフィナンシェだ。
わりと自信作だから喜んでくれると嬉しいな。
二人きりで会うのは彼女が髪を染めてからは初めてだ。
――あの日の晩の出来事は一生忘れられない。
学校ではまるで何事もなかったように、普通に接してくる真桜。
意識してないはずはないよな……。
今日はどんな表情を見せてくれるんだろうか。
自転車で向かうこと約十分。冷たい冬の北風が身にしみる。
――そういやここから1kmほど離れた場所に九条邸があるんだよな。
会長と副会長は少しぐらい仲良くなったんだろうか……。
その辺りも聞いてみたいところだった。
ドアホンを鳴らすと、すぐに真桜が出てきた。
俺を見て嬉しそうに微笑んでくるのはなかなかくすぐったい。
「いらっしゃい蒼真、どうぞ上がって」
迎えに出た真桜は、いつもの家着やお嬢様スタイルではなく、羽依のような可愛らしいガーリーなコーデ。
白いオフショルのニットと黒いチェックのプリーツミニの組み合わせはめっちゃ俺好みでドキッとした。
俺のために着てくれたとしたら嬉しすぎるな……。
リビングに入ると真桜が俺に抱きついてきた。その抱擁はとても強く、待ち焦がれていた事がしっかりと伝わってきた。
「蒼真……ずっと、ずっとこうしたかった。ずっと我慢してた。――少しだけこうさせてね」
甘えるような表情とは違う、ずっと耐えてきたような辛い表情を浮かべる真桜。その顔を見て胸がぎゅっと締め付けられた。
――平気なはずはなかったんだ……。
生徒会長選挙は、俺と羽依の為に九条先輩の対抗馬として立ち上がった事がきっかけだ。
選挙の落選から多忙な生徒会の仕事と、失意とプレッシャーはかなりのものだったはず。
学校ではそんな素振りを全く見せず、強すぎる彼女と俺は勝手に決めつけていた。
今までだって脆い部分を見てきたはずじゃないか……。
――よく頑張ったな。
溢れるほどの感謝の気持ちと尊敬の念を込めてそっと労うように抱きしめる。
潤む瞳で俺を見つめ、そのままそっと口付けを求める真桜。
一筋の涙が、彼女の頬を伝って落ちた。
俺はその想いを受け止めるように、真桜が気の済むまで、静かに口付けを交わし続けた。
「ごめんね、なんだか感極まっちゃって……今日貴方に会えると思って、ここ最近は頑張ってきたの……私を褒めてね」
可愛くもいじらしい言葉を紡ぐ真桜がとても愛おしい。
「えらかったね。本当にありがとう……俺も会いたかったし。今日は真桜に尽くすよ」
しばらくの間、抱擁は続いた。彼女の甘酸っぱい香りと女性的な柔らかさが俺を刺激する。
真桜と目を合わせると、元気になってきたようで表情に笑顔が浮かんできた。ちょっとニヤニヤしてる?
「ふふ、そろそろご飯にしましょう。このままだと蒼真に襲われてしまうわ」
そう言ってスタスタとキッチンへ向かった。
俺のやましい気持ちを察したか……ちょっと恥ずかしい……。
ほどなくして料理を次々に運んできた。
シーザーサラダにジャーマンポテト。
続いて現れたのは鉄板の上でジュージュー音を立てているステーキだ。結構でかいぞ……1ポンドはあるんじゃないか? 牛肉の焼ける香ばしい匂いが食欲をそそりまくる。思わず喉がなる。
「蒼真には本当に色々お世話になったわ。今日はその御礼も兼ねて、豪華にしてみたの。いっぱい食べてね」
柔らかい微笑みを浮かべて労いの言葉をくれた真桜。その優しさに胸の奥がじんわりと暖かくなった。
やっぱり真桜の事、ホント好きだなって思う。
「ありがとう、じゃあ遠慮なく。いただきまーす!」
和牛ではなく、US産のステーキ肉とのこと。
しっかり下処理をしてあって、肉の柔らかさ、噛み応えは完璧だ。肉本来の旨味がしっかりと引き出されている。
相変わらず料理スキルの高さに感心する。
「うん、焼き加減もばっちりだ。めっちゃ美味い! やっぱステーキならUS産のほうが肉食ってるって感じがする。このワイルドな感じが好きなんだよね」
「分かる! 和牛ももちろん美味しいけどね。ほら、旅行に行った時のあのお肉は素晴らしかったわ」
燕さんの知人のレストランで出された最後のステーキか。あんなのは生きてるうちに何度も食べられるものではないだろうな。
「あれはちょっと別格だよね……。学生が気軽に食べられる値段じゃないだろうし。俺たちにはやっぱ量がほしいよね~」
「そうよね! おかわりもあるからどんどん食べてね!」
「え、おかわりって……ステーキ? そんなに食えないって!」
「そう、相変わらず少食なのね……」
いやいや、なんでそんなに残念そうにするかな。
というか真桜は2枚目行くつもりだったのか?
相変わらずだと思うけど指摘はしないでおこう……。
すっかりお腹も満たされて一息つく。
真桜は食後のコーヒーを淹れてくれた。俺の手土産と相性が良さそうだ。でも、腹いっぱいすぎてちょっと厳しいかも。
「フィナンシェね。――あら、美味しいわね……バターの香りが豊かだわ。やっぱり自家製だと素材が厳選できるわね」
「それが良さだよね。洋酒を使ったらもっと香りが良くなるんだろうけど。その分バターはこだわってみたよ。違いが分かってくれるのは嬉しいな」
笑顔で美味しいって言ってくれるだけで十分満足なんだけど、真桜はさらに深いところを分かってくれる。作り甲斐があるよな。
ぱくぱくと笑顔で頬張る真桜がとっても可愛らしい。
さっきのステーキは別腹なんだろうな、きっと。
「生徒会はどう? あまり話きけてないけど、九条先輩とうまくやってる?」
「そうね、九条遥に毎日いびられてる……ってのは冗談。お互い雑務に追われて、いがみ合ってる余裕もないわ。でも、ようやく最近落ち着いてきたの。引き継ぎって面倒ね……」
「生徒会ってやっぱり大変なんだね。志保さんはいつものんびりしてたからさ。そこまで大変さを感じなかったけど、まあそんなはずないよね」
「単純に能力が高いのよね。あの人のすごさは同じ仕事をやってみて初めて分かるわ……」
真桜がそういうんだから間違いないんだろう。ポンコツの皮を被った優秀な人だったのは俺もよく知っている。
「髪を染めたのは勢い余ったとは思ったわね。落選直後での変化だったから噂とかすごくて……私がグレたとか髪染めバトルだったのかとか、散々な言われようよ……」
髪染めバトルって……そんな解釈もあったのか。
でも、真桜と九条先輩の不仲は表立ってはいないと思う。知ってるのはごく一部だ。世間では素敵な先輩後輩の間柄で通っている。
世の中知らなくてもいい事はとても多い。
彼女の髪にそっと触れてみると、くすぐったそうに首を引っ込める。さらさらのストレートでとても綺麗な髪だ。少し伸びたので根本がプリンのようになってきている。
「また染めるの?」
「ええ、次はサロンで染めるわ。燕さんに怒られちゃったの。自分で染めちゃ髪が痛むからだめって」
「燕さんらしいね~。確かに真桜の綺麗な髪が傷んだらもったいないな。でもお店だと高いし美容師トークに耐えないとね」
「会話は別に苦にならないわ。次はばっさり切ってパーマしてみようかしら」
くすくすと笑う真桜。すごいな、色々チャレンジしてみるんだな。
「理事長は何も言わなかった? 怒られたりとか」
「うちの学校の校則のゆるさはお祖父様が認めたことなの。校則違反でない限りは何も言わないわ」
「なるほど。理事長は話が分かるんだね。――稽古の時は理不尽極まりないのに……」
「それだけ見込みがあるのよ。いつも楽しそうに稽古のこと話してるわよ。次はもっと厳しくしようって」
「それは止めてくれ……」
にやにやと笑う真桜はとても質が悪い。
「ホントはね、タトゥーとかボディーピアスなんかも興味があるの」
そう言って俺の反応を伺うように覗き見てくる。
「うわっ、マジで? その綺麗な肌に傷つけるのは勿体ないって!」
きっと予想通りの返事だったんだろう。満足そうに頬を緩める真桜。
「貴方がそう言うならやらないわ」
俺が言うならって……。真桜ってそんなに尽くすタイプだったのか。
それよりも、タガが外れたように色々挑戦したがるのはなんなんだろう。
優等生の顔は真桜にとってそんなにも重荷だったんだろうか。
本気かどうかがいまいち掴めないのがやっかいだ。
そんな真桜が俺の耳元に顔を寄せてくる――。
「――ねえ、稽古の後に一緒にお風呂入らない? 貴方の言う綺麗な肌、よく見たい?」
「突然何言うの!? いや、見たくないはずないけど!」
「ふふ、じゃあ決まりね。さあ稽古に行くわよ!」
一体真桜はどうしたんだろう……。大胆すぎて心配なぐらいだ。
でも、俺の心は真桜と風呂に入ることで頭がいっぱいだ。
稽古どころじゃないって……。
いかんいかん……油断してたら怪我するからな。気持ちを切り替えないと……。
真桜も変なタイミングで言ってくるよな。まあわざとだろうけど。
それも彼女の性癖の一部なんだろうと思えば……少しだけ納得できた。