第17話 これ以上なくやさしいひと
「よし、できた。こんなに手間かけさせて……さあ、埋め合わせ、当然するよね?」
ぼくはすこし湯気がでているかもしれない。このひと、分かってやっていたのなら、ぼくにとんでもないことをしてきたのだ。ダメージが大きい。蒸発する……
ほどけたネクタイを直すのに首元に触れられつづけて、あたたかくこそばゆい吐息にさらされつづけて――このひとエアロックの中では耳まで真っ赤になっていたのに、どうしてこんなことを……
「ねえ、わたしのなまえ。おぼえてよ、からなず」
うん、おぼえる、おぼえるから……!
「わたしは、85K-L1LY。いい? 復唱!」
「ふ、復唱。85K-L1LY……おぼえました」
85K、85K……つぎからは、絶対この名で呼ばないと。
彼女はちょっとくちをとがらせていたいたが、急にやさしい笑顔をみせた。
「おちついた? 船長さん」
おちつかないです、85Kさん。むしろあなたが乱しました。
あれ、そういえば、このひといつから敬語をやめたんだろう。
印象がだいぶちがう。こんな雰囲気もするんだ、このひと。
「あなた、ちょっとこわかった。人をあんなふうにして……そりゃあ、あの人たちはわるいことをしたんだけど」
ああ、そうか――
ぼくはすこし、理性を失いかけていたか。
その状態では、あれがふつうなんだだけど。このひとはそれを知らないんだ。
「あなたはきっと、いいひと。だからわたしはあんな姿みたくない。わたしがこわかったのは、あなたがあなたでなくなること」
ぼくが、ぼくでなくなること――か。
そうだ。このひとは、知らない。まだ、なにも。
ぼくのほんとうのすがたは、むしろ……
――このひとはぼくのことを、なにもわかってない。
ぼくのその姿がこわい、というのなら……あなたは、ぼくのそばにはいられない。そのうち――そう遠くないうちに、その時がくる。
「……7ST、だいじょうぶ?」
顔をのぞきこまれた。
黒いひとみが、ぼくをみつめている。
「本当のぼく」は、いまとはちょっと違うのだけど……
このひとは、すこし理性を失ったぼくから逃げずに、ぼくに害される危険をおかしてまでぼくに理性をとりもどさせた。
そんなこのひとの気持ちにこたえるのも――いまのぼくの義務、なのかな。
……できるだけ、理性的でいよう。彼女がみたくない姿を、なるべくさらさないように。
「うん、だいじょうぶだ……85K、きみのおかげで」
彼女はぼくのことばをきいて、ぱっと花のような笑顔をみせた。
・・・・・・
彼のほどけるネクタイは、さんざんわたしを手間取らせてくれた。
それでもかろうじて、わたしはその強敵をねじふせた。
きりっと締まったネクタイは、彼を一段とかっこよくみせている。
そして……ついにわたしは、彼に手をかけられなかった。
このひとは、いや、こいつは、やっぱりわたしのなまえを覚えていなかった。
あなたのネクタイ相手に、ここまで善戦したのだ。埋め合わせは、きっちりしてもらおうじゃないか。
「ねえ、わたしのなまえ。おぼえてよ、かならず」
彼はただ、こくこくとうなづく。
わたしはちょっと気分よくなって、復唱までさせた。
よーし、復唱したな。したからには、おぼえなさいよ。つぎはないぞ。
でも――よかった。これでもう大丈夫そうだ。あの血まみれの彼は、もう見えない。なんだか呆然としているようだけど、階段室の照明がくらくてよくみえない。
「おちついた? 船長さん」
ちょっと首を振ったようにもみえたけど、気のせいだろう。
あれ……わたしいつから敬語つかってなかったんだろう。
おこられないから、このままでいいかな。
このひとは、わたしのヒーロー。そしてわたしの王子様。ずっとずっと、そうであってほしい。
このひとのほんとうの姿は、きっとそれ。あの血まみれのすがたは――なにか分からないけれど、ほんとうのこのひとじゃない。
わたしは彼にそのことを言ったが、彼はなんだか複雑な表情をした。
うん、そうだ――
かならず、これには事情がある。わたしのしらない、なにかたいへんなものが。予感が――とてもいやな予感が、このひとからする。
それはいまさっきしていた、ピュアな少年少女みたいな触れ合いで、解決できるものじゃないと思う。そんな簡単なものなら、もう彼が自分で解決しているはずだ。
でも――いま、わかったことがある。
まず、彼はやっぱりやさしいひとであること。
そして、もしそうでなくなっても――わたしは彼を引き戻せる、ということ。
わたしは、彼のことをなんにも分かっていない。もし彼に「お前に、おれの何がわかるんだ!」と言われたら、わたしは何もいうことができない。
だから、すこしずつでも、あなたのことを分かりたい。
もうしばらくは、いっしょにいたい。
……。
でも、できれば……
すっと、いっしょにいたいな。
一生のなかで、死のふちから落下したあと、すくいあげられた経験はなかなかないだろう。いや、いちど死んでしまったから、「一生」といえるだろうか。わたしはもう、実質2回目の人生だ。
キスひとつでわたしの目をさまさせた王子様と、かんたんに別れてしまいたくない。
彼の表情は、まだすこし暗い。
「……7ST、だいじょうぶ?」
わたしがそう言うと、彼はわたしに視線をむけた。おたがいの黒いひとみが、みつめあう。
「うん、だいじょうぶだ……85K、きみのおかげで」
ようやく呼んでくれたなまえと、「きみのおかげ」ということば。
そう、わたしのおかげ……
返答はことばじゃなくて、いちばんきれいな笑顔にしよう。
・・・・・・
彼女の花のような笑顔をもらって、それから――
ぼくたちは、うす暗い階段室の踊り場にふたりで座って、このさきの計画を話し合った。
操舵室の奪還、制圧……それが重要目標であるのに変わりはない。また、本船の乗っ取りを企てた9名の乗船者については、全員拘束する。もはや彼らを、お客さん扱いすることはありえない。
それから尋問が必要だ。だれが、なにをしようとしたか。この船に対してどれほどの危険行為をはたらいたか。それによって、処罰がかわる。
法律上、乗船者への処罰は船長の権限で行うこととされている。今回は船内の秩序維持のため、絶対にやらなくてはならない。
それからひとつ、彼女が重大なことを気づかせてくれた。操舵システムについて。
ぼくはながい時間をかけて、心血をそそいで作り上げたシステムの設定を無遠慮にいじられるのが我慢ならなかった。理性を失った主な原因も、それである。
「7ST、わたしはあなたを、とってもいい船長さんだと思ってる。とうぜん、実務もしっかりしてるよね……ネクタイずれてたけど」
はい、ずれていました。
「そんなあなたが、実務の面で……だいじなシステムのバックアップをとっていないとは、思えない。さいごにバックアップをしたのがいつか、にもよるけど――たとえ設定をめちゃくちゃにされても、復元はできないの?」
バックアップ……からの、復元?
……。
なんてバカなやつなんだ。
ぼくは操舵システムがいじられていると聞いて、もう頭に血がのぼってしまっていた。
早く操舵室を取り戻さないと、たいせつな操舵システムが失われると思って――
そうだ、バックアップから復元できる。いじられたのが操舵システムだけなら、復旧にそれほど時間はかからない。バックアップデータは、古いものから最新のものまで、すべて保存してある。最新のものに不具合が出たら、以前の仕様にロールバックすることもできる。
船を大規模整備に出すとき、現地の整備員が乗り込んでくる。そこにたまに不届き者がいて、設定を勝手に変えたり、消去したり――ひどいときには、システムそのものを破損させられたこともあった。
だからバックアップは、かならずとっている。
ぼくは軽率にも、それを踏まえず行動した――このひとを巻き込んで。
「面目ない」では済まされない、なんてうかつな。
「ごめん……すっかり忘れてた。そう、バックアップをとってある」
ばかにされる――と思ったが、彼女はぼくをみて、やさしく微笑んだ。
「よかった……ちゃんととっていてくれたんだね」
……これ以上なくやさしいひとだ。
このひと、いったいどんなひとなんだろう。まだぼくにみせていないすがたを、どれだけ秘めているんだろう。
ちょっと、知りたいな。
「うーん、あと問題は……ねえ、そのデータ、どこにある? アクセス権限は?」
それはいい質問。
ここまでいいところのなかったぼくが、胸を張って答えられる。
「データはメインの記憶装置と、サブシステムの記憶装置に同じものがある。アクセスするには認証コードと、生体認証が同時に必要だ。おれしかアクセスできない。それと、船内の『ある部屋』に後付けの記憶装置を置いてあって、そこにもデータが入ってる」
「『ある部屋』、って……?」
彼女はきょとんとした。
「メインとサブの記憶装置は、『主コンピュータ室』と『補助コンピュータ室』にある。だから船内の見取り図で、場所はすぐわかってしまう。もし破壊工作をされたら、打つ手がない。だから用心して、べつの部屋に3つめの記憶装置を隠してあるんだ。船のシステムとは完全に切り離してある」
「――ああ、そっか。なら、仮に全システムを掌握されても、3つめの記憶装置には手が出せない。その部屋の位置が、知られないかぎりは」
まあ船体そのものが爆散でもしたら、システム関係なくぜんぶ吹き飛ぶんだけどね。
けど、これですこしは余裕ができた。いじられた設定は、あとから完全に復元できる。ぼくの育てたシステムは、失われない。
あいつらは、勝手にシステム設定をひらいて、勝手に混乱している。航海システムの設定をいじくっているのなら、まだ出航はできないはずだ。
大丈夫。あせる必要は――ない。
85Kが、ぼくをみつめる。
「だいじょうぶ? もうすこし休む?」
体力は問題なし、精神も安定している。
いける。
「こちらはもう行ける。きみはどう?」
「階段、ゆっくりにしてもらえれば」
そう言ってから、彼女は急に目をそらした。
「……わたし、えっと、さきに行く? その、わたしのほうが、おそいから」
――だめだ。
たしかに、おそいほうが先行すれば、置き去りは発生しない。
でも、きみ自身わかっているだろう。その服装ではたいへんなことになる。ここできみの尊厳を、うばうことはしたくない。
それにもし、銃を持った者が階段の上にひそんでいた場合……不意の銃撃を受ければ、先を行く者が被弾する。
「おれが行く。きみはあとから。最初にそう決めたでしょ」
「でも……やりにくくない? わたし、あなたについていけるか――」
ぼくは彼女の顔をみて、笑顔をつくる。不敵な笑み――に、みえるといいけど。
「だめ、おれが先行。大丈夫、待つよ。かならず。ここまでおれを助けてくれたんだ、きみといっしょに行きたい」
ちょっとくどい台詞だったかもしれない。
だから彼女の反応をみれなくて、ぼくはすこし顔をそむけた。
ふたりでいっしょに立ち上がり、ぼくが先行で階段をのぼりはじめる。ゆっくりと。もっとも警戒すべきは、上方からの突然の銃撃。
あともうすこし上が、操舵室だ――