第148話 九条先輩と羽依
生徒会長選挙が終わり、俺たちは真桜の家へ向かう途中だった。
時刻はすでに十九時を回っていて、晩ごはんは途中で買っていくことにした。
「何が良いかしらね……この前はハンバーガーだったから、今日はカツ丼とか?」
「いいんじゃない。でも昨日食べるべきだったかも?」
「私は何でもいいから早く食べたい! お腹ぺこちゃん!」
出来るだけ明るく振る舞っている羽依がいじらしい。
ただ、思ったよりも重い空気にはならなかった。
もちろん、真桜の心中は穏やかではないはず。
二学期に入ってから文化祭実行委員副委員長を精一杯頑張った結果、彼女の評価はかなり高かったはずだった。そのうえで選挙活動を全力でやってきたんだから、勝算は低くなかったと思う。
運がなかったという事なんだろうか……。
でも今は、やり切った充実感のほうが勝っているように見えた。
真桜はかつやで得カツ丼とカツカレー松を購入。俺と羽依はカツ丼の竹と梅だ。
「貴方達、それで足りるの?」
「うん。っていうかそれ、前も聞いたよね? こう言ったら悪いけど……真桜、食べすぎだよ?」
何気なく言ったつもりだったが、真桜はぶすっと口を尖らせた。
「蒼真は女心が分かってないのね……選挙で負けたからこそのやけ食いなのに、そんな酷いことを言うんだ……」
わずかに声が震え、視線が落ちる。
しまった、と胸が冷える。
「あ、えっと……ごめん……そんなつもりじゃ――」
慌てて弁解しようとすると、真桜は口元を押さえて「ぷぷっ」と吹き出した。
その隣で羽依も肩を震わせて笑っている。
あー……これは今夜ずっと玩具にされるな……。
途中、ドラッグストアにも寄る。俺は用がないので外で待っていた。
十分ほどして、二人がキャッキャしながら笑顔で出てきた。俺を見て慌てて袋をバッグに仕舞う真桜。
「何買ってきたの?」
「秘密よ。まあ、後でのお楽しみね」
「んふ、蒼真は幸せものだね~」
「……?」
そんなやり取りをしながら、真桜の家に到着。
前回同様、居間ではなく真桜の部屋に通される。
シンプルながらも女の子らしい部屋だなと改めて思う。
前は部屋の匂いを褒めたら腹パンを食らったっけ……同じ轍は踏むまい――。
……いい匂いだよな。
「くんくんすんな!」
「ぐああああ!!」
言い切る前に腿キック。どうやら痛い思いは避けられない運命らしい。
落ち着いたところで、買ってきた晩ごはんを準備する。
部屋いっぱいにカツの香ばしい匂いが広がる。
真桜は熱いお茶を淹れてくれた。
勝って乾杯と行ければ……なんて思っても仕方ないな。
静かに残念会が始まった。
「真桜、今日はお疲れ様。結果は残念だったけどさ、勝負は負けてなかったんじゃないかな」
「そうね……でも、僅差じゃああまり意味がないわ。ぶっちぎりで勝って、あの女の鼻をへし折ってやりたかった!」
笑ってはいるが、その奥にわずかな影が見える。
一人になったら悔し涙を流すかもしれない――だからこそ、今夜三人で集まったのは正解だと思えた。
羽依は黙々と食べ進めている。いつもより早いペースだ。
「ごちそうさま!」
一番に食べ終えた羽依。ほっぺについたご飯粒を指で摘んで取ってやる。
「蒼真~、ありがと。でも、そこはチュってして取るところだよ!」
「ああ、はいはい。それより……話したそうだよね。九条先輩とのこと」
「うん。色んな話だったし……二人にも共有したい内容なんだ」
――――――
羽依視点
――数時間前、選挙の控室で――
控室の扉が閉まる音がやけに大きく響いた。
九条さんは、入り口近くで立ち止まる。
その顔はさっきまでの晴れやかな笑顔とは違い、何かを決意したような硬さがあった。
「……雪代さん。今日は、どうしても伝えたいことがあって」
そう言うや否や、九条さんは膝をつき、両手を床につき――三つ指をそろえた。
まさかの土下座に、私は息を呑む。
「やめてくださいっ、そんな……!」
背筋をまっすぐに伸ばしたまま、彼女は続けた。
「あなたが上級生の男子に襲われかけた、あの日のこと……。あの告白を、私が手伝わなければ、あんなことは起きなかった。――軽率でした。本当に、申し訳ありません」
その声は震えていた。プライドの高そうな彼女からの謝罪は、とても重く感じる。
「……もういいです、顔を上げてください。九条さんが私の悪い噂を信じてしまった話も、そんなこと望んでなかったというのも蒼真から聞いてます」
ゆっくりと顔を上げた九条さんの瞳には、後悔が滲んでいた。
「謝らなければならないのは、それだけじゃないの……」
彼女は一度深く息を吸い、言葉を選ぶように続けた。
「蒼真くんのバイトの件は彼から聞いてるわよね……。あくまで彼の家の事情を鑑みてのことだった。……けれど、貴方にとってはとても迷惑な話だったと思う。――彼からは未だに返事はないし、その話にも触れてこない。私は前よりもっと嫌われてしまったのかも……」
一瞬、心の底に黒い染みが広がったようだった。
胸の奥がざわつくと同時に、物事を俯瞰で見る冷静な私もいた。
この件は私が思うよりもっと深い事なのかもしれない。蒼真の事情ではなく“家”の事情と語る九条さん。それは一体……。
少しの間、九条さんのすすり泣く声だけが響いていた。
せっかく選挙に勝ったのに、わざわざ嫌な気分になる必要があったんだろうか……。
見た目の怖さよりも大分繊細な人なんだなって思う。
今の彼女はまるで悪戯を咎められて泣いている子どものようだった。
ほどなくして幾分落ち着きを取り戻し、姿勢を正しまっすぐ私を見た。
「私はいつも間違えてる。貴方にすぐに謝れなかったこともそう。こんなに時間かかってしまって……本当にごめんなさい」
九条さんは正座を続けるが、その佇まいは凛としている。ふと、綺麗だな……って思った。
「――選挙の結果は一つの区切りになるかなって思ったの。でも、票では私が勝ったけど、内容では彼女に勝てたとはとても思えない……何もかも中途半端なまま……」
無効票を足したら確かに真桜の勝ちだ。私も正直、負けたとは思っていない。
でも、それを踏まえる誠実さは心に響くものを感じる。
きっと彼女の精神は高潔なんだろうな……。
だからこそ、私の事が許せなかったんだ……。そして誤解と知った事で九条さん自身が傷ついていると――。
その不器用さには少しだけ共感を持てた。
「九条さん……そろそろ立ってください。私も、話しづらいんで……」
膝をついた姿勢では私も声を掛けづらい。椅子に腰掛けるよう促した。
「あ、そうね……ごめんなさい」
ようやく向き合って話すことができた。
綺麗な人だなって思うけど、みんなから酷く怖がられているし、私もそんなイメージを持っていた。
話さないと分からないんだなって思う。
九条さんも私の悪い噂を信じてしまった。
私だってそう。
お互い様なんだな。
だったら彼女の事も許さないといけない。
「もう、この話は終わりにしましょう。 告白の件は、もうあの男の退学で解決済みですし、バイトの件は蒼真が決めることですから。私は蒼真の意思を尊重します」
「雪代さん……。ありがとう……」
彼女の謝罪を受け入れた。
それから少し、軽い会話を交わした。内容はほぼ蒼真の話だった。
――中学の頃の話を少し聞かせてくれた。
九条さんの宝物という、中学の頃の“図書室で勉強しながら泣いてる蒼真”の隠し撮りを見せてもらった。
写真の中の蒼真は今よりも少し幼くて随分と華奢にみえた。
泣いてるその姿に胸が締め付けられる。
この写真は……欲しすぎる……くれないかな。
交渉の結果、そのうち譲るので少し待ってほしい――真桜との交渉材料に使う予定らしい――と言われた。
ほんの少しだけ、お互い歩み寄ることができた。それだけでも大きな成果に感じることができた一件だった。
控室を出ようとした時に、九条さんから思わぬ台詞が飛び出る。
「最後に、私は来年の秋にアメリカの大学へ進学するわ。生徒会長は一学期の終わりまでね……」
「ええっ……!?」
――――――
「そっか……アメリカに……」
思っていた話もあったし、踏み込んだ内容のものもあった。
さらに留学の話まで……。
自分の秘密をさらけ出すことで、誠意を示したのかもしれない。
なんとも不器用な人だと思う。
でも、羽依も感じたんだな。
話さないと分からないことは多いってことを。
「留学の話は知ってる人は少ないらしいから拡めないでだって。――というわけで、来年の一学期が終わるまで生徒会長を続ける予定らしいよ。その後は真桜にバトンタッチ」
羽依の話に、真桜はなんとも苦々しい顔を浮かべる。
「……なんだか中途半端ね……だったら選挙は辞退すれば良かったのに……」
「ん~、言っちゃって良いのかな。――やっぱりね、真桜の悔しがる顔が見たかったんだって」
「……っ!!」
ここで初めて真桜が思いっきり悔しがる顔を見せた。声にならない叫びを上げて、天を見上げるその表情は苦々しさでいっぱいだった。
九条先輩の前では頑張ったからなあ……。偉かったな、真桜……。
そっと真桜の頭を撫でると、ぶすっとしながらも、次第に目を細めていった。
お疲れ様、真桜。