第145話 羽依の声
壇上に上がった真桜。
九条先輩に全く劣らない、凛とした佇まい。
理由はうまく言えないが、不思議と安心感があった。
――ああ、この子が上に立つなら、きっと何もかもうまくいく。そう思わせる力を、彼女は持っていた。
ふと既視感がよぎる。
そうだ、中学の集会でも、きっと彼女はこうして壇上に立っていたはずだ。
当時の俺は学校生活にほとんど関心がなく、彼女の存在にも目を向けていなかった。
けれど今、こうして改めて見ると分かる。
俺は高校で初めて出会ったわけじゃない。間違いなく、以前から彼女を知っていたのだ。
妙な懐かしさと高揚感――そして、ほんの少しの切なさが胸に混じり合う。
「みなさん、本日はお集まりいただき、ありがとうございます。一年A組の結城真桜です。一年生という立場ではありますが、この学校をより良くするために、全力を尽くす覚悟で立候補いたしました」
こうして真桜の演説が始まった。
最近は「胆力が衰えた」なんて冗談めかして言っていたが、その姿からは十分すぎるほどの力強さが感じられる。
演説のテーマは、「自由と安全の両立」。
生徒がより楽しく、安心して学校生活を送れるための方策を語り、さらに勉強に励みたい生徒のための新たな施設増強にも触れた。
どれも彼女らしい、無理のない現実的な提案であり、その言葉には確かな説得力があった。
気づけば、会場の生徒たちは静かに耳を傾け、真桜の言葉を逃すまいとするかのように聞き入っていた。
「――以上となります。ご清聴ありがとうございました」
簡潔に言葉を締め、深く一礼して壇上を降りる真桜。
内容は素晴らしいの一言だった。熱のこもった言葉は、いつものクールな彼女とはまた違う一面を鮮やかに見せてくれた。
胸の奥がじんと熱くなり、気づけば小さくガッツポーズを取っていた。
――みんな、見ただろ。これが結城真桜だ。そう叫びたい衝動を必死に押し殺す。
九条先輩と真桜――二人の掲げる方向性は、はっきりと違っていた。
九条先輩は部活動の推進。真桜は自由と安全、そして学力増強。
この学校は部活動も活発に行われているだけに、九条先輩の目の付け所は的確にも思える。
一方で真桜の「自由と安全」という旗印は、俺にはとても響いた。
安全という言葉の重みは、羽依のような他者からの被害を身近で見てきたからこそ、よく分かる。
部活や勉強からこぼれ落ちた人間が、悪い方に進んでしまう場面を、俺たちは何度か見てきた。
その抑止となるような方策を考え、実行しようとする――それが、真桜らしいと思えた。
続いて推薦文の朗読。壇上に立つ志保さんが、九条先輩の推薦人からの推薦文を読み上げる。ちなみに九条先輩の推薦人は連名で部活動部長一同となっていた。インパクトは絶大だ。
続いて真桜の推薦人として、自ら書いた推薦文を読み上げる。
その瞬間、場内がざわついた。
三年生の現生徒会長が、一年生の候補を推す――その事実だけでも十分に衝撃的だ。
それだけに、聞き入る生徒の表情には驚きや興味が色濃く混じっている。
彼女のカリスマはこの学校では絶大だった。
次は友人による応援演説だ。
九条先輩が選んだのは取り巻きの女子ではなく、サッカー部の新キャプテン――“伊達先輩”だった。
この学校一のイケメンとして名高く、男女問わず人気者らしい。
「伊達先輩って、ずっと九条さん狙ってるよね! 友人代表に選んだって事は、もしかして……」
「キャー! お似合いすぎ! 二人は選挙が終わったら付き合うんじゃないかな!」
そんな声が近くの席から耳に飛び込んでくる。
確かに、あの二人なら絵になるな。
壇上に上がると九条先輩ににこっと微笑み、彼女も優しく手を振って返す。その瞬間、会場中から黄色い歓声が上がった。
なるほど……確かにこの学校の生徒会長選挙は“お祭り”ってわけだ。教師も注意するでもなく、完全に生徒の自主性に任せている。
「九条さんは、部活でも勉強でも手を抜かない人です。僕たちサッカー部とも積極的に関わってくれて、部員の意見を真剣に聞いてくれる。その姿勢に、何度も助けられました。生徒会長は、誰か一人のためじゃなく、学校全体のために動く存在だと思います。九条さんは、その資質をすでに持っている人です。だから僕は、九条遥さんこそ、この学校の生徒会長にふさわしいと信じています」
実にそつがない内容の演説だった。内容そのものよりも、「この人が応援している」という事実のほうが大きいのだろう。
盛大な拍手と歓声に包まれて演説を終えた伊達先輩。そのスター性は十分だった。
そして――羽依の出番がやってきた。
練習している姿は一度も見ていない。本当に大丈夫なのか……。
人見知りで男性恐怖症な俺の彼女。人目を引きすぎる容姿に反して、目立つことを好まない彼女が応援演説を引き受けた。
それは、きっと並々ならぬ覚悟があってのことだ。
壇上に上がる羽依。いくらか緊張の色はあるが、足取りは迷いなく、まっすぐ全校生徒を見据える瞳には怯む様子はなかった。
「一年A組、雪代羽依です。私が今日ここに立っているのは、友人の結城真桜さんを、心から応援したいからです」
羽依の演説が始まった。声は明瞭で落ち着いたトーンだ。
「真桜は、優しい人です。でも、その優しさは、ただ甘いだけじゃありません。相手のために、本当に必要なことを考えて、時には厳しいことも言ってくれる。そんな誠実さを持っています。私は……人を信じることが苦手でした。困っていても、誰かに助けを求めることができなかった。そんな私に、真桜は迷わず手を差し伸べてくれました。何度も、何度も。言葉だけじゃなく、行動で支えてくれたんです」
会場は水を打ったように静まり返る。
彼女がその類まれな容姿ゆえに、これまで多くの被害を受けてきたことは、周知の事実だ。
だからこそ、その言葉には揺るぎない説得力があった。
「私だけじゃありません。真桜は、困っている人を放っておけない人です。相手が誰であっても、損得なんて考えずに向き合う。私はその姿を、ずっと近くで見てきました。もし、この学校の生徒会長が真桜だったら。きっと私たち一人ひとりの声を聞いてくれるはずです。部活動を頑張る人も、勉強に励む人も、ちょっと立ち止まってしまった人も、みんなの居場所を守ってくれるはずです。だから、私は心から結城真桜さんを推薦します。真桜、私の大切な友達でいてくれて、ありがとう」
羽依の応援演説が終わった。
静まり返った場内から、すすり泣く声が微かに響く。
ほんの一瞬の静寂――次いで、体育館を揺らすような大きな拍手が巻き起こる。
壇上から降りるや否や、真桜は堪らず羽依に駆け寄り、強く抱きしめた。
その頬には涙が光り、口元は確かに「ありがとう」と動いていた。
――羽依の声は、確かに届いた。
熱気に包まれた体育館の中で、今の優劣なんてどうでもよく思えた。