第6話
スライスサーブ教えてくんない? 守護霊女はそう言った。
「スラ……イス、サーブ……? なに言ってんだ? つーか、お前、どっから入りやがった!?」
俺は混乱してた。勝手に部屋に入り込んでいる女。
ありえねぇ。
「んと、窓? っていってもすり抜けたから開けてないけど。便利だけど、ちょっと変な気分なんだよな……」
意味が分からない。
相変わらず、女はケラケラと軽く笑う。
女が、現れなくなってから2週間が経っていた。てっきり俺の守護霊をやめたか、それとも気弱な俺の幻覚なんだとばかり思ってた。守護霊なんて都合のいいものが、存在するわけねぇんだし。
なのに……何でこいつは、ここにいる? 本当になんなんだ?!
「……何してんだ? 人の部屋で」
俺は、やっとのことで質問した。
「ああ、うん。だからさ……こないだの事、智明に謝ろうと思って。だけど……謝るだけじゃダメだと思ったんだ。だから、あたしもテニスしてみたんだけど……」
女は俯きかげんで話す。時々、背中で翼が小さく揺れていた。
手にした水色のラケットを見ると、メジャーなメーカーもので水色をベースに黒が配色されたレディースモデルだった。
「……テニスしたのか……?」
驚いた俺を見て、女は苦笑した。
「うん。でも、全然ダメだった。ラケットには当たるようになったけど、コントロール難しいし、ボレーとかすぐネットになるし、サーブは遅いし。テニスって難しいんだなぁ」
両手で抱えたラケットのフレームに顎をのせて、小さく溜息をつく。
もしかして、あれから、ずっと練習してたのか。わざわざ? 俺に謝る為だけに。
あの時、八つ当たりしたのは俺の方だった。なのに、先に謝罪された……。
俺は、女の横顔を見ていた。大きくはないが黒いハッキリとした瞳に、長い睫毛が被さっている。すーっと通った鼻筋と細く綺麗な曲線を描く顎のライン。窓から差し込む西日が顔に影を落とすせいで、なんだか悲しげに見えた。
すると、女が顔を上げて、俺は女の瞳を正面からまともに見る破目になった。
心臓がドクリと跳ねた。一瞬、息が止まったかと錯覚した。
「智明?」
「っ…………テニスに限らず……簡単なスポーツなんかねぇよ」
何言ってんだ俺?
言いながら視線を逸らした。
違う。そうじゃねぇ。悪かったって言えよ。
「そりゃそうだ。あたし、球技苦手だからなぁ。水泳なら得意なんだけどさ」
俺には、女の言葉は届いちゃいなかった。
ただ謝るだけじゃねぇか。簡単だ。悪かったって言うだけだ。わりぃでもいい。
けど、女を見ると何故か言葉が喉で詰まった。
「……スライスサーブを打ちてぇのか?」
「打ってみたいっ! だって、跳ねないから打ちにくいんだろ? 相手がっ」
女は無邪気に言った。
「……テニスの事を自分で調べたのか? ラケットまで買って? 守護霊が何でそこまでするんだよ?」
俺が質問した途端、女の顔から笑顔が消えた。
「まあ、守護霊ってのは本当は違うし。幽霊と天使の間ってとこかな。本来はこうやって人前に出ちゃイケないらしいんだけど……やっぱ、迷惑だったかなぁ? 良く言われたんだよな……親切でも、必ずしもその人が喜ぶとは限らないって」
「……俺の怪我を治すつもりだったとでも、言いたいのか?」
女は答えなかった。
「……テニスはね、図書館とかで本を閲覧させてもらったんだ。あ、夜中にこっそり見たのは悪いと思ってるから謝るけど、本屋で売り物触るよりいいよな? ラケットは、訳を話したら仲間が作ってくれたんだ。すげぇっしょ?!」
「仲間? 仲間がいるのか? お前と同じ守護霊が?」
「うん、まあね。でも、守護霊じゃないって。天使だよ。もっと翼が大きくて、何でもできるんだ。それに比べたら、あたしは何にも出来ない。天使になったばっかりってのもあるんだけど。でも……上から見てるだけってのは…………」
だんだんと声が小さくなって、そのうち、女はしゃべらなくなった。
俯いてはいないがどこか遠くを見てるような視線は、女が今にも泣くんじゃねぇかって、俺は慌てた。
「……わりぃ……」
言えた。今度はすんなりと、言葉が口から出てきた。
謝ってる内容は違うが……。
「違うっ、智明のせいじゃないっ。ごめんっ! あたしが自分で沈んじゃってどうすんだよっ、あはは。そんなことより、テニスしよう。な? 智明」
明るく振舞い始めた女は、俺を期待するような目で見ていた。
けど、俺は……。
「できねぇよ。俺は、走れねぇんだ」
「……うん。知ってるよ」
「じゃあ――」
「でも、テニスしたいんでしょ?」
俺の言葉を奪い取った女は、強い視線を外そうとはしなかった。
「走らなくても、テニスすることはできるよ。コートに立つ事だけがテニスじゃないだろっ。生意気な事言ってるかもしんないけど、テニスしたいのに、その気持ちを隠そうとしてる方がおかしいよっ。テニスしたいって言えよっ! 智明!」
何も言えなかった。こいつの言ってることはいちいちムカツク。
でも、間違っちゃいねぇんだ。
俺は、テニスがしたかった。
「……グリップは? セミウェスタンか? それとも――」
「は? セミ? ウェ……? 何て?」
「だからっ、グリップはどうやって……って、お前まさか……おいっ! ラケット握ってみろっ! いいから言われた通りにしろっ、早く!」
「わ、分かったよっ…………はい、これでいい?」
案の定、女は水色のラケットを両手でギュッと握っていた。
「何だっその握り方はっ?! それじゃ野球じゃねぇかっ! そうじゃねぇっ。本当に本で調べたのかよっ?」
「んと……サーブの打ち方とか? ボレーとか? 線の中に入れればいいんだとか?」
読んでねぇな、こいつ。普通のテニス解説ならグリップの説明は書いてある筈だ。
「スライスサーブはまだ早い。とりあえず、グリップを固めるぞ」
ブーブーと文句を言う女をよそに、俺はテニスのDVDと専門雑誌を取り出してベッドに広げた。
すると、女は俺の顔を見て言った。
「あたし、ルカっていうんだ。ヨロシク、智明」
満面の笑みだった。