第8話
リハビリを終えて帰宅すると、ルカの姿はなかった。
強引に俺から奪い取ったテニス雑誌は机の上に置かれ、観ていたはずのDVDは元の場所に戻されていた。
「帰ったのか……」
何だ、珍しく帰りが早ぇじゃねぇか。
いつもは帰れと言っても就寝時間ギリギリまで部屋を占領しているくせに。
コートをクローゼットに閉まった俺は、ベッドに体を投げ出した。
部活程の運動量はなかったのに、じんわりと汗をかいている。息はあがっていないが、火照った体を休めたかった。
「俺の体もなまったもんだな……ふっ」
勝手に笑いが漏れる。
今日のリハビリは調子が良かった。
足の痛みがなくなったわけじゃないが、以前より間接の動きに壁がなくなった気がする。思い込みとかじゃなくて、先生のお墨付きだから、真実回復しているってことだ。意外と、年明けくらいには走れるようになっているかもしれねぇな……。
俺の口元は緊張感がなくなっていた。
もう、走れるようにはならないかもしれないと、そう思っていた。誰もが気を使って口にしないだけで、俺はもうテニスができねぇんだって思ってたのに。
全くの成果を見せなかったリハビリも、ちゃんと効果があったって事なのか。
「守護霊か……まさか、本当にあいつのおかげでもねぇだろ……」
腕を枕元へと伸ばすと、ドサッと何かがベッドから落ちた。
「あ?」
ベットサイドを覗き見ると、落ちたのは妹から借りていた本だった。表紙には「エンジェルの空」 と書かれている。
ひょいと拾い上げて、パラパラとめくった。守護霊とか天使とかいう類のことがよく分からなくて借りた本だ。ルカが現れなかったら、俺には一生無縁なジャンルだっただろう。
フルカラーのマンガチックなイラストで天使が描かれていて、そのどれもが恐ろしく肢体の整い、美しい顔の人間に真っ白い翼をつけたフォルムだった。複数の翼を持つ天使もいるらしい。
「神の御使いか……」
ルカがもし、神の使いだとしたら……その目的は……?
なんだよ俺。
足が治り始めたら、都合よくルカを天使扱いかっ。
俺は本を閉じた。
本に描かれている天使ほどルカは美麗じゃない。言葉遣いも荒っぽいし、態度だって図々しいことこの上ない。神々しい光だって纏ってねぇし。
でも、翼は持っている。
真っ白くて白鳥の様な綺麗な左翼に、艶のある漆黒と白とのモノトーンの右翼。
あれが作り物だとしたら、そいつはきっとどこかの有名な劇団や映画スタッフの一員に違いないと思わせる程の出来栄え。そう、素人の俺は感じた。
もしかしたら、ルカは、人間じゃなくて本物の天使……なのか?
――チクリ
あ……れ? なんだ? 胸が……痛い?
妙に胸がざわついた。
けど、ちょうどその時ドアがノックされて、すぐにその事を忘れた。
「お兄ちゃん、ご飯だって~。お兄ちゃーん? 聞こえてる~?」
酷く面倒臭そうに言う妹に向かって、扉越しに返事を返す。
「ああ、後で行く……おい、ちょっと待て美郷」
「はい? なぁーに~?」
ベッドから急いで飛び起きた俺は、廊下にいた妹に借りていた本を突き出した。
「……返す。助かった」
俺にはもう必要なかった。ルカが天使かどうかなんて、どうでもいい事だ。俺は、俺の信じたようにするだけだ。
「ああ、天使の本ね。お兄ちゃんがこんなのに興味を持つなんて珍しいよね? 何か調べてんの? なんなら他にもあるから貸してあげよっか? あっ、そうだ! それより、お兄ちゃん? ハイ」
「あ?」
本を受け取った美郷は、手の平を俺の前に差し出していた。
何のことだか分からない。
「……だーかーら~、いつも言ってるでしょう? 何事もギブアンドテイクなの。いくら優しい妹だからってタダで借りようなんて思ってないよねぇ? えっと、マイジの冬季限定チョコで手を打ってあげるよ」
「は? 何言ってんだ、本貸したくらいで。そんなもん自分で買えっ」
直ぐにでもチョコレートが出てくると思っていたのか、美郷は頬をプクーっと膨らませた。
「なによーーー! お兄ちゃんのケチーっ! 悪魔っ! ぜんっぜん優しくないんだから。天使に興味あるなら、少しは四大天使ミカエル様の慈悲深さを見習えってーのぉ~」
「ミカエル様? 何だそりゃ? 四大天使? っつーかケチじゃねぇっ」
美郷は不満そうな顔で俺を睨んでいた。
「お兄ちゃん、本当に本読んだの? 大天使って言ったら一番偉い天使なんだよ? ガブリエル様とかさ」
何でそんなに自慢げに話す?
「……天使が偉い? 階級があるって事か?」
「そうだよ~。偉くなると翼の数とかも増えるし、セラフィムとか翼が6枚あるんだよ」
ふいにルカの姿が脳裏を過ぎった。あいつの翼は2枚だ。
「……それは、見た目で分かるもんなのか?」
「ん? 階級? ん~……絶対ってわけでもないんだけどぉ。何で?」
ルカは、どのくらいの位置付けなんだろうか?
「いや……翼が2枚とかは普通なのか? 見た目は、人間みたいだしなぁ……翼の一部が黒いとか、特別なのか?」
「はぁ?」
美郷は素っ頓狂な声を上げたまま、変わり者を見る目で俺を見ていた。
なんだ? 何かまずい事でも言ったのか?
「何言ってんの? お兄ちゃん? 天使の翼は白に決まってんじゃんっ。羽が黒かったら、それ悪魔じゃんっ」
「………………えっ?」
今、何て? アクマって言ったのか? 俺の空耳か? 聞き間違いなのか?
「お兄ちゃん? おーい? 聞こえたぁ? 黒い翼は悪魔だよぉ、ア、ク、マ。もぉ、ちゃんと読んだの? ほら、まだ貸しててあげるから」
「あ? あ……あぁ……」
本を押付けられた俺の頭の中を、美郷の言葉がグルグルと回っていた。
アクマって、悪魔だよな……? それって、天使と正反対じゃなかったか……?
「ってことで、お兄ちゃん。やっぱり、マイジのチョコと交換って事で、ヨロシクー。じゃあ、ご飯食べてこよーっと。お兄ちゃんも早く降りてきなよね~」
美郷は階段を下りていった。
頭がぐわんぐわんと揺れていた。
返事をした事も自覚していなかったらしい俺は、そのまま部屋へと引き下がり、気が付いたときには夕食も食べずに寝てしまっていた。
ルカが悪魔って……どういう意味だ。