9 さようなら
3日後、仕事が終わって花屋を出ると、ウィルさんが待っていてくれた。
「お疲れ様」
「待たせてごめんなさい」
「僕が早く迎えにきているんだから、気にしないで」
ウィルさんの腕に私の腕を絡めれば、髪にキスを落とされる。
「ルシルは何を食べたい?」
「ウィルさんと家でゆっくりしたいわ。昨日から準備していたの」
「ルシルの作るものは全部美味しいから楽しみだな」
「当たり前よ。愛情がたっぷり入っているんだから」
一緒に食事をする時は、いつもウィルさんのことを考えながら作っている。
ウィルさんは和やかな表情で「嬉しい」と伝えてくれた。
部屋に入り、ウィルさんには座って待っていてもらう。
エプロンを身につけて、乾燥ラザニアを茹でた。前日に作っておいたミートソースとホワイトソースとラザニアとチーズを順番に重ねる。
オーブンに入れて焼き上がるまでに、サラダとコンソメスープを作った。
ウィルさんが私を後ろから抱きしめる。
「どうしたの?」
「すごくいい匂いがして」
「我慢できなかったのね」
小皿にコンソメスープをよそって味見をしてもらう。ウィルさんがもっととねだるから、もう一口渡した。
そのまま抱きしめられながら、焼き上がるのを待つ。
ウィルさんの腕の中は心地が良くて、彼の胸にもたれかかった。私の身体の前で組まれている腕に手を添える。
明日なんて、こなければいいのに。
焼き上がると、食事をテーブルに運ぶ。
滑らかな口当たりと、果実味が合わさった赤ワインをグラスに注いだ。
ウィルさんがイスを引いて座る補助をしてくれた。私の前にウィルさんが座り、一緒に食べ始める。
「美味しいよ。ルシルの作る食事を食べられて、僕は幸せ者だね」
「ありがとう。……本当にそう思っているの?」
「本当だよ。僕はルシルに嘘なんてつかないよ」
とびきりの笑顔を向けられる。
嘘をつかないと言うのなら、ナイル・クレマーとは誰なのか。
ボスの話ではウィルさんで間違いない。ウィルさんが嘘をついていないというのなら、ボスが嘘をついてウィルさんを暗殺させようとしているということになる。
……考えるのはやめよう。頭を振って、中を空にする。
今日で最後なのだから、楽しく過ごしたい。今日だけはウィルさんの言葉を全部信じよう。
「ウィルさんは私の作る食事は何が一番好き?」
「一番か、迷うな」
食事の手を止めて、ウィルさんは「うーん」と唸りながら悩み始めた。
「バースデーケーキかな」
私の誕生日はボスに設定されただけだから、実感なんてなかったし、祝いたいと思ったこともなかった。ウィルさんと一緒と知った時に、初めて心から誕生日を祝えた。自分のではなく、ウィルさんの誕生日だから。
2人で祝うために、スポンジケーキを焼いて、生クリームとたっぷりのフルーツで飾り付けをした。
ウィルさんのことを思いながら作った。
「次の誕生日にも作ってよ」
今日で最後なのに、未来の話をされて心が揺らぐ。私が普通の花屋の店員なら、何も考えずに頷いていただろう。
私に未来なんてないのに。
「そうね。私もバースデーケーキは美味しくできたと思うわ」
私は口の端を広げる。
作るなんて言えなかった。言ってしまったら、ウィルさんとの将来を望んでしまいそうで。
私はラザニアを含む。自画自賛してしまうほど美味しい。ウィルさんと付き合ったことで、料理の腕は確実に上がった。彼に喜んで欲しかったから。
食事が終わると、一緒に片付けをする。
お風呂も一緒に入って体を洗い合い、狭い湯船にくっついて浸かる。
ウィルさんは私の身体を丁寧に拭いてくれた。ベッドに乗って、ボディクリームも塗ってくれる。
「僕、この匂い好きだな。ルシルと同じ匂いだから」
ウィルさんの手のひらは、私の身体と同じ香りがする。その手に頬を擦り寄せた。
「ウィルさんが私と同じ匂いなの嬉しいわ」
抱きしめられてキスをされる。
「ルシル」
艶のある声で名前を呼ばれ、私はウィルさんの背中に腕を回した。
「ウィルさん、大好きよ」
「僕もだよ」
ベッドに背中が沈む。時間も忘れて愛し合った。
先に目覚めたのは私だった。
まだ空は薄暗い。
私は一晩中ウィルさんに抱きしめられていたようだ。大好きな腕の中を堪能する。
「本当はウィルさんなの? ナイルさんなの?」
穏やかな寝顔に問いかけても返事はない。
睡眠中という無防備な状態だ。今なら難なく殺せる。
ウィルさんの首に指を這わせた。
でも、どうしても彼を殺すことはできない。
ウィルさんの身体に腕を回し、胸に顔を埋めてキツく抱きしめた。
「ルシル、おはよう」
「ウィルさんおはよう。起こしてしまったかしら?」
「こんな起こされ方なら大歓迎だよ。毎日ルシルにこうやって起こして欲しいくらいだ」
「そうね」
やっぱり未来のことを、自分で言葉にすることはできなかった。
ベッドの中で時間までピッタリと引っ付く。
着替えて玄関でキスをした。
「ウィルさん、いってらっしゃい」
「ルシルは今日は休みなの?」
「ええ、今日はお掃除をするわ」
「そう、いってきます」
もう一度キスをして、ウィルさんは部屋を出た。玄関の扉が閉まる音で、心の中が冷え切った。もうウィルさんに会うこともない。
「さようなら、ウィルさん」
扉越しに呟いた。
ボスにもらったウィルさんに関する資料は燃やした。でも写真だけは破棄することができなくて、上着の内ポケットにしまう。
私がいなくなって、最初にこの部屋に入るのは誰だろう。明日の朝、仕事に来ない私を探しに来たレベッカだろうか。私を心配してくれるのは、レベッカしかいない。
紙とペンを取り出して、テーブルについた。
ペンを持って書くことを考えていると、紙にインクが染みて汚れる。
紙に水滴が落ちた。私の瞳から溢れて止まらない。
私は怖いんだ。死ぬことがではない。一人になることが。大好きなウィルさんやレベッカに会えなくなることが。
奥歯を噛み締めて、声を殺して泣いた。
ひとしきり泣いて落ち着く。
涙で濡れた紙はインクが滲み、紙はふやけていた。それを丸めてゴミ箱に放り投げる。紙はゴミ箱の淵に当たって床に落ちた。
肩を落としてそれを拾い、ゴミ箱に捨てる。
もう一枚紙を取り出す。
レベッカに何を書こう。
暗殺訓練が終わり、私がここに住み始めてからずっと良くしてくれる。店主としても友達としても、私はお世話になりっぱなしだ。
書きたいことは多いのに、何から書けばいいかわからない。
何枚も紙を無駄にして、ゴミ箱は書き損じた手紙でいっぱいになった。
ペンを置いて、肩の力を抜く。
背もたれに身体を預け、天井に目を向けて大きく息を吐き出した。
まとまらないから、一番言いたいことだけを書こう。
『大好きなレベッカへ
私はレベッカに出会えて、初めて人の温かさを知った。貴女に出会えて幸せだった。ありがとう』
私が花屋で働き始めて三年経っている。思い出はたくさん頭の中で浮かぶのに、こんなに短い文章しか残せない。
折りたたんで封筒にしまい、テーブルの真ん中に置いた。
その後は武器の手入れをする。持てるだけ持っていこう。
拳銃を分解して、錆などがないことを確認した。ナイフは砥石で研いで、防錆油を塗布する。
黒のトップスとパンツに着替えた。
ナイフをレッグホルスターに刺し、拳銃はヒップホルスターとショルダーホルスターにしまう。
弾をカートリッジホルダーに入れ、ベルトに取り付けた。弾は足りるだろうか。足りなければ、奪うしかない。
上着を羽織って、身体に仕込んだ武器を隠す。
空が闇に染まった頃、私は家を出た。名残惜しいが、もう戻ることはない。
私は音も気配も消して、人目につかない路地を駆けてマリーノファミリーの本拠地に向かった。