第7話
俺の守護霊だと思っていた、翼の生えた女――実際には少し違うらしいのだが――は、学校から帰宅して部屋のドアを開けると、ヘッドホンを耳に当てて真剣な顔つきでDVDを見ていた。
女……もといルカは、連日俺の部屋に入り浸っていた。俺が学校から帰宅すると勝手に部屋に居座っていて、夜になるとどこかへ帰っていく。何処から来て、何処へ帰るのかは知らねぇが、テニスを覚える為にルカが通ってきている事だけは確かだ。
出入口は部屋の窓。なんか悪い事をしているような妙な気分だった。
それにしても、何故こんな事になったのか。きっかけは、俺に謝罪する為だと言って、ルカがラケットを持参してきたことだったが、グリップがあまりにも大雑把だったから、思わず俺のテニス魂に火がついちまったのが初めだった。その場でDVDや雑誌を見せたり、実際に素振りさせたりして教えたが、一日で上手くなる筈もなく、最後には初心者用のテキストを渡して帰したはずだった。
それなのに次の日の朝、俺が起きるとルカは、ジャージ姿でテレビの前に座っていた。驚いた俺が、「朝っぱらから人の部屋に忍び込むなっ」と怒鳴ると、次の日には、俺が学校に行っている間に侵入した。
おかげで、9時頃に仕事へ出かけていく母から『誰もいない部屋でテレビの音がする』と説教を受けたり、先に帰宅した妹に『お兄ちゃんの部屋で変な物音がする』と気味悪がられたりした。
何してんだっお前はっ! と怒鳴ってはみたが、平然とした顔でテニスの練習と言われた日には、怒る気力も萎えた。
俺は、テニスのDVDを見てるルカに気付かれないように、そっと鞄を机に置いた。
「あ、智明。おかえりーーー」
音は立てなかったつもりなのに、ルカは振り向いた。
「あぁ、ただいま。見てていいぞ。俺は、これからリハビリに行ってくるからな。変な物音立てるなよ」
外したヘッドホンを首にかけたルカは、胡坐をかいてベッドに座っている。
「分かってるよ。ねぇ、新しい雑誌ない? ベストコートだっけ?」
「ああ、今月号か? さっき買ってきたけど、ド素人のお前にはまだ早いだろうが。どうせ読んでもわかんねぇだろ?」
それに、気に入っている雑誌だから、一番に読みたい。
「えーーーーーー。いーじゃん。読みたいよー、見せろよーケチー」
「ケ、ケチじゃねぇっ」
胡坐をかいたまま体ごとこっちを向いたルカを見て、俺はドキッとした。ジッパーの少し下りたジャージの間から白いTシャツが覗いている。
テニス漬けの毎日を送っているだろうルカの服装は、ロックテイストなジーンズスタイルから、体にフィットした動きやすいスポーツスタイルにすっかり変わっていて、出会った頃とは雰囲気が全然違っていた。
「見せろ見せろー」
「静にしろっ、騒ぐなっ……分かったよ」
仕方なく俺は、コンビニの袋から雑誌だけを取り出してベッドの隅に置いた。すると、ルカが嬉しそうに雑誌に飛びついた。
こうしてみると、背中に翼がある以外は普通の人間にしか見えねぇ。
「ありがとー。えへへ、このプレイヤー特集がいいんだよな。イケメンがいっぱいでさ、目の保養だぜぃ」
そっちかよっ! テニスの事を勉強するんじゃねぇのか、まったく。
「じゃあ、リハビリ行って来るからな。それ読んで静かにしてろよ、いいなっ」
「はーーい」
雑誌から目を離す事無く、ルカはひらひらと手を振った。
動きやすい私服に着替えた俺は、空返事をしたルカに不安を抱きつつも病院へと向かった。
散々言い聞かせてあるから余計なことはしないと思うが、既に妹が帰宅している事ともうすぐ母さんが仕事から帰ってくる事を考えると、素直に安心する気にはなれねぇ。まあ、他の人には姿が見えないらしいから問題はないと思うが。
病院は、家から歩いて15分程の場所にあった。学校帰りにそのまま立ち寄ってもいいのだが、リハビリがある日は、制服に皺を付けなくないので私服に着替えてから行くようにしている。
病院の中は平日にも関わらず混雑していた。受付を済ませた俺は、そのままリハビリルームへと向かう。面倒な診察をしなくていいのが楽だ。
俺が通院する形成外科は、診察室の奥にリハビリルームがある。待合室をそのまま突っ切って、一番奥の扉へ向かうと、俺のリハビリの担当をしてくれている秋山先生がこっちを見て立っていた。
「智明くん、こんにちは。今日も電気からやろうか。じゃあ、先に入ってて、僕は準備してくるから」
「はい」
早口で言うと先生はスタッフルームへと入っていった。声もさることながら、物腰がものすごく柔らかい秋山先生は、短髪で背の高い20代後半の好青年といった感じだ。男の俺から見てもそこそこイケメンだと思うが、うらやましいとは思わない。俺は俺だ。
戻ってきた先生は、ボーっと突っ立っていた俺に優しく笑いかけリハビリを始めた。沢山の管のようなものを俺の足に貼り付ける。
「もう慣れたよね。電気が通っている間は他の物に触れないでね、通電するから。コレ終わったらウォーキングしよう。どう? 電気は強すぎない?」
「ああ、大丈夫」
秋山先生は、仏頂面な俺に対しても、いつでも笑顔を崩さない。こういう人達は、笑う訓練とかしてるんだろうか。俺には到底真似できない芸当だ。
ふと、ルカに言われた事を思い出した。
『智明はもっと笑えよ。笑うだけで自分も周りも幸せになれるんだぞ。笑顔は、最強にして最高のラッキーチャームなんだぞ? 知ってたか?』
そう言って、ルカは遠くを見るような目でくすくすと笑っていた。何がそんなに可笑しいのかと思いながら、俺は、そんな簡単に笑えるかっと突っぱねた。
そういえば、ルカも良く笑う女だ。ノリが軽いとも言うが。とても天使などという宗教じみた存在には思えない。
だからかもしれない、俺はどこかでルカは人間なんじゃねぇかって思っている。
確かに、バス事故の時を含めて2回、あいつは俺の前から突然消えたり、現れたりしているが、それも何かのトリックを使ったもので、誰かとつるんで俺に絡んでいるだけなんじゃねぇかって思ったりしている。事実、あいつは翼があると言いながら、俺の前で飛んだ事は一度もない。
でも――
――――何のために?
そんな事する理由が何処にある? さっぱり検討もつかない。俺にだって、ルカにだってメリットがあるとは思えない。じゃあ、あいつは……ルカの目的はいったい何なんだ?
筋肉を解す為の電気治療が終り、セットしたタイマーが鳴ると、秋山先生が機材を片付けに近づいてきた。丁寧かつ優しい手付きで俺をウォーキングコーナーへと促す。
「じゃあ、とりあえず普通に歩いてみて。あ、膝は痛みがない程度に曲げてね。姿勢は気にしなくていいよ」
じっくりと俺の足を値踏みするような視線を受けながら、ぎこちない空気の中リハビリは進行していった。
その間俺は、ずっとルカの目的について思案していた。